逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

神の教会に仕える

2021-02-25 09:59:25 | 説教要旨
2001年2月21日 主日礼拝宣教
「神の教会に仕える」 使徒言行録20章25-38節
 使徒言行録の20:18-35はパウロのミレトスにおけるエフェソの教会の長老たちへの決別説教である。この説教で、パウロは大変大切なことを長老たちに語っている。その中の28節に、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」とある。それは教会の主催者は神であるということ。聖書的に言うならば、教会は人間の集まりでも、人間の魅力で存在するのでもないということだ。私たちが信仰者を作るのではない。私たちはひとりの信仰者をも作ることはできない。私たちは神が聖霊を通して信仰を起こされることを信じるだけである。
 しかし、神の国の福音を伝えなくてはならない。伝えなければ始まらない。パウロは、27節で「神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えた」と言っている。全力を尽くしたということだろう。しかし、それにもかかわらず、人間の教会ではなく、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」と言う。続けてパウロは、私たちはただそのお世話をするだけだと言うのである(28節)。
 そのためには、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」(28節)と注意を促す。第一に自分に対して注意してくださいと言っている。確かに私たちが一番注意しなくてはならないのは、自分に対してだ。私たちは、いろいろと人に注意をする。しかし、本当に注意しなくてはならないのは自分自身ではないだろうか。そうでないと、いつの間にか、有難迷惑のお節介やきになりかねない。
 第二に、群れのことに気を配ることだ。この順序を逆にしてはならない。自分に注意しない人は、決して外の人々に注意することはできない。私たちはとかく、この順序を取り違える。「人のふり見て我がふり直せ」。人のふり見て、その人を注意するのではなく、その前に自分のふりをまず直す、注意する。それからだ、人に注意するのは。
 そして、最後に「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(32節)とパウロは言う。群れを神の言葉にゆだねるのだ。つまり「離す」のである。神に向かって離すのだ。勝手に放り投げるのではない。
 29-30節を見ると、パウロは、自分がいなくなった後、エフェソの教会に様々な混乱や困難がやってくることを予測していたが、それでも「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねる」と言っている。それは、32節にあるように「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる」と信じていたからにほかならない。「み言葉には、あなたがたを形成し、御国をつがせる力があります」と言うのだ。私たちもこの信仰が求められている。信ずることは、離すこと。そして待つこと。最後に祈ることである。それは神への信頼と期待である。
 パウロはこの別れの説教の最後で、もう一つ必要なことがあることを語る。それが「労苦して弱い人々を助ける」こと。その原則は、「受けるよりは与える方が幸いである」という主イエスの御言葉に尽きる。私たちは、しばしば貰うことが幸福だと考える。受けてばかりいると、私たちは自分自身を駄目にしてしまう。なぜか。受けることはいつも受身で、そこには自分というものが形成されず、かえって、衰えてしまうからである。自立することが大事。信仰の自立、それは主体的な信仰ということもできる。
 教会の中にあっても、自分が得ること、何かを受けることばかりを当てにした生き方をしてしまう危険がある。与えられるものが無くなれば去っていく。教会に通っても恵まれないからと言って教会を去る人もいる。だが、パウロは、教会に生きるということは与えること、これに徹して生きることが、どれほど幸いであるかを知ることだと言うのである。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」につながる私たち一人一人も与えることによって、神の命に生きる、神の愛に生きる、そのように聖書は私たちに語っている。神の教会に仕える、隣人に仕える。それに徹して、これからも祈り励もう。

パンを水の上に流せ

2021-02-15 14:32:11 | 説教要旨
2021年2月14日 主日礼拝宣教
「パンを水の上に流せ」 コヘレトの 言葉11章1-6節
 コロナ危機とも言われ、一年以上たってもいまだ収束の見通しの立たない状況はまるで闇の中にいるようだ。不安と焦燥、職を失い、命の危険にさらされ、ストレスがたまるばかり。そのような状況で、虚無、懐疑、悲観といったマイナスのイメージ、ネガティブな考え、いうなれば闇が深まるばかりである。このことを鑑みながら、今朝は「コヘレトの言葉」からメッセージを聞きたいと思う。
 この書の最初に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」(1:1)とある。「コヘレト」とはヘブライ語で「集会の主宰者、司会者」というほどの意味。そして、この書がダビデの子、すなわちソロモンの言葉を編集したものとほのめかしている。ソロモンは列王記上5章にあるように、非常に豊かな知恵と洞察力に優れた王であったと伝えられている。ソロモンは知者、あるいは賢者とも呼ばれていた。しかし、この書は編集された年代からいってソロモンの言葉ではないことが分かっている。知者、賢者と言われているソロモンの名前を借りてきたのだろう。
 さて、知者、賢者の重要な働きは何だろうか?それは教えること、助言すること、相談を受けることにある。良き助言者であるためには、現実をよく知らなければならない。助言を受ける人々の置かれている現実を透徹した目で見るものでなければならない。その意味で知者は非常に現実主義者だ。それ故にコヘレトの言葉は、現実を熟知した言葉で始められている。1章2節に 「なんという空しさ/なんという空しさ/すべては空しい」と書かれている。「空しさ」「空しい」と同じ意味の言葉が三度繰り返されている。文語訳聖書では「空の空/空の空なるかな/すべて空なり」と訳されている。この「空」の原意は、「はかない、一時的、永続しない」。
 コヘレトは事柄に対して大変否定的な見方をしている、と言ってよいと思う。だから、多くの人たちはコヘレトの言葉は虚無的、悲観的、懐疑的だと受け取っていて、どうしてこのような書が聖書にあるのかと訝しく感じる人が多くいる。しかし、知者であるコヘレトは、虚無的、悲観的、懐疑的現実を自分の事柄として体験しつつ、そのような現実をないかのように無視したり、振舞ったり、また流されたりはしない。むしろ、そこに留まりつつ、生身の身体をさらして、そこに生きる者の知恵を語っている。だから、今日与えられた聖書箇所の11章1節以下6節までは、「空の空/空の空なるかな/すべて空なり」の虚無、悲観、懐疑を十分に踏まえた上での、生への勧告であると理解する必要がある。そのことを11章1節から見ていきたい。
 「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日が経ってから、それを見出すだろう」(11:1)。この謎めいた言葉は何を意味しているのだろうか。パンは現代でも古代でも生きていくための基本的なもの、それ故に大切なもの。それを水に浮かべて流せ、とはどういうことか。
 この勧めは、この言葉だけで単独に理解するのではなく、11章1‐6節の文脈の中でこそ解釈されなければならないように思う。その場合、1‐6節に繰り返し出てくる言葉である「分からない」(2,5,6節)という人間の知的な限界に対する言及に注目したいと思う。限界に対して選択的に決断すること、これこそ人間の特権。「運命的なもの」にあらがうと言っていいと思う。
 さて、パンを水に流すとは、どう見ても愚かで無謀な、無駄な行為と言えるだろう。しかし、ここでは、この愚かで、無謀な、そして無駄と思える行為を「せよ」と命令形で語られている。そこに肯定的な強い調子を見ることができるのではないか。そして、この愚かで、無謀な、そして無駄と思われる行為が後になって思いがけない良い結果をもたらすからであると語られている。しかし、よく考えてみれば、そういう愚かで無謀なそして無駄な行為が、必ず良い結果をもたらすという保証は、実はどこにもない。愚かしさは愚かしさで、無駄は無駄で、無謀さは無謀さで終わってしまうかもしれない。
 そこで、この「パンを水の上に流せ」という謎めいた言葉を理解するカギ、キーワードだが、それが先ほど述べた「分からない」である。将来は「分からない」のだ。「一寸先は闇」とよく言われる通り。将来は私たちには隠されている。そして、その将来を私たちの思い通りに自由に支配することはできないのだ。しかし、ここで、そういう将来に不安、保証のなさ、不確かさの中にあるにもかかわらず、「月日がたってから、それを見いだすだろう」と、かくも積極的に人生の肯定が語られている。この11章1節に語られている謎めいた勧告に含まれているメッセージは、将来は私たちには隠されている。私たちはそれを知ることができない。先のことは確かに「分からない」。しかし、分からないからといって何もしないのではなく、分からないという限界に抗して、機会をつかんで、行動せよ、ということだろうと思う。以下6節までもそのような関連で読むべきだろう。
 人生は本当に何が起こるか分からない。一年前に世界中にコロナ危機が襲うとはだれが予想できただろうか。しかし、先の保証がないから、分からないからと尻込みしていても何も起こらない。機会をつかみ、未来の予知不可能に抗してパンを水の上に流さねばならない。風ばかり警戒していては種は蒔けない。未来の予知不可能に抗して種を蒔かなければならない。雲の観察ばかりして雨を気にしていては刈り入れはできない。未来の予知不可能に抗して、機会を得て刈り入れをしなければならない。どの種が良い実を結ぶかは分からない。しかし、未来の予知不可能に抗して、私たちが出来ることをしなければならない。そのように読んでいくと、これは、閉塞感の中にある私たちへの2000年前の知者、コヘレトからの、実は応援歌なのかもしれない。

ストレス解消法、銭湯・温泉

2021-02-09 15:52:03 | コラム
<コラム> ストレス解消法、銭湯・温泉
 一年も続くコロナ禍、いまだ収束も見通せない。コロナ疲れ、コロナによるストレスもたまる一方。そんな疲れ、ストレスの私の解消法は銭湯・温泉である。
 そもそも私が銭湯好きになったきっかけは30代の頃のこと。その日たまたま早引きとなって帰宅したが、急なことで予定もなく、することがない。そこで疲れがたまっていたこともあって、幼稚園児だった長男を連れて、近くの銭湯に行った。まだ日が明るいうちに風呂に入る違和感とぜいたくな気分がしたことを覚えている。380円(当時)で、こんなぜいたくな気分が味わえて、疲れもとれ、衛生的にも清潔になり、気分転換にもよいとなれば安いものと思ったのが始まりであった。その後の私の心身の健康に一役買っているのは確かである。
 今も週に2回は銭湯か日帰り温泉に行く。 



人生を支える座右の銘

2021-02-09 15:39:34 | コラム
<コラム> 人生を支える座右の銘
 あなたの座右の銘は何ですか。
 以前、新聞に紹介されていた若い世代の座右の銘。「20代までは親からもらった顔。30歳からはあんたの性格が貌に出るよ」。これは女子大生が母親から言われた言葉。「早し良し、ちょうどよし危うし、遅し悪し」。これは祖父がいつも言っている言葉を大事にしている小学生の座右の銘。時間を守ることは信頼にもつながるということも学んだという。「大丈夫や!失敗してもいいんや!死にゃ-せん!」。これは小学6年の時、新入生歓迎のスピーチを頼まれて尻込みしていたら、先生から言われた言葉。今、高校生の彼女はその後、積極的な子に変わったという。今でも迷った時には「よし!死にゃ-せん!」と意気込み、楽しい日々を送っているという。
 このように言葉の力はすごい。私の座右の銘は聖句から。「受けるよりは与える方が幸い」「人はパンだけで生きるものではない。・・・」「求めよ、さらば与えられん」「天に宝を蓄えなさい」「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」などです。
 


分かち合う豊かさ

2021-02-09 15:13:46 | コラム

<コラム> 分かち合う豊かさ
 今年のノーベル平和賞は国連世界食糧計画(WFP)が受賞した。
 「飢餓対策ニュース」(2017年9月)に理事長の岩橋隆介氏が次のように書かれている。「…やはり忘れられないのは某国の最貧と言われる地域で懸命に生きる子どもが、提供されたわずかな給食を、自分も食べたいであろうに、一部を残し自分の弟妹に分かち合っている姿でした。感謝の祈りをささげ、それを分かち合い、最後の一粒まで残さず食べている姿と、その時の笑顔。かつて私たちの国にもあった、物があふれる贅沢ではなく、少ないものでも分かち合う『豊かさ』を見ることができたのです。今、心から思います。その豊かさを取り戻さねば、と。」
 次の聖句を思い出す。「受けるよりは与える方が幸いである。」(使徒20:35)。神から与えられたものを我々は神に返さなくてはならない。それは、隣人に対して、神から受けたものを与えることによって実現される。隣人を自分のように愛せよという教えを実践することも、それが神の意に適うからだ。