逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

信頼と決断

2024-04-08 11:16:06 | コラム
 「風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。」(コヘレトの言葉11:4)
 風向きが悪いから見合わせる、雲行きがあやしいからやめておく――そうやって慎重すぎる人はチャンスを失ってしまう。状況が理想通りになる時などない。神を信じて思い切る決断なしにいかなる善もできない、ということ。信仰は決断。
「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。」(第二テモテ4:2)
 要するに人間の都合、考え、判断でなく、神に信頼し最善を尽くせということ。伝道は神の働き、神に信頼して進めるしかない。教会は、神に期待しないで誰に期待する?  

教会につながり実を結ぶ

2024-04-08 11:12:06 | 説教要旨
2024年4月7日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「教会につながり実を結ぶ」 ヨハネによる福音書15章1~10節
 今朝は皆さんがよくご存じの、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその
枝である」と主イエスが話された個所から教えられたいと思う。
 主イエスはご自分のことを「ぶどうの木」に、私たちを「その枝」に例え
て、主イエスと私たちとの切っても切れない関係について語っておられる。
「ぶどうの木」は複数の大人が手を広げても届かないほどの大木ではなく、
根元の一番太い部分でも20㎝ほどの太さだから、「細い木」の代表と言え
るかもしれない。それなら「ぶどうの木」から生え出る「枝」はどうかと言
えば、見るからに細く、弱々しく、頼りないもの。ぶどうの実がたわわに実
っている映像や写真を見た人も多いと思うが、ぶどうの木に繋がる枝は実を
結ぶとき、実が重すぎて自ら持ち耐えられず、ぶどう棚でその実をやっと支
えてもらっている。
さて、主イエスは、なぜぶどうの木とその枝を引き合いに出されたのだろ
うか。旧約の時代、ユダヤでは犠牲の供え物を祭壇に焼くための「焚き木」を神殿に持参せよとの律法があった。その中に「ぶどうの木」とその「枝」だけは持参するなとの但し書きがあったそうだ。ほかの木々をイメージすれば、種々用途があり、「焚き木」にするなどもったいないと考えられるが、ぶどうの木や枝は焚き木の役にも立たないというのである。これは「わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)ことのみ言葉の意味を際立たせている。
 ここで、主イエスは、あなたがたは「ぶどうの木」である私に「つながる」
ことによって、「豊かな実」を結ぶことができる、すなわち、あなたがたは
弱く、ちっぽけな存在だけれど、しっかりと主イエスに繋がって歩む時、主
イエスから溢れる力と恵みをいただいて、豊かな実を実らせることができる
と語っておられるのではないか。
 ところで、主イエスとつながるとはいったいどういうことだろうか。具体的に何に繋がることなのだろうか。イエス・キリストは教会の頭であり(エフェソ5:23)、教会はキリストの体である(エフェソ1:23)。だからイエス・キリストに繋がるとは教会とつながることと言ってよいだろう。この教会は建物のことではなく、そこでなされる礼拝であり、福音宣教の業全てを指す。礼拝では祈りがあり、賛美があり、み言葉が語られ、証しがなされ、感謝と献身の応答である献金が捧げられます。
 さて、主イエスは5節で「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。」に続けて、「人がわたしにつながっており、わたしもその人に繋がっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と約束されている。では「豊かに実を結ぶ」という「実」とは何を指しているのだろうか。それはその後の主イエスのみ言葉を読むと、10節に「あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まっていることになる」と言われているし、さらに、11節では「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。」とあるから、「豊かな実」とは、「愛」「喜び」であることが分かる。ガラテヤ書の5章22-23節には、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和……」(ガラテヤ5:22・23)とある。
 教会につながり、豊かな実を結ぶ人生を歩んでいこう。

私にとってガリラヤとはどこか

2024-04-01 14:46:26 | 説教要旨
2024年3月31日 逗子第一教会 イースター礼拝宣教
「私にとってガリラヤとはどこか」 マタイによる福音書28章1~10節
 主イエスが十字架に息絶えられた時、すべては終わったかのように思われ
た。まさに暗黒が世を覆ったのだった。すべてを捨てて従った弟子たちにと
っては、前途に不安と恐怖のみがつのる絶望の暗闇であったに違いない。し
かし、暗黒を引き裂くように朝の光が射し込む時、すべてが変えられるよう
に、週の初めの朝早く墓に急いだ女性たちに、「恐れることはない。十字架
につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられな
い。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(5-6節)という言葉が
告げられる。新しい時が始まったのだ。これが復活の出来事。復活の出来事
は天使によって告げられた。それは神からの宣言であることを表している。
だから、私たち人間がその出来事を証明したり理解しようとしてもできるも
のではない。それは神の出来事だからだ。私たちはただそれを聞き、承認し
て、受け入れ、信じるだけである。
 2節に「すると、大きな地震が起こった」とある。マグダラのマリヤたちは、誰が墓の石をのけてくれるだろうかと案じながら、イエスの遺体に香料を塗るために墓の所へ来たのだった。その時、石は地震によって転がされた。神は信じる者に対して、天を動かし、地を震わせて道を備えてくださるということをこのところから知ることができる。私たちにはもちろん天を動かすことも地を震わせることもできない。しかし神は、信仰生活をしていく上で妨げとなる石を取り去ってくださるのだ。私たちは、何かをしようと思うことがあるが、あの石があるからできないとか、あの石が邪魔だとか言うことが多いものだ。しかし、神がおられる世界なら、心配することはない。私たちは人間の限界ある中で物事を考えようとするが、私たちの信仰は、神の支配される世界の中でなされることであることを忘れてはいけない。それはどういうことかというと、何事も神に信頼し、神にゆだねて、神に期待して、行うということである。
 10節に「ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう」とある。女性たちに語られた主イエスの言葉である。イエスは弟子たちにガリラヤに行けと言われた。ガリラヤは、弟子たちにとって故郷である。だからガリラヤに帰れというべきではないだろうか。それをなぜ「帰れ」と言わずに「行け」と言われたのだろうか。それはイエスの復活に出会い、新しく使命を与えられた者には、もはや帰る世界はなく、「行く」世界だけであるということではないだろうか。パウロが第二コリント5:17で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」という世界であり、人生なのである。
 そしてガリラヤに行った弟子たちは、そこで待っていて下さった主イエスにお会いする。16,17節に「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた」とある。よみがえられた主イエスにお会いしながら、主イエスを礼拝しながら、弟子たちの中に疑いがあったのだ。福音書はそれを隠さず書く。本当のことだからだ。しかし、復活された主イエスは、その疑いを抱いた者たちを排除されない。その弟子たちに主イエスは近づかれる。およそすべての福音書の記述によれば、よみがえられた主イエスに弟子たちの方から近づいた記事はない。すべて主イエスの方から近づいてくださるのである。当惑する弟子たち、疑っている弟子たちに、主が近づいて声をかけてくださるのである。そしてご自身の復活の事実を明らかにしてくださる。このようにして確かな復活の信仰に根ざす教会の歴史が始まったのだ。キリストの教会は、この主イエスの方から近づいてこられることの出来事を宣べ伝えてきた。私たちのところにも主が近づいて来て、疑いを取り去ってくださったのである。
 では、私たちにとってガリラヤとはどこか、ガリラヤへ行くとはどういうことか。それは、私たちが復活の主に出会い、礼拝する場である。そして、その礼拝の場からすべての民へと遣わされていくのである。私たちはこの復活の主によって、集められ、遣わされるのである。そして復活された主は、いつも私たちと共にいてくださる。だから、恐れず、喜んで主を証していこう。