逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

感謝ってな~に?

2023-11-28 11:19:49 | 説教要旨
2023年11月26日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「感謝ってな~に?」テサロニケの信徒への手紙一5章16-18節
 今朝の説教題にずばり「感謝ってな~に?」という題をつけた。教会では何かにつけ「感謝、感謝」って言う。なぜ感謝をいつも口にするのだろうか。聖書から、感謝について考えてみよう。
 私たちが感謝するのは、有り難きことが有り得たからだろう。「有難い」。それだけではない。神が求めていることでもあるからだ。「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とある〈5:18〉。でも、「どんなことにも」と言われると、ちょっと厳しいなとか、無理ではないかと正直思う。感謝できることだけに感謝し、感謝できない時は不平不満をぶつけたり、つぶやいたりするのではないだろうか。そこなんですね。感謝できない時こそ、神あっての私、主の犠牲あって私は今日あるを得ていることを思わされ、「にも拘らずの感謝」へと導かれていくのだ。感謝の根本には「神の恵みによって今日の私がある」(第一コリント5章10節)との信仰があるからである。それと感謝するには素直さと率直さが必要。自己の無なることを潔く認め、この無なる者を有としてくださる神を思う心である。
 先ほど、感謝の底に神の犠牲、主の執り成しを思うことが肝要だと言ったが、詩篇の50編14節、23節に「感謝のいけにえを神にささげよ」とある。感謝はいけにえでもあるのだ。感謝することによって人間は人間になるのである。人間だけが感謝できるからだ。どんなことにも感謝していきたい。
 「感謝」に関する素敵な文章がある。「幸せなことがあれば感謝するのは当然ですが、もしそれだけのことなら、感謝とは、自分にとって幸せか否かだけで人生を選別する、まことに身勝手な感情に過ぎないことになります。しかし感謝とは、そんな自分本位の小さな感情ではない筈です。それは、人生の大きな包容の中にある自分を発見することなのです。それは一つの自己発見であって、幸福に誘発された感情ではないのです。そして、幸・不幸を越えて包容する大きな肯定の中に自分を発見した人は、すべての事態を受けとめるでしょう。感謝する人は逃げない人です。」(藤木正三著『断層 神の風景-人間と世間』から)。
 私たちが、今与えられているもの、またこれまで備えられてきたものすべてに感謝する心を持つことは、とても大切である。そんな感謝の心が、私たちに生きる力、困難を乗り越えていく力を与えてくれるのではないだろうか。
 次に感謝に関する二つの話をしたい。一つは収穫感謝の話。秋は実りと収穫の季節。私たちの教会では特別に収穫感謝礼拝というものを行っていないが、多くの教会では行っている。教会でのこの習慣は、直接的にはアメリカの教会から伝えられたもの。
 北アメリカに移住した最初のピューリタン(清教徒)たちは厳しい自然環境の中で、先住民の援助を受けながら移住地での最初の収穫の季節を迎えた。それまでに死んだ多くの仲間がいたと言われる。しかし彼らは、最初の収穫を得た時、それを捧げて神様に感謝した。季節は11月の下旬で、以来アメリカの教会ではこの時期に収穫感謝祭を祝うようになった。
 しかし、収穫感謝祭は、もっと広く多くの教会で、古くから祝われてきた。ヨーロッパやイギリスの教会では9月下旬に祝っていまる。さらに言えば、すでに旧約聖書の時代からイスラエルの民は収穫感謝祭を祝っていた。ペンテコステ(五旬節)の祝日は聖霊降臨日になる以前は小麦の収穫感謝の日だった。このように先ほども言ったが、人間は昔から感謝する心を持っているのである。
二つ目の話は「残り柿」という話。晩秋を迎え、教会の庭の柿の木も豊かな実りをもたらした。何の手入れもしないのに、たくさんの柿の実をいただいていると申し訳ない気持ちになる。誰に対して申し訳ないのだろうか、とふと考えたりもする。
 日本の各地で習慣として、柿を収穫する時に3,4個、時には10個、20個と柿の実を残すそうだ。それは、餌の少ない冬場に鳥たちの食物になるからである。それを「残り柿」というそうだ。このような心やさしい風習があることを知ったのは大学生の時だった。
 大学での授業で随筆の『残り柿』という文章を学んだ時だった。その随筆は、四国の寒村の晩秋の風景がつづられ、村の人々が自分たちのひもじさを我慢しながらも、鳥たちのために柿の実を残す風習がつづられていた。都会育ちの私には鳥のことなどに思いいたらない。実ったものは全部収穫するのが当然と考えていたので、そのような心貧しい、想像力の欠けた自分を恥ずかしく思ったことだった。
 聖書にも同じようなことが書かれている。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ記19:9-10、申命記24:19-22参照)。
 いわゆる落ち穂拾いの規定である。収穫物の一部を寄留者、孤児、寡婦と分かち合うべきであるという。これら三者は農地を持てず、生活上不利であった。古代社会なりの一種の社会保障である。その動機は、出エジプトという救済史の出来事にある。さらに、この規定には、土地は神のものであり、土地所有者も土地を持たない貧しい者も共に神の恵みに与るべき、という思想がある。共に生きるという原点でもある。神の愛はすべての者に及ぶもであるということ。柿の実のみならず収穫物は収穫の主、神に感謝して共に分かち合って食べたいものである。
 

私に従って来なさい

2023-11-20 12:21:49 | 説教要旨
2023年11月19日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「私に従って来なさい」 マルコによる福音書1章14-20節
 今朝の聖書箇所に先立つ部分で主イエスはサタンから誘惑を受けられた(1:13)。だから、主イエスは、人間が誘惑に会う時の心が分かるし、私たちが誘惑に会うこと自体を悪いことだと裁いたり、悲しんだりすることはない。確かに誘惑は身近にあり、誘惑に会うことは一度ならず何度もある。それは物欲やお金、地位や名誉、支配欲であったりする。その中で、主イエスは私たちがサタンの甘い言葉に身を委ねてしまうことを心から悲しまれる。そこで、私たちがサタンの支配下におかれてしまうのではなく、そこから解放される道を示してくださった。それが、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(1:15)である。この愛の呼びかけを聞くことこそが、サタンの誘惑から解き放たれる道である。
 主イエスが来られたことによって、決定的な救いの「時(神の時)」が訪れたのだ。「神の国」とは、神の愛の支配するところ。神の支配が及ばないようなところはない。「悔い改める」とは、方向転換をして、神の呼びかけに耳を傾けること、「改心」。そして「福音を信じる」とは、神の無条件の赦しの愛を信じ受け入れ、その愛の支配の中で生きるということだ。その声を聞き、心を神に向けるときに、サタンの支配は崩れ始めるのだ。
 人生に荒野がなくなるわけではない。サタンの誘惑にさらされることがなくなるわけではない。しかし、荒野にも神の愛の支配は届いている。そのことを知って、神に信頼して生きる時、荒野もまた神の国になるのだ。そのことの具体的な話が次に出てくる。17節で主イエスはシモンとアンデレに「私に従って来なさい(口語訳)」と呼びかけられた。この招きに対して、弟子たちは「すぐに網を捨てて従った」とある。しかし、主イエスに従うということは、いつでも何もかも捨てて従うということなのだろうか。そうではない。仏教では出家という言葉がある。家を捨て、仕事を捨て、この世を捨てて、仏教の教えにひたすら従う。世捨て人ともいう。でも世を捨ててしまったら、どうして福音をこの世に伝えることができるだろうか。むしろ、この世と関係を持ちながら、共に生きながらこそ、神の愛を証しし、伝道できるわけで、そうあるべきではないか。主イエス自身も町や村々を歩き回りながら、教え、宣べ伝え、癒されたと聖書に書いてある。だから、29~31節からは、シモンが、家族との交わりを一切断ち切ったわけではないことが分かる。では、網を捨てて従ったとは、本質的には何を意味するのだろうか。それは主イエスの教えを第一として生きるということである。それまでの彼らにとっては、網が第一だった。網はまさに彼らの人生を支えるものだった。生活の糧、生活そのものだった。だからこそ、同時に網は彼らを縛るものでもあったのだ。
 主イエスの教えを第一にするということは、束縛を受けるような気がするが、主イエスに従う時、他のものに縛られなくなる。こだわらなくなるという感覚だろうか。この世のものから解放されると言ってもいいと思うし、肩の荷が下りる感覚でもある。第一のものを第一にするとき、かえって本当の自由が与えられる。主イエスの教えとは何だろうか。それは神を愛し、隣人を愛しなさいである。その教えに生きる人生である。その教えを第一としながら、自らの生活、人生を歩むことである。そして次に、家族や仕事やお金のことなどとどのようにして関わっていくかということがくるわけである。その関りは、第一のものを第一とする中から、おのずと示されてくる。
 また、網を捨てるということは、いつも主イエスと共にいることを意味する。むしろ主イエスと共にいるということが何よりもすばらしいことだから、網を捨てられるのだということが言える。主イエスと共に生きる時、平安が与えられ、慰め、励まし、生きる力、知恵、希望が与えられる。ぜひ、主イエスと共に歩む恵みを受け取っていただきたいとお勧めする。


つながる

2023-11-13 14:26:58 | 説教要旨
2023年11月12日 逗子第一教会 召天者記念礼拝宣教
「つながる」 ローマの信徒への手紙13章8-10節
  日本では最近、葬儀のあり方が随分変わってきている。家族葬が一般的になっていて、「小さなお葬式」をキャッチフレーズにしたテレビコマーシャルもよく流れる。また供養の仕方も変わってきた。ご先祖の墓を守る人がいなくて「墓じまい」をする人が増えたという話はよく聞いていたが、今度は「仏壇じまい」をする人も増えてきたという新聞記事が載っていた。仏壇じまいをする理由はやはり継承者がいないということと置く場所がないということだそうだ。しかし、仏壇がなくなっても故人とのつながりを持ちたいと考えている人も多い、とあった。つながりを持つために写真を飾ったり、手元供養をするために少量の遺髪や遺骨をペンダントトップに納めたりして、故人とのつながりを大切にしているそうである。やはりつながりは持ちたいという思いは誰にでもあるのだなと思わされた。
 教会ではどうだろうか。今日は年に一回の召天者記念礼拝である。信仰の先輩である故人を想い起しつつ、神さまが故人を通してなされた数々の恵みの働きに感謝し、併せて遺族の方々の慰めと平安を祈る礼拝である。大切にしたいと思う。しかし、よく考えてみると実は年に一回だけの召天者を覚えての礼拝ではないのである。礼拝とは毎回、今朝もそうだが、天上で行われている礼拝とつながって、この地上でも同じ神さまを礼拝しているのである。日頃はそのような思いを持つことは少ないが、実はそうなのだ。イエス・キリストを通して、つながっているのだ。一言でいえば、すでに天に召された人も天において神さまと共にいて愛されて礼拝している。私たちも同じく神さまが共にいてくださり、神に愛されて礼拝している。愛によってつながっている。愛とはつながりなのだ。
 つながりと愛について、聖書から学んでみよう。キリスト教の倫理は、愛と自由であるといわれる。愛とは他者に対するあり方であり、自由とは自分自身へのあり方である。パウロは10節で「愛は律法を全うする」と言い、他者を愛することがどれほど大きい意味を持つかを強調している。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。パウロはここ9節で「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などを取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになる。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っているのだ。
 しかし、「愛する」ことは義務ではない。「だれに対しても借りがあってはなりません」とはその意味である。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作り上げるものだ。もし義務で他者を愛するなら、冷たい人間関係が残るだけだろう。
 マザー・テレサは「愛情の反対は、憎しみではなく『無関心』」と言っているが、本当に無視されることほど、人間の尊厳が大きく傷つくことはない。『そんなの、関係ねえ』というフレーズが昔はやったことがあったが、現代の日本人は自ら関係を絶つことを望むような傾向にあるように思われる。隣近所の付き合いからはじまって、地域のつながり、職場の付き合い、親戚との付き合い、友だちとの付き合い、様々な付き合いをわずらわしいものと思うような傾向がないだろうか。そのようにして自ら関係を絶っていくことにより、ますます孤立感を深め、人間不信を増長させ、さらに自分自身をも傷つけていく。最後は自己否定へと陥ってしまうということになっていかないだろうか。「だれでもよかった」という殺人容疑者の供述はそのことを物語っているように思う。関係性の喪失の悲劇である。
 では、教会はどうだろうか。教会の中心は礼拝である。そしてその礼拝から地域、社会に出ていくことが求められる。集中と拡散。この繰り返し。教会は置かれている地域につながることが求められる。開かれた教会とは、地域と開かれた関係性をつくっていくこと。何でつながるのか?金でつながる。そんな金は教会にはない。教会にあるのは「愛」。愛のつながりである。地域に仕える教会として、愛のつながりをつくることが求められている。先月、連合の壮年会で、「壮年のつどい」を開催した。テーマは「地域に開かれた教会、地域に仕える教会、地域と協働する教会」。事前にアンケートを取ったところ、実にいろんなことを地域に対しておこなっていたことが報告された。愛のつながりを実践し、地域に仕えておられた。
 最後に、元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんが残されたメッセージを紹介したい。彼女はカトリック信者でした。「難民問題は私の高等弁務官時代より量・質ともにより深刻になっている。重要なことは苦しんでいる人々に関心を持ち、思いを寄せ、行動をとることだ。人々が互いを思いやることこそが、人間の最も人間らしいところだと思う」。「思いやる」、これはつながる第一歩ではないだろうか。隣人に対し、地域に対し思いやる心をもってつながって行こう。 

ゆるやかな大家族

2023-11-06 11:41:41 | コラム
 ある広報誌に次のようなことが書かれていた(要旨)。心と体はつながっている。心が弱ると体調も悪くなり、逆に体調を崩すと心のバランスも乱れる。そんな時、一人だと孤独になってマイナスイメージに傾きがち。人とのつながりは大切。
 人類が生存競争に勝ち残ってこられたのは集団で助け合ってきたから。しかし、昔は大家族だったのが核家族になり、今は個人単位。人類の進化とは逆方向に向かっている。本当の家族でなくても大丈夫。血のつながりがすべてではない。ゆるやかな大家族のように助け合うことが大事である。 
 まさに教会はゆるやかな大家族。兄弟姉妹と呼び合うのもその表れ。共に食事をする機会が多いのもそう。助け合うだけでなく、祈り合い、励まし合って、共に主を賛美するゆるやかな大家族。それが教会。