逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

主の祝福と平和

2024-03-25 11:22:31 | 説教要旨
2024年3月24日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「主の祝福と平和」 創世記26章12-33節
 イサクは飢饉が起こったので豊かなエジプトへ行こうとした。しかし、神に止められ、ゲラルの地に住むことになる(26:1-6)。イサクはゲラルの地に留まることに恐れと不安を抱いたことだろう。しかし、イサクはそこで神からの祝福を受けた。そして、たくさんの財産を得た(12-14節)。しかし、そのことはゲラルに住むペリシテ人からねたまれる原因となったのだ。ペリシテ人は昔アブラハムが掘った井戸さえもふさいでいた〈26:15〉。イサクはペリシテ人たちにとって脅威となったのだ。「あなたは我々と比べてあまりに強くなった」と言われて、土地を追われてしまう。生活の拠点である土地から追放され、さらに命に直結する水を得る井戸までふさがれてもイサクは争わなかった。
 イサクはゲラルの谷に移り住んだ。そこでもペリシテの人々と井戸のトラブルが次々と起こったが、イサクは争いが生じると次々と移動した。井戸を掘りあてるということは簡単なことではないが、イサクは、せっかく掘り当てたものを自分たちのものだと誇示して争ったりはしなかった。私たちは、命に関わる水の問題をそう簡単に手放すことはできない。昔から水をめぐって争いが起こることはどこの国でも地域でもあった。さて、イサクももめごとがいやだからという理由だけで、何度も何度も掘り当てた井戸を手放していくことはできなかったはず。しかし、イサクはアブラハムのように神と交渉したり、策を弄したりはしなかった。誰からも奪い取ったり、固執したりせず、むしろ手放していったのだ。命をつなぐ「水」を争いをもたらす人々とも分かち合っていった。そこに「ねたみ」とは、正反対のところにいるイサクを見ることができる。そのイサクを「平和の人」と呼ぶことができるのではないか。イサクは、去って、去って、去って、ベエル・シェバに至る。「逃げるが勝ち」が、イサクの戦術なのだろうか。彼の姿からは、かっこよさ、力強さは伝わってこない。しかし、その彼が、平和をもたらす者になっているのは確かだろう(31節)。
 なぜ、イサクはそのようなことができたのだろうか。それは、イサクが神から、「あなたと共にいて祝福する」との声を聞いたからである(26:3,24)。聞いて、その神の言葉を受け入れ信じたからである。神の祝福に信頼して歩んだからである。「争い」を引き起こさずとも、祝福を神が与えてくださることを信じたので、希望を失うことなく進んでいくことができたのである。主への信頼こそ、憂いや恐れ、争いから人を解き放つ源泉であることが分かる。
 私は小さくとも、そこにある主の祝福が、自他共に認められるならば、それで良し。負けているようで、実はそうではないイサクの信仰をそこに見ることができる。イサクは平和、シャロームに生きた人だった。イサクはシャロームを与えることのできた人だった。それは神の祝福を分かち合う信仰とでもいえるだろう。
 イサクは争わず平和な人であったから「祝福」を受けたのだろうか。そうではない。まず祝福が神からイサクへ与えられたのである。祝福が先。まず答えは神にあり、神から来る。恵みの先行である。私たちはただ感謝してその祝福を受けとり、神に信頼して歩むだけなのだ。その結果、平和な人になるのである。争わず、神の祝福を分かち合えるものとされていくのである。恐れず、大胆に主の前に出て祝福を感謝していただこう。

同行二人

2024-03-18 14:26:39 | 説教要旨
2024年3月17日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「同行二人」 マタイによる福音書25章31-46節    
 神学校時代のこと、ある教室の掲示板に「思考は地球規模で、実践は足元から」と書かれた紙が張ってあった。「なるほど」と感心した私は、これを「信仰は宇宙大、伝道は隣人から」と置き換えてみた。そして、それは具体的にどういうことか、時々考えるようになった。
 さて、今日の聖書箇所は、世の終わりに行われる最後の審判の場面を描いたもので、主イエスの教えの要約であると考えられる。まさに宇宙大の事柄を示し、さらに「神を愛し、隣人を自分のように愛しなさい」という教えの実践的な結論が示されている。
 私はこの聖書箇所を読むと、いつもお遍路さんのことが思い浮かぶ。それは類似点が多くあるからだ。お遍路さんは「同行二人」と書かれた笠をかぶって、お遍路を続ける。自分ともう一人、それは弘法大師を指している。目には見えないが弘法大師と一緒に巡礼をしているということだ。聖書もまた一貫して、神は我々と共におられる方であると記している。私たちの信仰の歩みもまた、主と共に歩む「同行二人」の歩みではないだろうか。
 以前、新聞で「お遍路さん」の記事を読んだ。その内容は「お遍路さんのお接待」についてだった。山下さんという元大手都市銀行の銀行マンの方の話である。バブル期には副支店長として、早朝から深夜まで働き、休日はゴルフ接待。そんな生活が毎日続いたそうだ。45歳の時、突然、リース会社への出向を命じられた。出世コースから外れたわけだ。それ以後悶々とする生活が続き、58歳で早期退職をし、生活に区切りをつけるために、四国霊場をお遍路姿で巡ったのだという。お遍路で、山下さんの心をとらえたのは「お接待」だった。見知らぬ人が、歩き疲れた自分にお茶や食事を提供してくれる。企業での「接待」は見返りを期待するもの。だが巡礼の「お接待」は自ら進んで与える無償の行為だった。山下さんは、「人にしてあげる」ではなく、「人にさせていただく」という気持ちが、人との本当の付き合いを生む、ということに気づき、心を動かされたというのである。それで、山下さんは、今はお遍路さんが気軽に休める小屋づくりに取り組む「四国八十八ヶ所ヘンロ小屋をつくる会」の事務局長をしている。そして、手伝っている四国の短大の「歩き遍路体験実習」では、単に大学の単位が欲しくて参加していたはずの学生たちが、「お接待」を経験して変わっていくのを見るそうだ。皆、なぜ自分にこんなに親切なのかと驚き、「誰かの役に立ちたくなった」と感想文に書いていた、という。さて、皆さん、「皆、なぜ自分にこんなに親切なのか。わかりますか」。それは、「お遍路」が「同行二人」であるということ。自分と弘法大師。「お接待」は目には見えないけれど、共にこの巡礼を歩んでいてくださる弘法大師にしているのである。その接待を巡礼者が与っているのだ。そこに弘法大師への信仰があるからである。まさに、今日の聖書箇所に書いてあることそのままではないだろうか。神の愛への応答が隣人への応答となっていくのである。
 主イエスは、いつも「最も小さい者」と共におられる方。その「最も小さい者の一人にひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」とあるとおりである。カトリックの司祭である本田哲郎先生はある本の中で、この聖書の箇所について、主イエスは、ここで五つの基本的人権「食」「住」「衣」「健康」「自由」を数え上げ、そのどれかが奪われ、あるいは抑圧されている人を指して、「最も小さい者」と呼んでいる、と書かれている。現代の私たちの間で「最も小さい者」は誰だろうか。
 食料と飲み水を奪われ、「飢えと渇き」に苦しむ世界中の八億もの人々。家と祖国を追われ、他国での不安と窮乏の生活を強いられている難民や流民。仕事も家庭の団欒をも失い、持ち歩く紙袋一つが全財産の日雇い労働の人たち、ホームレスの人たち。病気や高齢のため、あるいは精神や神経のストレスから、社会生活への適応が困難となり、その結果、人々との交わりを断たれた孤独な人々。思想や信条のゆえに、文字どおり「牢」につながれている人々。私たちが日ごろ、気づかずに通り過ぎている人々の中に、「最も小さい者」は苦しみと痛みを訴えるすべもなく、ひたすら耐えているのである。
 実に主イエスは、この「最も小さい者」と共にご自身が苦しんでおり、私たちの方からの兄弟姉妹としての関わりを待っている、と言っておられるのである。キリストを信じ、福音に生きるということは、要するにこの一事に向けて生活を改めていくことであり、神を愛し、隣人を愛するということに行き着くだろう。ここで教えられることは神を愛することと隣人を愛することは表裏一体であるということであり、愛の奉仕に励めということになるだろう。そしてそれは、「人にしてあげる」ではなく、「人にさせていただ」という気持ち、言うならば「感謝」から出る行為。神の恵みに感謝し、分かち合う行為なのである。それぞれに与えられた賜物を活かし、「できる人ができることをできるだけする」でいいので、愛の奉仕に精一杯励みましょう。

バラバラでいっしょ

2024-03-11 11:05:01 | 説教要旨
2024年3月10日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「バラバラでいっしょ」 使徒言行録2章1ー13節
 今朝は、私がイメージしている教会像について箇条書き的にお話したいと思う。一つ目、どこの教会堂も十字架を高く掲げている。それは何のためだろうか。ここは教会だよ、という目印、広告塔の役目なのだろうが。もちろんそれもある。しかし、それだけではない。一番大切な神様から教会に託された使命、「福音宣教」をこの世に対して大胆に証していく、その姿勢の表れにほかならないのだ。それは「世の光」としての教会、である。これからもしっかり、はっきり掲げていきたいものである。
 二つ目。建物(教会堂)が伝道する、とよく言われる。しかし、また「現代の教会が成功しない理由の一つをバークレーは次のように言っている。「われわれが教会を教会の建物と同一視しているところにある」(W・バークレー『希望と信頼に生きる』)。そこで、「われわれに勇気と人を惹きつける力がありさえすれば、どんな場所でも教会とすることができるのだ」(W・.バークレー 同書)とも言っている。教会に集う者たちの立ち居振る舞い、証しが、伝道推進に重要なポイントとなる。だから、主によく訓練され、整えられていく必要がある。
 三つ目は、十字架の旗は内に秘めながら、この世に、地域に、隣人に徹底的に仕える教会。一握りの少数であっても地域になくてはならない「地の塩」としての教会、である。
 四つ目。「開かれた教会」のために、私たちに何ができるか考えよう。ただ扉が開かれているから「開かれた教会」なのではなく、どんな人とも「共にどう生きるか」を具体的に提示できる教会が「開かれた教会」なのではないか。多国籍の人が、若い人たちが、あるいは子どもたちが障がいを持った方々があまり来ないから、何もしない、考えない、ではなく、何もしない、何も考えないから来ないのではないか。自己閉塞から風通しのよい教会。
 五つ目。神学者バルトやボンヘッファー(欧州の二十世紀の神学者)たちがよく使った言葉に「世のためにある教会、他者のための教会」というのがある。教会というのは、教会のことを一生懸命やると教会のためだけの内向きの閉鎖的な教会になる、それは危険だよということ。なぜなら、教会の頭(かしら)は十字架の主イエス・キリストであるからである。キリストは己を捨てて、己の十字架を背負って、そして十字架に死なれた。それは何のためかというと、この世の罪人である人間の救いのためである。それなのに、教会員は教会のために一所懸命やって、世のためということを忘れてしまう傾向がある。そのような姿勢に対しての指摘である。
 最後、六つ目。京都・東本願寺のスローガンに「バラバラでいっしょ/差異をみとめる世界の発見」というのがある。このスローガンに一貫するのは、排除と同化とは無縁の考え方である。「ひとつになっていっしょ」でもなく、「ひとつといってバラバラ」でもない教会。「バラバラでいっしょ」。十人十色、違いは豊かさ。それを味わい楽しみ、恵みとして感謝して受け入れよう。そして主にあって、共に生きる教会。
 以上の箇条書きの教会像に低通しているのは、「神の愛」。この神の愛ゆえにこそ、私たちは赦され、生かされている。その神の愛に応える教会形成を考えたとき、以上のような教会像が与えられた。
 これがすべてだとか、これが一番いいというのではない。いろいろな教会像が重なり合って、多面的な働きをするところであるということだ。でもその心棒、中心はイエス・キリスト、それだけは忘れないで、そこに集中し、そこから拡散していく働きをしていくということが大事だろう。
 さて、今日の聖書の箇所を見てみよう。「バラバラでいっしょ」の不思議な光景ではないだろうか。使徒言行録によれば、激しい風が吹く音が聞こえ、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たちがいろいろな言葉で話すのを聞いて、人々は驚きとまどったとある。1節を見ると「一同が一つになって集まっていると」とある。これは「いっしょ」。3節は「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。「それぞれバラバラに」である。4節は「一同は聖霊に満たされ」、これ「いっしょ」。「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」、これ「バラバラ」現象。まさに「バラバラでいっしょ」である。バラバラの私たちが聖霊に導かれて、新生讃美歌6番にあるように、「主の名によりて集いしわれら」である。主イエスを信ずる信仰によって集いしわれら、なのである。そしてそれぞれ与えられた賜物によって主に仕え、隣人に仕えるのである。そのことを互いに喜び、感謝して歩みたいと思う。

「福祉」の再認識

2024-03-05 11:57:58 | コラム
 「福祉」という言葉からどんなイメージが浮かびますか。高齢者や障碍者といった方々に対し、主に援助や介護の専門家が行う行政サービスを思い浮かべるのではないでしょうか。
 以前、「福祉」の幅広さを伝える「はじめてのふくし」という雑誌の記事が新聞に紹介されていた。この雑誌は日本福祉大学が毎年、高校生などに向けて作成している学習教材である。「『ふくし』って何だろう?」という問いかけに対して次のように説明している。「だれもが持っている幸せになる権利」。もともと「福祉」は「幸せ」の意味で、英語の「welfare」「wellbeing」の言葉のつくりからもわかるように「快適に生きること」。
 最近は全国の社会福祉協議会では「ふくし」とひらがなを使っているという。「ふ」だんの「く」らしの「し」あわせ。なるほど、分かりやすいですね。

請求書の祈りから領収書の祈りへ

2024-03-05 11:53:59 | 説教要旨
2024年3月3日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「請求書の祈りから領収書の祈りへ」
ローマの信徒への手紙8章18-25節
 今日の聖書個所は「将来の栄光」、すなわち神の約束によって、将来被造物には救いがもたらされる、ということが示されている。ここでのパウロの視点は、現在と将来について考えた時に、救いの完成、被造物が救われる、贖われる将来を確信し、その将来から現在を見ている。
 我々は、普通現在から過去や将来を見る。しかし、パウロは、現在を将来の視点から見ている。このようなまなざしの転換、ものの見方の転換がここでは非常に生き生きと述べられている。被造物は今ここでうめき、産みの苦しみを味わっている。しかし、被造物だけでなく、「霊」の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを心の中でうめきながら待ち望んでいる。将来から見て、希望によって救われる、と語っているのである。それは肉眼では見えないが、信仰の目によって見ているのである。
 このように信仰は、現在から将来を見るのではなく、救われるという確信の将来から現在を見るということである。現在から暗中模索して将来を問い尋ねるのではなくて、将来から現在を見る。これは因果応報論の反対である。因果応報の考えというものは、「人の善悪の行いに応じて、その報いが、必ずあるということ」。「過去にこういうことがあったから、自分はこうなった」「こういうことをしたら、きっと将来こうなるだろう」と、どうしても人間は因果応報論に落ち入りやすい。あるいは、自分はこんなに良いことをしたから、将来きっと報われるだろうと日常的に考えたりもする。キリスト者にもそれはあると思う。こんなキリスト教の修行をしたから、神学の勉強もしたから、あるいはいい仕事をした、いっぱい奉仕をしたから、神様はきっといいものを下さるだろう。これも因果応報論の一つである。
 しかし、私たちの信仰は、現在から未来を見るのではなく、救われるという神の約束、それに対しての確信の将来から現在を見るということであるということをしっかり押さえておきたい。実は、キリスト教の強さは、このような価値観の転換、ものの見方の転換にある。いつの日か、キリスト者は、再臨したキリストの審判によって救われるという確信を持っていて、救われるという将来の現実から、現在を見ることによって、試練や苦難にあっても、そこに積極的な意味を見出すことができるからである。
 このように将来の現実から現在を見ることによって、試練や苦難に積極的な意味を見出していくというとらえ方は、実は他の分野でも、特にスポーツの世界ではよく用いられているイメージトレーニングという方法がある。例えば、オリンピックで金メダルを取り、表彰台に上がっている自分をイメージするのである。確信するのである。何回も何回も表彰台に上がっている自分をイメージし確信するのである。そうなればいいなあ、という程度ではダメ。そのうえで、そのためにはどんなトレーニングをいつ、どのような練習をどのくらいするのか逆算してトレーニング計画を立てるのである。それがどんなにつらい、過酷なものであってもやり抜こうとするモチベーションが、表彰台の自分を思い描くことによって保てるのである。そのようなことは他にもいろいろあるだろう。
 その一つと言っていい、次のような話がある。それは「請求書の祈りから、領収書の祈りへ」という話である。何のことかと言うと、かつてアサヒビールの会長さんだった樋口廣太郎さんが、ある本の中で書いていた話である。樋口さんはクリスチャンである。彼は神に祈る時に、「~してください」「~をください」というお願いの祈りを一度もしたことがないと言う。聖書には、祈りは、祈った時に神によって必ずかなうと書かれている(ヨハネ一3章22節、5章14節参照)。樋口さんはその神の約束を確信し、ただ感謝の祈りをしたそうである。いわゆる「~してください」という「請求書」の祈りではなく、「ありがとうございます」という「領収書」の祈りである。「お願い」の祈りではなく「感謝」の祈りである。
 樋口さんがアサヒビールに来た時、市場でのシェアは一ケタで、会社は潰れる寸前だったそうだ。そこで、取引銀行から再建のために送られてきたのが樋口さんだったのだ。その時、彼がどう祈ったか。「神さま、どうか私をライオンにしてください。なぜなら、キリンを食い殺したいからです」とは祈らなかったのだ。彼は次のように祈ったそうだ。「神さま、シェアが一番になりました。これで従業員もその家族も喜び、またそれを飲んでくれる人も喜んでくれます。ありがとうございました」と「領収書」の祈りをし続けたという。私なら「シェアを一番にしてください」と祈るところだが。
 なかなかできることではないが、信仰の根幹にかかわる真実を表わしているように思う。領収書の祈りは、主イエスもされている。死んだラザロをよみがえらせた時の祈りである。主イエスは墓の前に立ち、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します」(ヨハネ福音書11章41節)。願い事が本当にかなう前に感謝しているのである。
 私たちの信仰生活は感謝する祈りが大切である。すでに恵みをいただいているのだから(恵みの先行)、まず感謝しよう。そうした祈りを重ねていくと、きっと違った景色が見えてくるはず。不安や悩みの中にあっても喜びと希望がわいてくる。神の約束、神の希望に生きる者となろう。「請求書」の祈りから、「領収書」の祈りへ、感謝の祈りを始めよう。