逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

自分の足で立つ

2021-03-25 10:54:37 | 説教要旨
2021年3月21日 主日礼拝宣教
「自分の足で立つ」 ルカによる福音書15章11-24節
 今朝の聖書個所は主イエスが話された「放蕩息子」のたとえ話である。この話は「失われた息子」とも言われる。「失われた息子」という言い方は父親の立場からの見方になる。そのようにこのたとえ話の主役はやはり父親であり、この父親は神のたとえである。だからこのたとえ話は父親の言動を通して、神とはどのようなお方であるか、神の愛とはどのようなものであるかを物語っているのである。そして弟や兄は私たち人間をたとえている。兄と弟、ずいぶん性格や生き方は違うが、私たち人間とはどういうものであるか、その本質の一部分を見事に表現している。そして、父親と息子たちの関係を通して、神と人間の関係はどのようなものであるかをも教えてくれている。そのように、このたとえ話は、切り口によって実に多くのメッセージを受け取ることができる。今日はなぜ弟は救われたのか。弟の立場になって考えてみたいと思う。
 この息子は、「やりたいことをやる」ために父親の家を出て行き、放蕩の限りを尽くす。やがて食う物さえ事欠くようになった。その時「彼は我に返った」。この「我に返る」ことが、この息子にとっての「回心」となる。
 しかし、放蕩息子が回心したことによって、息子の資格を得たのではないことに注意してほしい。彼は息子のように暮らしていなかったけれども、始めからずっと父親の息子だったのだ。ここが肝心なところ。彼が家へと向きを変えたのは、自分に対する父親の愛を思い出した時である。その時、その場で、彼は家に戻る決心をした。
 私たちの福音がどのような響きを立てているのか、ということをこの放蕩息子のたとえ話から知っていただきたい。それは恵みに気づくことが、悔い改めや変化に先立つということである。最初に来るのは、父親こそ「答え」であることをこの息子が思い出すことである。それは単純に、この父親は、この息子の父親であり、息子を愛している父親であるからである。続いて、この息子は、自分の問題を感じ取る、気づく。それは、自分の父親の息子としてではなく、家を失い、豚のように暮らしている事実である。そして最後に、この息子は悔い改める。つまり、家へと向きを変えるのである。回心である。家に帰ってみると、父親の愛は、それまで想像していたよりもずっと深く恵みに満ちたものであることを知らされる。これを境に、彼は変わったに違いない。このような恵みと受容を経験すれば、変わらずにはいられないだろう。彼は健やかにされていく。息子は、豚と一緒になってぬかるみに足を取られるのではなく、人間として、息子として、自分の足で立ち始めたのである。彼は救われた。しかし、あらかじめ家があり、父親があるから、私たちは家に帰ることができるのだということを決して忘れないようにしたい。答えが先にあるのである。恵みが先にあるのである。恵みの先行。それに気づいた時に、自分の現実を知らされるのである。自分の限界や弱さや小ささや罪深いことに思い至るのである。だから、ここで必然的に悔い改めが起こるのである。
 ここに、本当の悔い改めが訪れる。取り引きをしたり、仮面をつけたり、弁解したりする必要はない。私たちが過ちを認めても神は私たちを滅ぼそうとはなさらないことを知っているので、私たちは自分の姿を正直に認めることができる。本当に強くて、地に足をつけた人たちとは、素直に自分の過ちを認め、その過ちを正そうとすることができる人たちである。反対に、弱くて、不安定な人たちは、自己防衛と自己弁護を延々と試み、自分の行動を正当化しようとする。彼らはそうせざるを得ないのであり、何とかして自尊心の切れ端にしがみつこうとしているのである。しかしキリスト者は、そのような防衛は必要のないことを知っている。自分自身を変えるのは、自分自身に正直になることから始まる。だからこそ、悔い改めが「救い」と関わるのであり、私たちは悔い改めによって、神が常に望んでいて下さるような健やかさへと向かう道をたどり始めるのである。

愛を退けないで

2021-03-16 12:18:29 | 説教要旨
2021年3月14日 主日礼拝宣教
「愛を退けないで」 マルコによる福音書10章17-22節
 ひとはどんなに素晴らしい人に出会い、またどんなに愛の眼差しを向けられても、その期待に応えるとは限らない。悲しいことだが、人間の心にはそういう現実がある。人は愛されることを喜ぶことも、それを拒むこともできる。主イエスに出会った人たちもそうだった。信じてついていった人たちもいたし、去って行った人たちもいた。この「富める青年」と言われている人物は去って行ったほうだ。
 彼は今でいえば、さしずめ高級エリート官僚といったところか、あるいはそれ以上かもしれない。金持ちでもあった。彼は当時、一般的な宗教的関心事でもあった「永遠のいのち」を得るためには「何をすればよいでしょうか」と主イエスに端的に問うた。その求道の姿勢は「走り寄って、ひざまずいて」とあるから、とても熱心でかつ敬虔なものだった。
 これに対して、主イエスはモーセの「十戒」の「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をするな、奪い取るな、父母を敬え」など、対人間に関する戒め六つを挙げられたのだが、彼はいとも簡単に「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えた。これは人から後ろ指を差されるような生活はしていない、ということだ。確かに外面的には宗教的、また道徳的な人物であっただろう。
 しかしここで、主イエスは彼の抱えている問題の本質を見抜いて、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と核心に迫られた。この言葉の真意を理解するには少し難しさがあるが、永遠のいのち(救い)を受けるためには無一物にならなくてはならないという単純な意味ではない。そうではなく、自分の価値観やものの考え方を変えないで、得るものだけは得たいという態度ではいけないということだ。
 かつて、ある牧師が説教で次のような話をされた。目の前に一万円札がある。これをあげると言われる。しかし両手は握りこぶし。これでは一万円札は取れない。では、どうするか。そう、手を開けばいいのだ。そうすれば簡単に取れる。バカみたいな話だ。握りこぶしは自分の価値観や考え方をしっかり握りしめて離さないたとえ。一万円札は永遠のいのちのたとえ。これを得るには心を開けばいいだけというたとえ。
 意外と私たちはここに登場する金持ちの男と同じなのではないだろうか。こういう傾向は彼のように自分の正しさ(神の正しさではない)に依存している生き方の人に多いのかもしれない。パウロもかつてはそうだった。パウロはフィリピ書3:6‐7で告白している。「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです」。  
 求道中のあり方に加え、この物語で最も留意したい点は、金銭や物質にとらわれ自分の価値観を変えられず、イエスのもとから顔を曇らせ、悲しみながら立ち去っていく青年に対して、イエスは愛を持って接しておられたということだ。「その人をいつくしんで言われた」というのは、「愛情を込めて言われた」と言い換えてもよいだろう。
 ここに人間の悲しさがある。また神の悲しみもある。どんなに愛を注がれても、その愛を退けて自分の道を選択していく人間の悲しさが、この物語には漂っている。主イエスは青年に愛を持って語られた。しかし、彼はその愛を受け取る選択をしなかった。そもそも拒むことができるという自由が与えられていることそれ自体がイエスの愛なのだ。青年の悲劇は、愛を受け取ることができたのに富から離れることができなかったということだ。それにしても不思議なチャレンジを感じる物語である。読めば読むほど、イエスの愛を信じて受け取るように、という呼びかけが悲しい調べの中に聞こえてくる。 
 コロナ危機の中、新たな生活をとチャレンジを受けているようだ。現実から目を背けず、現実に固執せず、これをチャンスと考え、チャレンジし、チェンジするときかもしれない。

レント(四旬節・受難節)

2021-03-09 15:45:35 | コラム
コラム  レント(四旬節・受難節)           2021年3月7日
  レントは英語で「Lent」(大文字で始まる)、もともとは「長い」という意味からきた言葉だそうです。確かに長いですね。イースター前までの日曜日を除く40日間。40という数字は、ノアの洪水の時、40日40夜雨が降ったこと(創世記6:11以下)、出エジプトの際、イスラエルは40年間荒野を旅したこと(民数記14:33以下)、そして主イエスが荒野で40日間断食する中悪魔の誘惑を受けられたこと(マタイ4:1以下)に由来します。そこから苦難、試練を象徴する数字となりました。
 ですから、レントは悔い改め、克己、節制、断食、何よりも主の十字架をしのび、その恵みを覚えて応えていく期間となります。自分の信仰を今一度見直す良い機会です。祈りつつ励みましょう。

キリストに背負われて

2021-03-08 12:27:00 | 説教要旨
2021年3月7日 主日礼拝宣教
「キリストに背負われて」 イザヤ書46章3-4節
 私たちは、「いっしょに遊ぼう」とか「いっしょに生きていこう」などと言われるとうれしくなる。小さい頃からなんでも「自分でやれ」「ひとりでできるだろう」「他人に頼るな、甘えるな」「人様に迷惑をかけるな」と言われ続けて育った私たちは、「いっしょに」と言ってくれる人がいると大変励まされる。特に小さい頃からいつでも自分は仲間はずれで、忘れられていると感じて育った者は、「いっしょに」と言ってもらうと、自分は独りぼっちじゃない、見捨てられていないと感じて、もうちょっと頑張れそうな気がしてくるだろう。それほど「いっしょに」は、とてもうれしいだけでなく、安心させてくれる言葉である。今日はこの「いっしょに」、言い換えるならば「ともに」と言ってくださるインマヌエルの主イエスが共に歩んでくださるだけでなく、背負ってくださる愛のお方であることを学びたいと思う。
 私たちは、しっかりした、びくともしない信仰を持たなければ一人前のキリスト者とはいえないのだろうか。我ながらクリスチャンと名乗るのもおこがましく、「敬虔なクリスチャンとはとても言えないのですが」と言いながら、教会に連なっているのが偽らざる姿ではないだろうか。にもかかわらず、その端くれクリスチャンがキリストの体である教会を形成している事実をどう受け取ればよいのだろうか。
 それは一にも二にも、私たちがキリストに背負われているからである。私は歩いていないが、キリストが私の足の代わりに歩いていて下さっている。私が歩めばよろめくが、キリストの足はよろめかない。私の行く手はキリストが行かれる方向。私は眠っているが、キリストが運んでくださっている。私の居るところには、キリストが共においでになっておられる。これがキリストに背負われた私の姿。しかもこの姿は「老いる日まで、白髪になるまで」(イザヤ書46:4)続くと主は言われる。
 私たちは気づかないだけ、主に背負われていることに。自分の足で歩いていると思っている。それは、私たちが一人で大きくなったように思っていることと同じ。「あしあと」という有名な詩がある。初めて聞いた時、私は大変感銘を受けたことを今でも覚えている。一度聴いたら忘れられない素晴らしい詩である。
【Footprint(あしあと)】
ある晩、男が夢をみていた。夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。そし­て空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺­めた。すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもある­のだった。しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだ­った。すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくだ­さるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足­跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあな­たは私を見捨てられたのですか」神は答えられた。 「わが子よ。 私の大切な子供よ。私はあなたを愛している。私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残され­ていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」。
 さて、私たちは、主イエスだけではなく、親や兄弟、親戚、教会の人たち、近所の人、学校の先生、友だち、職場の人などなど、実にいろいろな人たちに養われ、保護され、教えられ、助けられ、励まされながら成長してきたことを忘れてはいけないだろう。このことに気づかない時、独りよがりの、そして感謝の念を忘れて、わがままになり、人にいろんな迷惑をかけていることに気づかず生きていくようになるのではないか。私たちは人様のお世話になりながら生きている。そのことに気づくか、気づかないでいるかは大きな違いがある。さらに言うならば、その背後に主のご配慮と執り成しがあることを知って欲しい。そして主に感謝し、主に立ち帰ること。その時、まったく新しい地平が開けてくるのだ。
 イザヤ書46章3~4節には、「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と書いてある。私たちの神は、私たちを造られた神。だから必ず私たちを負うてくださり、持ち運んでくださり、救ってくださる方なのだ。決して私たちが負う、すなわち何かをしなければならない神、喜ばせなければならない神ではない。私たちは、ただその神を喜んで感謝するのみである。
 11節には「わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる」とある。神の言葉は約束。むなしく語られてはいない。神は語ったら必ず行われる方。聖霊の働きによって、このことは本当に信じられるものとされたとき、私たちは、見える現実がいかに絶望的であろうとも、その現実に支配されることなく、神の救いの約束の言葉は必ずなると信じ、希望を持って明るく生きていく、真の自由の人とされていく。パウロも「御霊は私たちに自由を与える」と語っている。私たちを造られた神が、私たちを負い、持ち運び、救いにいたらせてくださるというこの約束ほど、私たちに大きな喜びを与えるものはないだろう。

信仰は聴くことから始まる

2021-03-01 12:26:43 | 説教要旨
2021年2月28日 主日礼拝宣教
「信仰は聴くことから始まる」 申命記6章4-5節
 聖書は私たちに「聞け、イスラエルよ」(ヘブライ語で「シェマー、イスラエル!」)と呼びかけている。私たちは全身を耳にして向こう側から響いてくる声に耳を傾け、一心に聞かなければならない。「傾聴」である。耳を澄ませて聞くのである。主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返し言われている(マコ4:9,23等)。ヨハネの黙示録にも「耳ある者は、‟霊"が諸教会に告げることを聞くがよい」(2:7等)と書かれている。
 神と人間との関係だけではない。人間同士の関係においても傾聴することの重要性は強調しても強調し過ぎることはないだろう。ホスピスや高齢者のための施設でも最近は傾聴ボランティアが重要な役割を果たしている。10年目を迎える東日本大震災でも、最初は避難所で、次は仮設住宅で、今では復興住宅で傾聴ボランティアが続けられている。コロナ禍にある今も同じである。引きこもり孤立している多くの人々がいる。何とかしてつながろうと電話やオンラインなど様々な工夫をして傾聴しようと努力がなされている。
 しかし、私たちは聞くことの鈍いものであり、そして意外と難しいもの。黙して聞いているようでも、頭の中であれこれ考えていて案外聞いてない。余計な先入観があって、それが聞くことを邪魔する。まして、言葉にならない思いを聞くことなどそうたやすいものではないことは生活体験の中で思い知らされている。
 ところで、今回、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長が女性蔑視な発言をしたと批判され、辞任した。確かに差別的な発言だが、森さんの根本的な誤りは、人の意見や声を真摯に聞こうという姿勢がないということ。国民の声や思いを聞き取ることが大事な政治家にもかかわらずである。自分の地位、名誉や利権のことしか頭にないのだろう。それにしても、本当に相手の気持ちに焦点を合わせて一生懸命聴くということは決して楽なことではない。意識的な訓練も要するだろう。でも、できるだけ言葉を慎み、無となって相手の心に耳を傾けるよう心がけたいものである。
 もちろん神とのコミュニケーションにおいて、傾聴することが最重要であることは論を待たない。祈りにおいても、説教の準備においても、牧会、伝道においても、一番重要なことは語ることでも考えることでもなく、まず聴くことだと思う。虚心坦懐になって、ただ無心に向こう側から響いてくるものに耳を澄ませる。どのような喧騒と混沌の中にあっても私たち信仰者にはそのような姿勢が求められている。「シェマー、イスラエル」である。信仰は確かに聴くことから始まる。パウロもロマ書10:17で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)と語っている。
 神の御言葉を聴くためには心のアンテナを神に向けなくてはならない。次に心のダイヤルを神に合わせなくてはならない。しかしそれだけでは、神の言葉は入ってこない。私たちの心の耳を開かなくてはならないのだ。心のスイッチを入れると言ったらよいだろうか。これが難しい。私たちは自分大事さに心を閉ざしがち。心の奥底をのぞかれたくないからである。だから心のスイッチが入らないのだ。
 しかし、心の耳は開かれなければ救い(解放)はない。主イエスがその息を吹きかけてくださることを通して、言い換えれば聖霊の助けをいただいて、私たちの心の耳を開いてくださるよう祈り求めよう。主は命じられている。「エッファタ(開け)!」と(マルコ7:34)。声をかけるのは息を吹きかけるのと同じ。神の霊によって開かれるのである。今朝、主イエスによって心を開いていただき、御言葉を聴こう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。