逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

主イエスに明け渡す

2021-04-26 10:33:27 | 説教要旨
2021年4月25日 主日礼拝宣教
「主イエスに明け渡す」マルコによる福音書14章3~9節
 「先生」と呼ばれる仕事に就いて、多くのことを学んだ。その中の一つに、「ラポールの構築」というものがある。ラポールいうのはフランス語で、その意味は温かい人間関係ということで、温かい人間関係を構築することの大切さを学んだ。温かい人間関係とは、人と人、お互いが「自由に振る舞える安心感」をもって、「相手に対する尊敬と信頼の念」をいだき、「感情や意志の自在な交流・理解が可能であるような状態」を指す。一言で言えば「相互の信頼」。そこに「心のかけ橋」がかかるである。
 私は教員生活の中でいかにこの「ラポール」が教育活動に必要不可欠であるかということを教えられた。このラポールが成立していなければ、何を伝えようとしても伝わらないし、お互いがどのように努力してもなにもできないのだ。表面的なお付き合いか、互いが知らないうちに傷つけあうことにもなる。
 人間なんて不完全な存在だから、あらを探せばいくらでも出てくる。叩けばほこりも出てくる。このラポール、相互の信頼が成立していないと、互いにあら探しや引っ張り合いになることだってありえる。逆にこのラポールさえ成立していれば、大抵のことは大丈夫、失敗だってお互いに受け入れられる、ということになる。赦し合えるようになる。
 ラポールは、相手の感情を無条件かつ積極的に受容していくことから始まる。愛想の良い態度や分かった振りよりも、まず自分の心を開き、内的世界を開示し、その開かれた心に相手の葛藤を引き受ける態度を示していくことが肝要である。
 さて、長々とラポールについて述べたが、今日の聖書箇所でラポールが構築できたのは誰と誰の間だろうか。ここでは、「重い皮膚病の人シモンの家」で、「事件」と言ってもよい出来事が起こる。一人の女が高価な香油を大量におしげもなく主イエスの頭に注いだ。「頭に香油を注ぐ」行為とは、メシア(油注がれた者)としてユダヤの王が就任する戴冠式の際に行われる儀式である。彼女は、象徴的な意味を込めて、それをまねてやったのかもしれない。しかし、決して遊び半分でというのではない。「純粋で非常に高価な」と表現されているのに重なるように、彼女自身「まじりけのない姿勢と心」でそれをやったのではないかと思われる。彼女の主イエスへの精一杯の思いがあらわされた行為といえるだろう。
 そして、それは「壺をこわし」て行われた。わざわざ壊すこともないのにだ。だから、それは異常ともいえる極端な行動であり、計算や計画を寄せ付けない行為と受け取れる。その瞬間にあるものすべてを献げる。それは、彼女の「持ち物」を超えて、「彼女自身」を主イエスに献げる行為ともいえるような迫力を持っている。しかも、「こわす」という表現についてまわる「犠牲」や「痛み」を伴っている。
 しかし、おそらく当人にとっては、その瞬間は、そうしたことなどをいろいろ考えたあげく、決断に踏み切ったというのではなく、思わず行ったのに違いない。8節の「この人はできる限りのことをした」とあるが、岩波訳では「この人は思いつめていたことをしたのだ」とも訳されている。あれこれ考え始め、論理的整合性がどうのこうのと言いはじめたら、からだは動かなくなる。彼女はそうせずにはおれないほどの内から湧き溢れる喜びを感じていたのだと思う。そこに、弟子たちと彼女との間にあるギャップがあらわになってきたのだ。
 人々は彼女の行為に非難をあびせる。その非難は、お金の無駄使いの面にとどまらず、彼女の「貧しい人たち」を顧みる配慮の足りなさにまで向けられていった。人々は、当然の反応、正当な批判を彼女に向けたのだ。確かに人々の彼女への非難には正当性がある。だからこそ、主イエスも「なぜ困らせるのか」と言われたのだろう。「正論」であればこそ、返答に窮するのである。しかし、主イエスは、計算された正論よりも、常識を打ち壊すほどの大胆な「献げる行為」の方を喜ぼうとされた。「この人はできる限りのことをした」(8節)。それを主イエスは「私によいことをしてくれた」(6節)と評価し、受け入れられる。「貧しい人々に施すか、主イエスに献げるかの二者択一」の問題ではないのだ。「貧しい人たち」を顧みる奉仕は、主イエスが7節で「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」(7節)と言われたように、弟子たちの務めとして適切になされるべきだろう。
 彼女の行為は、「無駄遣い」とも取れるほどに、無謀であったかもしれない。しかし、この一瞬の「事件」が主イエスを「メシア」と証し、「埋葬の準備をしてくれた」(8節)という仕方で「十字架の死」に仕えることになるからこそ、主イエスは喜んでそれを受け入れられたのだ。
 彼女は主イエスの愛に対して、何としてもそれに応えたかったのだ。神の愛を知った喜びがそうさせたのだ。そして、そのことが「十字架の死」に仕えることへとつながっていたのだ。主イエスはかつて、ある律法学者に対して第一の戒めとして、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われた。彼女は主イエスに対して心と精神と思いと力を尽して、香油をささげたのだ。いや、彼女自身を献げたのだ。その思いを受け入れた主イエスと彼女との間に「ラポール(相互の信頼)」が構築されていったのではないだろうか。心の架け橋はいつも主イエスからかけられる。そのおかげで、私たちは主と共に生きることが許されているのである。

信仰・希望・愛

2021-04-20 10:45:48 | 説教要旨
2021年4月18日 主日礼拝宣教
「信仰・希望・愛」 マルコによる福音書 13章3~13節
 マルコによる福音書13章は小黙示録といわれ、主イエスが終末について語られたことが記されている。3節から13章の終りまでには、世の終わりと、キリストの再臨について記されている。
 弟子たちは、終末がいつ来るのか質問した(4節)。主イエスはそれに対して、「気をつけなさい」(5節)と言われる。その後も9、23、33節に繰り返し「気をつけて」と言われている。それは、私たちはこの世の現実に惑わされて、神ご自身の支配、生ける神から目を離してしまうことがあるが、そうならないように神を見つめていくことが大切であることを教えている。終末がいつ来るかということよりも、私たちを造り、愛して下さる神を、どんな時にも見つめて生きていくことが、「気をつける」ということだと教えられる。
 私たちはイエス・キリストの十字架のメッセージにのみ耳を傾け、他のことに気を奪われないようになって初めて、この厳しい現実を生きていくことができることを知っている。困難や苦しみに出会う時、それは確かに苦しいが、そんな時にも、神が私を愛しておられるという聖書のメッセージを聞き続ける時、何にも惑わされることなく歩み抜けることができる経験を証しすることがでる。
 13節に、「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と書いてある。誰でも人に憎まれるのは好まないだろう。耐え忍ぶというのは、「がまんする」とは違う。耐え忍ぶというのは、神の支配、愛を信じて生きていくこと。聖書で言う「忍耐」とは、ただ辛抱しているということではなく、希望を持って生きることである。ロマ書5:3-5 に「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とある。
 パウロにとって、イエス・キリストが復活したときにキリスト教徒は救われるという希望は、カギとなる概念だ。先のパウロの言葉に、苦難、次に忍耐、そして練達、最後に希望とくる。最初の苦難と最後の希望の間には、忍耐と練達が入る。希望を持つ人は、苦難を克服することができる。それは、現実の苦難を忍耐することが将来の救いにつながるという考え方があり、その忍耐を耐える術を身に着けて練達されていき、希望につながるというわけである。その根底にはキリストの十字架に示された神の無償の愛が私たちに無条件で注がれているからに外ならない。パウロの言う通り、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」ということがすべての前提にある。
 だから私の人生がどんな人生であっても、神から愛されていることを信じるとき、私たちは希望を持って生きていくことができる。人は出会いによって生きる存在。独りでは生きられない。先週お話しした、コヘレトの言葉にあるプラスの算術である。私たちが、この知者の算術を心に深く留めようとするとき、思い起こすことは、イエス・キリストのプラス1の重さである。イエス・キリストの生涯を振り返る時、イエス・キリストがいかにマイナス状況の中にある人に、慰め、理解し、希望、勇気を与え、その人のプラス1になられたかを知り、改めて感動を覚える。その当時、様々に抑圧され、虐げられ、宗教的に、社会的にマイナスの存在とされた人々に対して徹底的受容を説き、そこを生き抜かれた。それがイエス・キリストである。
 聖書は、わたしたちに語りかけられた神のことば。神の言葉は先ほど言ったプラス1となられるイエス・キリストを指し示している。その聖書のことばに耳を傾け、聖書のことばと対話をする。その中で、人は生きる意味を教えられ、自分の存在意義に気づく。愛すること、信じること、希望を持つこと、支え合うこと、赦すこと……などなど。どれも大切。しかし、答えを自分の中に見出すには、限界がある。だから聖書に聴きつつ生きていくことが大事なのである。そして整えられて、神に用いられていく。皆さんにぜひそのような信仰と希望と愛を神からいただいて、喜びの生活へと歩んでいただきたい。

プラスの算術

2021-04-13 11:15:49 | 説教要旨
2021年4月11日 主日礼拝宣教
「プラスの算術」 コヘレトの言葉4章4-12節
 旧約聖書で宗教的に重要な働きをした人たちに中に、祭司、預言者、王、そして知者がいた。知者たちは旧約聖書の中で知恵文学といわれるコヘレトの言葉をはじめ、ヨブ記、箴言などの形成の母体となった人たちだ。彼らが目指したのは、新約聖書の第二テモテの手紙3章16節に「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導く」ことに労することだった。この知者のことをヘブライ語で「コヘレト」と呼んでいる。固有名詞ではない。
 さて、今日はこの知者、コヘレトの言葉の4章4節から12節の御言葉からメッセージを受け取りたいと思う。4-8節は、人が独りで、仲間のない時の空しさ、また人がバラバラで、互いにそねみ、ねたみ、自分の利益のみを追求する時の空しさについて語っている。つまりマイナスの算術だ。
 しかし、その後の9節以下はプラスの算術である。9節「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。」人生において二人は一人に勝る。二人が労する業には良い報いがある。この知者は、二人が一人に勝るということを10節以下、例で示しながら語る。
 10節「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。」転んだ場合、それを助け起こす友がいる人は幸いである。しかし、転んでも助け起こす者がいない人は災いだ。二人は一人に勝る。
 11節「更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。」二人で寝れば、暖かい。これは、古代において旅行した人が寒い夜に体を寄せ合って寝て、暖め合うことを言っているのだろう。それにしても人のぬくもりは何と大きな安らぎ、慰めを与えることだろうか。最近、老人ホームなどでは、動物セラピーというものが多くのところで取り入れられていると聞く。高齢者の方々が、大変嬉しそうに犬や猫たちを抱きしめたり、触ったりしているのをテレビで見たことがある。孤独で人と人との肌のふれあいの少ない高齢者たちにとって、それは大きな安らぎと心のやわらぎになっているようだった。とにかく、肌の触れ合いは心を暖める。
 12節「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」一人で立ち向かえず、また負けてしまう敵でも、二人でなら、それに立ち向かうことはできる。三つよりの綱はたやすく切れない。人は、一人ひとりでは無力であり、バラバラでは強い敵に当たることはできないが、団結する時、結束する時、外からの攻めに対して、また困難や危機に対してよく耐えることができる。
 人生において、1+0は、単なる1ではない。1を下回る。人が一人であって、助け手、理解者、慰め手もいないとき、それは時には生きる希望を失わせ、死を意味する時がある。あまりにも空しい。
 その一方で、人生において1+1は、単なる2ではない。それは慰めであり、力であり、希望の源泉となる。人生において1+1+1は、単なる3ではない。それは慰めと勇気と希望を与える結束の力である。
 空の空、空の空、いっさいは空である。人の人生ははかなく、短い。そして人は脆く、弱く、限界を持っている、とコヘレトの言葉の冒頭の1章で知者は言う。しかし、同時に人が寄り添い、連なり合って、労苦するとき、報いがある、とここで知者は言う。
 さて、旧約聖書はそれ自体では完結した経典ではない。キリスト者にとって、それは新約聖書へと開かれた書物である。私たちが、この知者の算術を心に深く留めようとするとき、思い起こすことは、イエス・キリストのプラス1の重さである。イエス・キリストの生涯を振り返る時、イエス・キリストがいかにマイナス状況の中にある人に、慰め、理解し、希望、勇気を与え、その人のプラス1になられたかを知り、改めて感動を覚えるのである。その当時、様々に抑圧され、虐げられ、宗教的に、社会的にマイナスの存在とされた人々に対して徹底的受容を説き、そこを生き抜かれた。
 イエス・キリストは、このプラスの算術の貫徹者である。この方こそ、人の真の理解者、人に伴われる人であった。旧約聖書の説く、ヘブライ語のヘセド、慈愛の具現者である。
 目には見えないが、神は苦しみを共に苦しんでいて下さる。かけがえのない皆さんお一人おひとりと共に、神は苦しみを共にして下さっている。それを示して下さったのはイエス・キリスト。
 キリストの教会とは、目には見えないが、今も私たちと共にいてくださるイエス・キリストと心を共鳴させ、プラスの算術を生きている信仰共同体である。私たち逗子第一バプテスト教会もキリストと共にプラスの算術に生きる教会として、地域に、隣人にプラス1となれるよう励みたいと思う。

復活のいのちに生きる

2021-04-05 14:41:42 | 説教要旨
2021年4月4日 イースター礼拝宣教
「復活のいのちに生きる」 コリントの信徒への手紙一15章35-57節
 今日はイースターで、主の復活を感謝し、喜びの時。この時、私たちの信仰の核 心である「復活」について、パウロの手紙から教えられたいと思う。
 キリスト教でいう「復活」とは何か?そう自問自答する時もあるし、人から聞かれることもある。パウロも言っている。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」(35節)。私たちのこのような問いは、物理的な復活、墓場からの復活を期待しているかのようだ。物理的に客観的に他人事のように問うている。この質問に対して、パウロは、問い方が間違っている、「愚かな人だ」と言っている。
 では、パウロは復活についてどう説明するのだろうか。それが37節以降である。まず、種のたとえを用いて説明する。人が蒔くのは「ただの種粒」。しかし、その種粒から芽が出て、実へと成長するのである。つまり、種の死を通して、新しい芽が生き、豊かに実るのだ。さらに、種だけではなく、命についても、このことが当てはまると言う。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(44節)と言っている。まず、自然の命の体、生物的生命が与えられ、そこから芽が出て、やがて、霊の体になる、というわけだ。さらに、42-43節では、「朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものに復活する」とも言っている。復活によって、霊の体となり、命が生き生きと輝いてくるのだ。朽ちるしかない命が、霊の体として力強く生き始めるのである。これがパウロの復活論である。キリストを信じる信仰によって、古い自分が死に、希望をもって新しい命に生きる、ということである。
 よく私たちは「あの人は化けたな」とか、「一皮も二皮もむけて、変わったな」と言って、良い評価をすることがある。私たちの人生においても、その人が何かを習得したり、感得したり、厚い壁を突破したりして、良い方に大きく変化することがある。言いたいことは、人間は変化することがあるということ。
 復活ということも、変化するということにおいては同じではないだろうか。要するに、復活とは、霊的なものへの変化であるということ。ちなみに、この箇所には「今と異なる状態に変えられる」「私たちは変えられる」「朽ちないものに復活」「霊のからだ」「天に属する」「朽ちないものを着る」「死なないものを着る」などという言葉が使われている。復活とは、霊的な命への変化を意味する。そして、一人ひとりの、霊的な命への変化が「神の勝利」なのである。というのは、私たちはもはや罪や死に服従しなくてもよいのだ。罪に定められた命だけれども、死と罪から解放されて生きる、希望をもって生きることができるようにされていくのだ。これがキリスト者の自由、希望である。罪に打ち勝つ勝利である。なぜなら、キリストによって罪は贖われたからである。神の勝利とは、イエス・キリストを通して、一人ひとりが永遠の命に与れること。それゆえ、私たちは、罪と死と絶望から解放されて生きることができるのである。
 勝利の様子が、42-43節に書かれている。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活する」。この個所の「復活」を「変化」と読み替えてみよう。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに変化し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに変化し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに変化する」。これは励ましと慰めの言葉である。神を信じて生きる。それが私たちの命の本質である。神の導きに従って、喜んで生きる。感謝して生きる。これが復活の命、霊の体、永遠の命、神の勝利である。
 復活の命に与ろう。一人ひとりに、いろいろな困難、苦しみ、悲しみ、絶望はあるが、その私たちに命を与えてくださるのがキリストである。キリストを通して、復活の希望が与えられている。一人ひとり、生きるに値する命である。そして、なによりも私たちが復活の命に生きることを神は誰よりも望んでおられるのである。

疑いは純粋性のあかし

2021-04-05 12:04:41 | 説教要旨
2021年3月28日 主日礼拝宣教
「疑いは純粋性のあかし」 ヨハネによる福音書20章19-29節
 トマスの言動が具体的に記されているのはヨハネの福音書だが、最もよく知られているものは主イエスの復活をめぐる場面のところである。彼は復活の目撃者の報告だけでは納得せず、実際に手とわき腹の傷に触れてみなければ信じないと、懐疑的な態度を示したという話だ。私が興味を抱いたのは、主イエスが復活した日の夕刻、弟子たちに姿を現されたとき、トマスがそこにいなかったことだ。
 不在の理由は記されていないのであくまで推論の域を出ないが、もしかしたら、ある聖書学者たちの言うように、トマスは主イエスの死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく「傷心のあまり会うに忍びなかった」のかもしれない。もしそうだとすれば、彼の不在は心の優しさの表れと言ってもよいだろう。悲惨な現実にふれて泣き崩れ、立ち上がれないような人は弱い人というのではなく、心の優しい人だ。言い換えれば、彼は愛の深い人だったということである。愛の深い人は悲しみも人一倍深く感じるからである。
 ところで、不在の理由が「傷心」でなかったとしても、トマスに関するもう一つの記録は彼の心を推察する手がかりになるのではないか。それは、ベタニヤに住むマルタとマリヤの兄弟ラザロが病気であると伝えられた時、主イエスの「さあ、彼のところへ行きましょう」という呼びかけを聞いて、トマスは他の弟子たちに「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と言っていることからわかる(ヨハネ11章)。トマスはこの時期にエルサレムと近距離にあるベタニヤに行けば、主イエスを捕らえようとしていたユダヤ当局により殺害される可能性を予想してそう言ったのだろうと思う。殉教してもいいというわけだ。
 このようなトマスの発言をどう解釈したらよいのだろうか。一時的、反射的な反応と言ってしまえばそれまでだが、仮にそうだったとしてもなんと勇気のある態度だろう。というより、主イエスをなんと愛していたことかと私は思ってしまうのだ。彼の精いっぱいの主イエスへの愛が表れているのではないだろうか。
 では、トマスが主イエスの復活のニュースを知らされたとき、なぜ「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったのだろうか。ここで人は「懐疑論者」というラベルを貼る。しかし疑うという行為は反対から見れば信じたいということであり、信じられる証拠がほしいということは何としても信じたいという、複雑ではあるが信仰のもう一つの側面でもあるだろう。対象との関係が深いと言ってもよく、これは人間関係でも同じ。愛や信頼関係が形成されていく過程では疑いや不安の波も生じるのである。
 ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑からまぬがれることを求めるものではなく、いろいろのためらいや錯誤、数々の失敗や間違った出発によって手探りで進むものである」(『強い人と弱い人』)と言っているが、懐疑をこのように理解することは求道や信仰に対する健全な態度であると思う。
 私がトマスに親しみを覚えるのは、このような純粋性である。このようなトマスなら何でも話せるような気持ちがする。なぜなら、そこに愛と純粋性を垣間見るからである。このように親しみを覚えるトマスだが、彼はその後に「わたしの主、わたしの神よ」と思わず主告白をする。それは主ご自身からのトマスへの働きかけがあったからだった。トマスはよく知っている主イエス、そのお方に間違いないかどうか確認したかったのだ。主イエスはその思いというか、疑いを拒否することなく、トマスに手と脇腹をお見せになり、触ることすらも許されたのだ。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに勧められたのである。そこでトマスは思わず「わたしの主、わたしの神よ」と告白せざるを得なかった。主はトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。
 トマスは見る前に、弟子たちからの証言を聞くことで主を知る機会があったことを知らねばならない。私たちもまたパウロの言葉、「信仰は聞くことによる」(ローマ10:17)を思い出す必要があるだろう。同時に聞くことで信仰を得た人は、主から幸いな人であると言われていることを知らねばならない。主イエスのトマスに対する深い憐れみと愛は、疑い深い私たちに今も注がれている。そして主イエスは今日も私たちに呼びかけておられる。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。