逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

そうだ、もうすぐ端午の節句だ

2020-04-27 11:36:19 | 日記
コロナ、コロナでコロッと忘れていた。
ゴールデンウィークと言うより、
もうすぐ、こどもの日、そう端午の節句だ。
ある公園を散策していたら、こいのぼりが泳いでいた。
それで思い出したというわけ。
家に帰って、兜を飾らなくちゃあ。忘れていた。

講壇の花

2020-04-27 11:24:33 | 講壇花
私どもの教会は、幸いにしてというか、
比較的広い会堂に十数人の参加者で
密閉、密集、密接の3蜜が避けられているので、
礼拝のみ行っています。礼拝後、あいさつのみで帰ります。
親しい交わりができないのは残念ですが、やむをえません。
その分、いただいた恵みを静かに味わいながら帰ることができ感謝です。
一日も早く、感染が収束することを祈っています。

感謝が先立つ祈り

2020-04-27 10:51:58 | 説教要旨

2020年4月26日 主日礼拝宣教
「感謝が先立つ祈り」 フィリピの信徒への手紙4章6~7節
 昔、ある本に「人はなぜ祈るのか」ということを問いにしても意味がないほどに、人間にとって祈りは本質的な事実です、と書かれていたのを読んだことがある。確かに人間は太古の昔から、荒れ狂う自然や疫病の猛威におびえ、ひたすら祈った。考古学で発見された壁画にもその姿が描かれている。科学や医学の発達が多くの不安を克服した現代においても、人は祈ることをやめようとしない。砂漠の中で、雪山の頂で、そして大都会で、あらゆる時代に、あらゆる文化圏で、人は祈り続けている。それは神が人間の心に永遠への思いを植えつけられた(コヘレト3:11)からかもしれない。人間は自らの罪深さ・弱さ・限界を思い知るたびに、本能とも呼べるほど自発的に神を求めて祈る。
 クリスチャンにとって、祈りは日常的な営み。朝起きて祈り、食事を前に祈り、と事あるごとに祈る。しかし、それは常に学び深めるべき修練でもある。これほど日常的であり、奥が深い営みは他にはないといっても過言ではない。私たちにとって、祈りは生ける神とつながる恵みの手段であり、人生の戦いの武器であり、憩いの隠れ家であり、霊的な呼吸なのだ。
 祈りの問いは、常に「なぜ祈るのか」ではなく、「いかにして祈るのか」である。だれに向かって、どのように祈ればよいのか、それが私たちの問いであり、それに対して主イエスは「主の祈り」を教えてくださったのだ(マタイ6:9-13)。
 戦後のクリスチャン作家佐古純一郎は『祈る人』の中で、「神を信じるから祈るのではありません。祈るということ、そのことが神を信じるということなのです」と書いている。祈りと信仰は表裏一体なのだ。祈りは霊的な呼吸だから、祈らないと信仰が死んでしまう。「信じて祈る」のであり、「信じないで祈る」ことはない。「祈りの霊を注がれた」(ゼカリヤ12:10)私たちは恵みとして感謝して絶えず祈る。
さて、その祈りだが、パウロはフィリピの信徒への手紙4章で、「感謝が先立つ祈り」を勧めている。パウロは6節で、何も思いわずらうことはないではないか。あなたがたは祈ることが出来るではないか。思い煩いを振り切ってこそ、初めてなし得るかと思われる祈りを勧めている。そして、そのような祈りは、事ごとに感謝を持って、祈りと願いとをささげればよいのだというのだ。様々な祈願というのは、常識ではそれが満たされて初めて感謝することになるが、ここでは感謝が先立つ祈りこそ、私たちに深い、人の知恵では測ることの出来ないほどの平安が与えられ、祈る私たちの心を守るのだとパウロは言っている。
 しかし、私たちの生活には、感謝することが出来ないほどにつらいことがあり、悲しいことがあり、困難なことが多くある。なのにパウロは、いつも感謝するようにと勧めているが、それは無理しても感謝しなさいといっているのではない。私たちが、いつも、何にも先立って感謝するのは、その理由があるからだ。
 それは、私たちが既に光の子、昼の子とされ、夜の者、闇に属する者ではなくなっているからである。恵みの先行である。その根拠として、パウロは、主イエス・キリストの死について語る。主が死んで下さったのは、私たちが覚めていても、眠っていても、いつも主と共にいることが出来るようにして下さるためであるというのである。生きている時にも、死ぬ時にも、いつも主が共にいて下さる、この主が共にいて下さるということこそ、私たちの救いの現実であるとパウロは言う。それをパウロはロマ書5:1で「私たちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」と告白している。主が共にいて下さるからこそ、いつも平安であり、死に直面しても平安なのだ、と言うのである。
 私たちの人生には、思わず感謝の叫びが出るようなこともある。しかしまた、私たちを不安にさせ、恐れさせるようなこと、苦しめ、悲しませることも起こる。心は絶えず波のように揺れ動いている。しかし、そのような時にも、ちょうど海の表面は波立って揺れ動いていても、海の深いところでは静かであるように、私たちの心の深いところには揺るがない平安がある。いつ、どんなところにおいても、主が共にいて下さるからである。これこそ感謝すべき第一のことであり、感謝することによって、私たちはこのことを繰り返し、神のみ前で承認する。繰り返し新しく、この信仰の事実に立ち返る。そこから祈りが始まる。そこからどんなことでも祈れる祈りが始まる。だからこそ、感謝がなければ祈りは始まらず、祈りは続かない。感謝をもって祈り、感謝の祈りで終わる信仰を大切にしたい。

痛みの共感から始まる

2020-04-20 11:32:17 | 説教要旨

2020年4月19日 主日礼拝宣教
「痛みの共感から始まる」 マタイによる福音書9章35~38節
 救いの業の完成者であるイエス・キリストは、人々の苦しみと痛みへの共感から、本格的な宣教活動に入られた。主イエスは貧しく、そして疲れ果てた群衆といつも共におられた。それゆえにファリサイ派の人々や律法学者たち、正業について規則正しい生活を送る敬虔なユダヤ人たちからは軽蔑と怒りと非難の視線を受け続けていた。しかし、疲れ果てた群衆と共にいることによって、彼らがいかに「弱り果て、打ちひしがれているか」(9:36)をご自分の目と肌で感じ取り、胃が痛くなるほどの共感を覚えられたのだ。「深く憐れまれた」(9:36)と訳されているが、岩波訳では「はらわたがちぎれる想いに駆られた」と訳されている。「断腸の想い」である。そこで主イエスは12人の弟子を選び、ご自分の協力者として彼らを派遣する。やむにやまれぬ内からの突き上げとして宣教活動を開始されたのである。それは37節の「収穫は多いが、働き手が少ない。……」という主イエスの叫びにも近い呼びかけに表れているだろう。主イエスは、苦しむ民と共におられ、その痛みをご自分のものとされることを身をもって私たちに示されている。
 私たちにとっても苦しむ人々の痛みの共感こそ、福音宣教の力ではないだろうか。痛みの共感があったとき初めて、仕事だからとか、決まりだからとか、あるいはタテマエとしてではなく、本気で主のみ業に協力したいという思いに駆られるのではないだろうか。それは神と主イエス・キリストが抱いておられる痛みの共感に参与することになるのだ。その意味で、痛みの共感は恵みでもある。この恵みは、苦しみと痛みのさなかにある人々と立場を共にすることなしには、決して与えられることはないだろう。
 ある本の中で、次のようなことが紹介されていた。多分、アメリカでの話だろう。ある宣教師の奥様がご主人を突然の交通事故で亡くすということが起こった。しかし、残念ながら、一番慰めにならなかったのが教会のクリスチャンたちの言葉だったと書かれていた。それは、「ご主人の出来事は、すべて神様の御手の中にあるのだから悲しまないで」とか、「あなたのご主人がこういうかたちになったのは、あなたのお子さんが主に立ち返るためだった」というもので、この方をとても傷つけたそうだ。
 では、この宣教師夫人に対して一番の励ましになったのは誰だったのかというと、残念ながら、教会のクリスチャンでなくて、近所の八百屋のおじさんだったそうだ。ある日、袋いっぱいの野菜や果物を持ってきて、目に涙をいっぱいためながら、「こんなことが起こったら、奥さんもおちおち外出する気になんかなれないでしょう。たいしたことはできないけれど、家にあるもの持ってきたからこれでも食べなよ」と言って帰っていった、というのである。
 また、次のような話も書いてあった。長い間、結婚生活で苦しんでおられた方が、その悩みをカウンセラーに打ち明けた。ところが、そのカウンセラーは、「ご主人様にも、いろいろな言い分があるのでは……」と逆に諭すように話してしまったのだ。その方は、カウンセラーに「出て行ってください!」と叫んで、ひとりで部屋に閉じこもってしまわれた。ずいぶん後で彼女は、「『辛かったですね』のひとことだけで、私は良かったの」と言われたそうである。
 私はこれらの話を読んで、本当に共感する、その状態を受け入れて共にある、共にいることの大切さ、素晴らしさを覚えると共に、難しさも教えられた。確かにそれは難しい面もあるが、しかし、まるっきりできないことでもなさそうだ。大それたことを考えなくても、共にいるだけでもいい。一緒に飯を食べるだけでもいい。私たちの周りには、実に多くの悲しみや苦しみの中にある人々、癒されず慰めを求めている人々、さびしい思いをしている人々が大勢おられる。共にいる、共に歩むことなら出来そうだ。いや、すでに行っている。礼拝は共に神の前で賛美し、祈り、み言葉をいただく。祈祷会は共に祈る。教会学校は共に学び分かち合う。月一回の愛餐会は共に食事をし、楽しい時を過ごす。
どれも共にいる、共に歩む営み。それが教会の中だけにとどまらず、地域の方々と共に歩む活動へと広がっていけるといいなと思う。いや、地域に開かれた教会とか、町の教会とか言うならば、もっと積極的に地域の方々とつながっていくような、共にいる、共に歩む活動を教会はしていくべきではないか。地域に仕える、それは隣人に仕えることであり、隣人を愛する実践でもある。そのためにはそこへ降っていく、共に悲しみ、共に涙を流し、ともに祈り、そしてそこで何をなすべきかを知らされていく。その知らされたことをできるところから始めていけばいいのではないか。痛みの共感から始まる。そのためにも共にいる。そこに主もおられるだろう。