2024年8月4日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「祈りの包囲網」 フィリピの信徒への手紙1章3-11節
何かが生まれ成立していくには、そこに至るまでの長い経緯があるものである。使徒言行録16章6-40節には、フィリピの教会が生まれ成立していく不思議なプロセスが書かれている。それはパウロが一つの幻を見たことから始まる。海を隔て遠い地にいる一人のマケドニア人が「わたしたちを助けてください」と懇願する幻だった。
当時、学問においても文化においても先進地域であったヨーロッパにも、十字架において示された神の愛の福音によってでしか、救われることができず、魂の底から救いを切に求め、救いのSOSを発する人たちがいたのだ。そこでパウロたちはマケドニアに渡り、フィリピに行って宣教をした。そこに信徒たちの群れが生まれた。それがフィリピの教会。そのフィリピの人たちにあてた手紙の冒頭が今朝の聖書箇所である。
その1章3-11節はパウロの感謝と祈りである。3節に「感謝する」とある。何に感謝しているのだろうか。それは信徒たちが「福音にあずかっている」(5節)からである。世には多くの感謝すべきことがあるが、パウロにとって人々が福音にあずかることほど、大きな感謝はなかった。「継続は力なり」と言われるが、なんでも一つのことを続けることは大変なこと。続けるには大きなエネルギーが必要である。
「福音にあずかっている」ということも、決して容易なことではない。「福音にあずかる」とは十字架によって罪赦され、滅びから救われること。それは7節にあるように、「恵みにあずかる」(7節)ことに他ならない。あるいは「苦しみにあずかる」とも言われる(3:10,4:14)。
この「あずかる」と訳されているギリシア語の「コイノーニア」は普通「交わり」といわれる言葉である。「交わり」はキリスト教の中心な事柄であり、核心、生命。その交わりは、人と人との横の交わりよりも、神と人との縦の交わりが強調され、福音や恵み、さらに「霊の交わり」(2:1直訳)があるかどうかがキーポイントなのである。
私たちが福音にあずかるということは、決して自明のことではなく、一つの奇跡でさえある。私たちはいつ信仰を失っても不思議ではないほどに弱く、この世には多くの誘惑があり、問題で満ちている。このような現実の中で、福音にあずかるということは、人間の力やわざ、努力ではまったく不可能である。ただ祈りによって、いやむしろ、祈りを通して生きて働かれる神の恵みと「善い業」(6節)、まさに十字架のエネルギーによってのみ可能となる。だからパウロは「わたしの神に感謝する」(3節)と言い、感謝が泉のようにわき上がってくるのである。
同時にパウロは「あなたがたのことを思い起こす」と言っている。「思い起こす」とは単なる想起ではなく、相手の名を呼んで、執り成し祈ることである。だから4節では「あなたがた一同のために祈る」と言っている。教会のために、隣人のために祈る。教会やキリスト者の背後には、大勢の祈る人がいるのである。
三浦綾子さんは「人々に祈っていただきたいという、人の信仰を当てにしているのが、私の信仰である」と書いておられる。私のために祈ってくれる人がいて、そのような執り成しの祈りによって、私の信仰が支えられていると言うのである。しかもそれだけではなく聖書には、霊による執り成しがあり、イエスによる執り成しがあるのだと書かれている(ローマ8:26-27,34)。
私たちは多くの力強い執り成しの祈りによって包囲されているというのである。四方八方から、祈りによって包み囲まれているのである。実際、私たちは多くの問題や危機に包囲されているが、何よりも力強い祈りの包囲網の中に存在し、それによって守られているのである。このような祈りの包囲網、愛の包囲網(8節)を発見するとき、私たちに生きる勇気が生まれてくるのである。
教会や人々のために、さらに世界の平和のためにも祈りましょう。同時に私たちも多くの人から祈られていることに感謝しましょう。そこに祈り祈られている目には見えない祈りの「交わり、愛の交わり」コイノーニアがあるのです。祈りを大切にしましょう。