逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

平和憲法を体現した中村哲医師

2019-12-31 12:33:11 | コラム

平和憲法を体現した中村哲医師

 平和憲法を掲げる日本が世界において尊敬され、親しまれていることは事実である。それを改めることは、まさに日本を壊すことになる。中村哲医師はそれを日々の暮らし、生き方において教えてきた。中村哲医師はこう語っている。「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。この国は憲法を常にないがしろにしてきた」(「毎日新聞」2013年6月6日)。中村氏は「この国は」と言っているが、私は「この政権(自民党)が」と言いたい。
「憲法九条が変えられたら、自分はもう日本国籍なんかいらない」という中村氏は、九条の現実性を次のように強調する。「アフガニスタンにいると『軍事力があれば我が身を守れる』というのが迷信だと分かる。敵を作らず、平和な信頼関係を築くことが一番の安全保障だと肌身に感じる。単に日本人だから命拾いしたことが何度もあった。憲法九条は日本に暮らす人々が思っている以上に、リアルで大きな力で、僕たちを守ってくれているんです」。アフガンに敵を作ってきたのは米軍。今日(12月27日)の新聞に「明らかに失敗」と報道されていた。何を今さら。

無駄な祈り、労苦はない

2019-12-31 12:14:04 | 説教要旨

2019年12月29日 歳晩礼拝宣教
「無駄な祈り、労苦はない」ヨハネによる福音書21章1-14節

 キリスト者にもたくさんの祈りや労苦がある。そして、この祈りや労苦が、応えていただけていないような気がするのである。ほんの少しは応えていただいたかもしれないが、あんなに祈ったのに、あんなに苦労したのに、その結果をまだ見せていただいていないのではないかと思うのである。しかし、すべての労苦は受け止められているのだ。すべての祈りは聞いていただいているのだ。目には見えないが、復活のキリストがいつも共におられるのだから、無駄な働き、無駄になった祈りはないのである。すべては収穫につながっている。やがてキリストのおられる岸辺で、そのすべてを引き上げる時がやってくる。この「時」というのは、「神の時」(ギリシア語でカイロス。私たちの時はクロノス)で、それは永遠で、決定的な時を指す。私たち人間にはわからない。
 
 11節にこう書いてある。「シモン・ペテロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」。自分たちの労苦がどれほど報われているか、それを見せていただく時が来る。自分たちの祈りがどれほど聞かれていたかを見せていただく時があるのだ。その時に私たちは、あの働きの一つひとつに意味があった、あの祈りの一つひとつが受け止められていたんだということを、あのキリストがおられる岸辺で見せていただく。その日があるから、その日に向けて、わたしたちは今を生きているのだ。私たちの労苦や祈りというものは、どこかに、空中に消えていくようなものではなくて、復活のキリストがそれをすべて受け止めてくださっているのである。そしてその収穫は、必ずイエス・キリストが私たちに見せてくださる時がある。私たちはその時に、自分が祈ったこと、自分が苦労したことへの収穫を見るのだ。それが神の約束である。
 
 7節にこう書いてある。「イエスの愛しておられたあの弟子がペテロに『主だ』と言った。シモン・ペテロは『主だ』と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」。なぜ飛び込んだのだろうか。キリストの前で逃げも隠れもできない、弁解も言い訳もできない、裸同然の自分がそこに照らし出された、ということだ。私たち人間同士の場合、いくらでも弁解できる。「泥棒も三分の理」という。お互い生身の人間、脛に傷を持った人間。不完全で弱さも隠し持っている。しかし、キリストの前では、弁解はできない。この私のために十字架に死んでくださった救い主、この罪人に命を与えるためによみがえってくださったキリスト。この方の前に出たら恥ずかしいことがいっぱいある。申し訳ないことがいっぱいある。合わせる顔がない自分が見える。
 
 だからペテロは裸同然の自分を恥じて、上着を着て、湖に飛び込んだ。そういうペテロを、キリストは岸辺で待っておられた。そういうペテロを、キリストはご自身の御業のために用いてくださるのである。考えてみれば、わたしたちも裸同然である。ほかの人にはどんな言い訳ができたとしても、私のために生き、苦しみ、死によみがえってくださった、この救い主キリストの前に立ったら、私たちには何の言い訳もできない。恥多き自分が見える。しかし、その私たちをキリストは御用のために用いてくださるのである。だから、この罪人である私たちの労苦が無駄になることはない。私たちの祈りが無駄になることはない。必ず主はそれに伴って、働いて収穫につなげていてくださる。主がいつも共にいてくださり、主が働いてくださっているからである。
 
 コリントの信徒への手紙一の15章58節に、「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなた方は知っているはずです」とある。主に結ばれているならば、自分たちの労苦は無駄にはならない。私たちは復活の主に結ばれているのである。私たちはあの復活の朝の世界に生かされているのだ。無駄な労苦はない。無駄な祈りはない。この人生のすべてが、必ず収穫につながる。そういう朝に、私たちは今生かされている。そういう約束に満ちた命を、私たちはみんな、今ここで生きて、いや生かされているのだ。主に感謝して、主の御用のために励もう。

キリスト誕生の目的

2019-12-28 09:52:25 | 説教要旨

2019年12月24日 キャンドル礼拝宣教
「キリスト誕生の目的」 マタイによる福音書1章18-25節

 クリスマスがイエス・キリストの誕生の日であり、それを記念していることは誰もが知っている。それでは、クリスマスにどんな意味があるのかということになると、誰もが理解し、納得しているわけではないだろう。クリスマスの意味は?と問うならば、それはイエス・キリストが何のために生まれてきたのか、イエス・キリストの誕生の目的は何であったのかということを問うことになるだろう。クリスマスの本当の意味を理解し、祝うためには、イエス・キリストの誕生の目的を知り、しかもそれが今日の私たちにどういう関りがあるかを知ることが必要である。このことが分かると、クリスマスの理解だけではなく、私たち自身の人生についても、自分がなぜ生まれてきたのか、自分の人生の目的についても理解することができるだろう。
 
マタイ福音書はイエス・キリストの誕生の目的をイエスにあてられた「名」を手掛かりに示している。そこには「二つの名」が記されている。一つは、ヨセフの夢に現れた天使が告げた名前。「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい」(21節)。もう一つは預言者を通して言われた名前。「その名はインマヌエルと呼ばれるであろう」(23節)。一方の名は天使から、他方の名は預言者からという仕方なので、この名は神のみ心とご計画とが示されていると考えられる。
 
「その名をイエスと名づけなさい」という天使の命令は、「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」という理由が告げられている。「イエス」の意味は「救い」あるいは「彼は救う」という意味を持っている。だから「彼は己の民を救う者となる」と言われているわけである。この名からイエス・キリストの誕生の目的は、「ご自分の民を救うこと」にあるということになる。
 
それではもう一つの名「インマヌエル」という名はどんな目的を示しているのだろうか。この名は「神我らと共にいます」という意味であると23節で説明されている。このことを目的としてイエス・キリストは誕生したという。主イエスの生涯は、この「インマヌエル」の名の通り、神が我らと共におられる生涯だった。主イエスの御言葉も色々な行為も「神が我らと共にいます」ことを示していた。主イエスが病人を癒されたとき、神の恵みの力が働き、主イエスが徴税人を招いて共に食事をされた時、神が共におられて神の国の食事の前触れが起きていた。
 
この「共にいます」という言葉は、実はこのマタイ福音書の最後にも記されている。それは十字架にかけられ復活し、そして天に高く挙げられた主イエスの言葉として書かれている。「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。キリストの生涯を記したこの福音書の最初と最後に同じ言葉が書かれているということは、キリスト誕生の目的は、主がただ十字架にかかるためだけではなく、十字架にかかった方として復活し、高く挙げられ、高く挙げられた方として「いつも私たちと共におられるため」であった、と言いたかったわけである。高く挙げられ、神と一つにされた主イエスは「いつも」、だから「今日も」私たちと共におられる。高く挙げられた方は神と同一の方で、あらゆる時と場所との制約を超えて、普遍的に偏在されるお方。それゆえ今ここに共におられる。キリストは今、私たちに臨在しておられる。そのことによって、十字架による罪の赦しが今日の私たちにも与えられる。
 
主イエスの誕生の目的が、今日、そして世の終わりまで私たちと共におられるためであったいうことは、私たちの人生の目的をはっきりさせることになるのではないだろうか。私たちは何のために生まれてきたのか。人生の目的は何か。主イエスの誕生の目的が「神我らと共にいます」ということ、そのために「罪からの救い」を与えることであれば、私たちの誕生の目的は「私たちも神と共にいるため」ではないか。そのために私たちは生まれ、そのために私たちは罪を赦されたのである。このことを信じ、感謝して受け入れたいと思う。罪赦され、神と共に生きる人生を感謝したいと思う。そのためにキリストがこの世に来られた、お生まれになった、このクリスマスの出来事を喜びを持って心からお祝いしよう。

恐れからの解放

2019-12-27 16:34:09 | 説教要旨

2019年12月22日逗子第一教会クリスマス礼拝宣教
「恐れからの解放」 ルカによる福音書1章39-56節

 天使から受胎告知を受けたマリアはどんなに怖くて不安だったことだろう。そのマリアが46節から始まる主を賛美するマリアへと変わっていったのはなぜか?その間にマリアがエリサベトを訪問する話がある。そこがカギとなる。

 受胎告知を受けたマリアは妊娠初期と思われる体の危険をかえりみず、大急ぎで山里のエリサベトのもとへ行く(39節)。マリアをそのような行動に駆り立てたものは何か。一つは愛。マリアは落ち着いていない。急いでいる。36節に天使から「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と知らされる。マリアは放っておけなかった。長い間「不妊の女」とさげすまれてきたエリサベトにお祝いの言葉を伝えたかったのだ。愛は落ち着くことをゆるさない。
 
 もう一つの理由は不安。私たちは不安の中に落ち着いてじっとしていられない。38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったが、そこに不安な気持ちがあっただろうと思う。喜びよりも不安。マリアの口から讃美の言葉が出てくるのは46節から。マリアのエリサベトに対する挨拶には、自分の不安を正直に打ち明ける言葉が含まれていたと思う。その不安に対してエリサベトの語ったことは、マリアが体験するのは主の祝福の出来事なのだということ。不安でなかなか一歩を踏み出せない時に、一つの言葉にポンと肩を押されて、前に出られることがある。マリアの口から讃美の言葉があふれ出てくる。
 
 讃美は主の恵みへの応答であり、祈りであり、信仰告白である。マリアの讃美で主の恵みである「偉大なこと」(49節)は複数形になっている。私たちは主の恵みをいくつ知っているだろうか。恵みはすぐに恵みとわからず、マリアのように戸惑い、不安になるものかもしれない。しかし、主の恵みと分かったなら、心からの讃美をしたくなる。主の恵みは、すでに起こったものもあり、これから起こるものもある。私たちはこれからの事についても確信して、讃美をもって応答できるのである。
 
 「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:47-48)。「目を留め」、文語訳では「そのはしための卑しきをも顧みたまえばなり」である。神がこちらを向き、目を留めてくださるなどとは思ってもみなかったのに、こちらへ振り返ってくださった。思いがけない喜びがあふれる。しかも、この後マリアが歌う歌は、堂々たるもの。ルターは、「身分の低い」という言葉を「無きにひとしい」とさえ訳している。顧みるに値するものは何もなかったのに、そのような者が神のまなざしの中に立ったとき、揺るぐことなく、畏れることなく、讃美に生きたのだ。
 
 マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも」と言う。そのマリアに神は「目を留めてくださった」。さりげない告白のようであるが、ここには思いがけない恵みを発見した者の正直な告白がある。恵みは数えるものだといわれるが、過去を振り返ってみなければ分からない。私たちには、恵みを受ける資格も条件もあらかじめ持ち合わせていない。私たちの人生に神が働いてくださった事実があるのみ。私に働いてくださった神は、私が理解や納得するように働いてくださるとは限らない。よくよく人生を振り返ってみると、その歩みのところどころ、方々に思いを越えた神の働きを見る。それこそ恵みの事実がそこにあるとしか言えない。マリアは、わが身に起こった神の働きの事実をそのまま、人々に伝えたのだ。彼女がいかに神を信じたかではなく、起こった事実を語っているだけなのだ。それこそ生の信仰告白だということができるだろう。
 
 クリスマスは、神の愛の出来事を共に感謝し、喜び、讃美すること。この一年の間、わが身に起こった数々の神の愛の出来事、恵みを数えつつ、感謝と喜びと讃美を持ってクリスマスを迎えよう。