逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

一匹を大事にする羊飼い

2019-09-24 11:53:18 | 説教要旨

2019年9月22日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「一匹を大事にする羊飼い」マタイによる福音書18章10-14節

 イエス様のたとえ話には、パレスチナでの自然や日常生活でのありふれた材料がたくさん取り入れられている。羊やぶどうといったものは、神とイスラエルとの関係を示すイメージとして旧約聖書の中でよく知られている。特に羊飼いと羊のイメージについては、神とイスラエルの民との関係を示すイメージとしてしばしば用いられている。羊がイスラエルの民であり、そのイスラエルの民を導くのが羊飼いである神様である。その最も代表的なものは、詩篇23篇のダビデの歌であろう。このダビデの歌は、羊飼いである神に対して全幅の信頼を寄せる羊の歌である。
 
12~13節のイエス様の話されたたとえ自体は、一匹の羊が自分の欲に引きずられて、こっちのほうが緑がいいから一人で食べようとか、あっちの水を一人で楽しんでいようとか、そのような自分の欲に引きずられて、結局迷ってしまった羊をそれはおまえが悪いのであって、迷ったのは自業自得だ、自己責任だ、だからおまえみたいなのは、どこかでのたれ死んでしまえばいいのだと、羊飼いは決してそういうことは言わない。たとえ迷った責任が羊のほうにあったとしても、その羊飼いはそんなことを責めるのではなくて、まず迷った羊をかわいそうに思い、どこまででも探していくのだという、端的にそういったたとえ話である。
 
ここでいう「迷い出た羊」とは「小さな者」である。助けや救いを最も必要としている人々である。また「迷い出る」とは、信仰につまずくことである。だから「迷い出た羊」とは信仰や教会につまずいて離れていった人たちでもある。このような小さな者、弱い者をどこまでも探し求めておられるのがイエス様である。
 
だから、人生において迷い込んでしまってどうしようもなくなっている人にとって、迷える羊を一生懸命追い求めて名前を呼んでいる羊飼いの声、イエス様の招きは心に響く福音となるのである。 人々から理解されないようなときでも、あるいは、人々の慰めが得られないようなときでも、そして、人々と別れなければならなくなる死の床にあっても、必ずいつもイエス様は語りかけ、招いて下さる。まずその招きに応えよう。その愛の恵みを受け取ろう。心の耳で聞きとろう。そして感謝しよう。
 
ところで、今日の聖書の箇所のメッセージはこれで終わりではない。もう一つある。それは弟子たちに警告し、問うことによって教えていることである。10節で「小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」とイエス様は弟子たちに警告している。そしてさらに12節の冒頭で「あなた方はどう思うか。」といって弟子たちに問うておられる。「ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。」「当然行くでしょう」が省略されている。このことはなにも弟子たちだけの問題ではない。私たち自身の問題であり、私たち自身への問いかけでもある。
 
このような警告や問いかけをする中で、次のような教えが含まれている。価値のある人、非常に地位のある人、あるいは学識のある人、そういう価値を豊かに持っている人はどこでも、特にいわなくても非常に大切にされる。けれども、価値を失ったような、色あせたような人、そういう小さな人たちはややもするとこの世から敬遠され、軽んじられる。しかし、そういう小さな人たちこそ大切にするのがイエス様に従う者の使命であると教えておられる。だから、みすぼらしい、価値を失ってしまって、とぼとぼと一人寂しく歩いているような人たちを軽んじたり、何となくみんなと一緒についていけないような人たちを振り落としていくような姿勢はとんでもないことなのだというわけである。
 
だとすると、皆を手こずらせて、いつも迷いやすいような、そんなものは一匹ぐらいどうでもいい。九十九匹のほうが大切だというようなそういう発想というのは出てこないだろうというわけである。逆に考えると、当時そのような考えや、行いがあったということではないだろうか。そして、それは二千年前のこと、弟子たちだけのことではなくて、それは私たちに今問われていることでもある。 
 
イエス様はこれら小さい者の一人でも失われることを望まれない。一人の命のかけがえのなさと全体から疎外された一人をこそ徹底的に求めるイエス様の愛がここに示されている。それはイエス様の十字架の上に示されている。私たちは十字架上での罪赦された者である。イエス様の愛の恵みを受けた者である。この罪の赦し、愛されていることの実感を今、我々がどのように受け取り、またどのように隣人と分かち合っていくのかが問われているのである。罪赦されている、愛されている現在を真剣にそして誠実に受け取る生き方こそがその方向を決める。イエス様の愛の恵みに応えて、迷える羊を捜しに行こう。あなたの隣の空いた席はいるべき人の席なのだから。

一緒に喜んでください

2019-09-18 16:27:26 | 説教要旨

2019年9月15日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「一緒に喜んでください」 ルカによる福音書15章1~7節

 今朝の聖書の箇所で、主イエスは、「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」(4節)と言われた。そして、「『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう」(6節)と言われた。

 この喩えで主イエスは、神について語った。しかしここでは「神に関心を持ち、神に心を向けよ」とは語っていない。少なくともここではそのことが主題ではない。逆に神の方があなたに関心を持っていると語られている。一匹の羊は見失われたままであって、自分の方からは少しも羊飼いを探しはしない。人間も同じ。神から離れていく。神に対する関心を持っていない。あるいはかつては持っていたが、今はなくしている。しかし、神はその人に関心を向けている。神はその人に興味を持っていると、主イエスは言われるのである。とすると、私たち人間に必要なのは、私たちは神から関心を注がれているという発見ではないだろうか。
 
聖書を読むと、今朝のこのたとえがどういう場所で語られたかが記されている。1節を見ると、そこには「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」とある。徴税人や罪人というのは、当時の社会で嫌われ軽蔑されていた人々であった。彼らは律法を守っていない。皆と共同の信仰生活が出来ていない。金銭問題やその他、道徳的な生活でも不正に汚れた生活を送っていた。少なくともそういう疑いが多分にかけられて仕方のない人々であった。その人たちが主イエスの所に来たのである。2節で「ファリサイ派の人々や律法学者たちは、『この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている』と不平を言いだした」とある。主イエスがこういう人々を迎えているのは、正義に反するではないか。神の聖なる御旨をないがしろにしている。何もかもいっしょくたくにして、善と悪とを逆にして社会の秩序を壊しているという不平である。「食事まで一緒にしている」。神の民としてのイスラエルの誇りをひどく傷つけられたファリサイ派や律法学者たちの怒りの声が聞こえてくるようだ。
 
しかしそれにしてもなぜ、「徴税人たちや罪人が皆」、話を聞こうとして主イエスのところに近寄って来たのだろうか。この人々が近づいて来たのは、ファリサイ派の人たちが言うようにその根拠は主イエスにあった。主イエスが彼らを「迎えた」からである。主イエスに迎えられたので、彼らは近寄ったのだ。主イエスのたとえの表現で言えば、羊飼いである方ご自身が彼らを探し、見つけ出したのである。そして喜んで下さいと言って人々を呼び集めた、その喜びの食事が今なされているというのである。だから当然、「罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」ということになるのである。それはイエスにとっては喜びの食事だった。
 
主イエスが罪人を招き、探し、見つける。そこに「神が羊飼いでいて下さる」ということが現れている。主イエスの前代未聞の振る舞いを通して、神が赦しの神であり、神の関心が罪ある人たちに向けられていることが示されたのである。「見失った1匹を見つけ出すまで探し回らないだろうか」と主イエスは言われた。神はそのようなお方だというのである。そして主イエスご自身が「見失った1匹を見つけ出すまで探し回る」、そのためにこそ遣わされてきた神の子なのである。主イエスは、見失った1匹を探すために来られた方である。
 
羊飼いである神はどこまで探し回るのだろうか。それは見つけ出すまでである。一体どこで神は私たちを見つけ出して下さったのだろうか。それはあの主イエスの十字架の上でではないだろうか。あそこで、主イエスは私たちの罪を代わって負われたのである。その主イエスの代理によって、私たちは赦されたのである。そして神の民の中に受け入れられ、キリストのものとして見つけ出されたのである。主の十字架は私たちが見つけ出された発見場所である。
 
見失われた人をこそ探す神。神の人間への関心。しかも「無に等しい者」となった者に対する神の愛。それがキリストの十字架の中に激しく表現されている。キリストの十字架の中で見つけ出すまで、どこまでも探して下さる神が、主の十字架の中に示されている。

友と呼んでくださるイエスさま

2019-09-11 18:00:23 | 説教要旨

2019年9月8日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「友と呼んでくださるイエスさま」ヨハネ福音書15章11~17節

 「あなたは誰か」と問われたら何と答えるか。誰から問われているのか、どのような状況の中で問われているかによって、答えがいろいろ考えられるだろう。例えば、学校の先生であれば、生徒の前では教師。男性で結婚して子どもが生まれれば父親、孫の前ではおじいちゃん。そしてお店へ行けばお客さん。というように何者であるかは関係性の中で規定されていく。関係性など関係なく、「私はわたしだ」と言っても、では「何が私なのか」と問い返されると返答に詰まってしまうだろう。なんらかの自己証明をしなければならない。自己証明を英語でアイデンティティという。別の訳で自己同一性とも、主体性とも訳される。本当の自分や、自分が自分であることの確信を持つことである。しかし、これがなかなか難しい。おかしな話だが、たとえば役所や銀行などに行って、「私は○○です」と氏名を名乗っても相手にされない。本人が言っているのだから、これほど確かなことはないのだが、通用しない。自己証明するために、身分を証明する運転免許証かパスポートなどの提示を求められる。第三者からの証明。

何が言いたいのかというと、私たちは関係性の中で生きているということである。第三者による証明であったり、他者との人間関係の中で自分が何者であるかを示されるということである。そしてそのような関係性の中で示された自分をそのようになっていくように生きていく存在であるということである。たとえば、教師であっても初めから教師ではない。生徒との出会いがあり、教師としての務めを一生懸命やって、生徒との信頼関係ができて初めて教師となっていくのである。結婚して子どもが生まれて父親になるわけではない。子どもに対して父親としての役割をしっかり果たして初めて父親となっていくのである。そんなの関係ないと言って、私はどこでも私だと言っているだけでは、何者にもなれない。ただのわがまま、自分勝手な、だれからも信頼されない存在でしかない。そんなのは主体性でも何でもない。
 
前置きが長くなってしまったが、ヨハネによる福音書15章では、「あなたがたは……である」という主イエスの言葉によって、「私たちは誰であるのか、何者であるのか」が明確に告げられている。そこで、私自身が誰であるのかを知るならば、そして受け入れて、そのように生きるならば、実り多き人生を生きるようになると約束されている。

「あなたがたはその枝である」と主イエスは言われる。そして大事なことだが「わたし(主イエス)」と「あなたがた」は「つながっている」関係だと言われるのである。つまり、私たちは、イエス・キリストの中に深く根をおろした存在にほかならないというのである。

先ほどの人間関係で言うならば、「つながっている」ということは「信頼する、される」という関係である。運転免許証が私にとっても相手にとっても信頼があるから通用するのである。生徒が信頼するから教師でおられるのである。いくら私は教師だと言っても、信頼を失えば、だれも話を聞いてくれない。いくら私はお前の父親だと言っても、ちっとも父親らしいことをしなければ、そのうち、子どもから「あんたなんか親でも父親でもない」と言って捨てられるだけであろう。キリストにつながっていなければ、捨てられる(6節)とある通りである。
 
さらに、8節で「あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら」とあるように「私たちはキリストの弟子です」と応答することによって、自分が何者であるかを確認することが出来る。そしてキリストの弟子であるように生きる存在となっていくのである。
 
さらに驚くべき言葉を私たちは聞かされる。14節「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」。「あなたは誰ですか」。「わたしはキリストの友です」。そのように答えることが出来るのである。何と驚くべきことであろう。そしてキリストの友として生きる存在として生きることが許されるのである。そのようにしてキリストの友となっていくのである。
 
先程から、○○として生きる存在として生きることによって、○○になっていく、と繰り返した。ぶどうの枝になっていく、そのためにはつながっていなければならない。ぶどうの木であるイエス・キリストに全き信頼をおいて生きていくということである。そうすると豊かな実を結ぶと言われる。豊かな人生を歩むというのである。キリストの弟子となっていく。キリストの弟子として生きる。それは父の掟を守る。神を愛し、隣人を愛するということ。キリストの友として生きる。それは、互いに愛し合いなさいとイエスが言われる、愛する人生を生きるということ。まとめると、イエス・キリストに信頼し、神を愛し隣人を愛していく人生を生きる中で、実を結ぶ枝となっていく、キリストの弟子となっていく、キリストの友となっていくのである。そこに豊かな人生が待っている。

信仰・希望・愛

2019-09-03 12:06:21 | 説教要旨

2019年9月1日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「信仰・希望・愛」Ⅰコリント13章1~13節

 「愛の賛歌」と呼ばれる13章は三つの部分に分かれている。1~3節には愛の必要性。4~7節では愛の特質。8~13節では愛の不滅性が語られている。
 
 まず、1~3節だが、「たとえ……しようとも、愛がなければ……である」という言い方で、三つの文が並んでいる。1節は、あらゆる種類の優れた異言を語ることが出来ても、愛がなければ、そうぞうしくかえって迷惑なだけである、という。2節は、預言の力やあらゆる奥義と知識を極める洞察力、山を移すほどの奇跡的信仰も、愛がなければ、それらのいっさいがゼロに等しい、という。3節は、全財産をささげ、からだを焼かれる殉教の死を遂げても、愛がなければ、すべては無益である、という。なぜなら、そこには必ず利己心と虚栄心とがからみついているからである。
 
 しかし、誤解してはいけない。パウロはこれらもの(異言、預言、知識、信仰、教え、奉仕、殉教)を単純に軽んじて否定しているのではない。ただ愛が伴わないなら、それらのものは空しくなると言っているのだ。愛が必要条件であるというのである。信仰も知識も教えも奉仕も否定されるものではなく、価値あるものであるが、それが愛において全うされる、完全にされると言っているのである。

 では、その愛とはなんであるかだが、二つ目の部分、4~7節、ここに愛の特質、愛とはどのようなものであるかが述べられている。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。……」。このような書き方に二つの特徴がある。そして、そこから愛の特質を理解することができる。一つは主語が「愛」であると言うこと。もう一つは主語である「愛」が擬人法で表現されていることだ。「神は愛である」(第一ヨハネ4:7以下参照)ので、主語の「愛」のところを「神」と読みかえてみることができる。「神は忍耐強い。神は情け深い。……」。ここには「神は愛である」と言うメッセージが隠されている。
 
 もう一つ、擬人法で語られているということは、愛は生きて働くもの、愛はもっぱら行動に即してのみ語られるということを意味している。ここでは、動詞が15も使われている。すなわち、愛は行為であり、その行為は愛の働きであるということ。そして、行為の主体は愛である。すなわち神である。神ご自身が働かれるのである。本質的に愛である神が、愛の行為をされるのだ。そして、そのことが何であるかが我々に知られるのは、究極的にはキリストの十字架である。キリストの愛は自己を犠牲の供え物とし、献身し、仕える愛であるということである。神の愛はキリストの愛であり、十字架の愛であるというメッセージがここにある。
 
 最後の三つ目の部分は、愛の不滅性である。「愛は決して滅びない。」 愛のみは不滅であるというのだ。先ほど愛を神と読み替えてみたが、同じようにすると、「神は決して滅びない」となる。神の永遠性、不滅性を言っているわけだ。他方、造られたもの、そこから出るもの、花は散り、木の葉が落ちるように諸々の霊の賜物、預言や異言や知識は廃れるであろうというのだ。なぜなら、「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」である。不完全であり、相対的であり、部分的だからである。だから10節「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れ」るのである。「そのとき」とは「完全なものが来たとき」であり、それはこの世と歴史の終末の日、キリストが再臨し、栄光の神の国が現れる時である。その時、部分的なものは完全なものの前では不必要である。鏡で見るように間接的にしか見ることの出来ないものは、その時、直接的に「顔と顔とを合わせて見ることになる」時、必要ではないのである。
 
 ここでパウロは終末の待望の信仰から語っている。終末はまだ来ていない。それゆえ、終末が来るまでの間存続し続けるものがここで提示される。「信仰と希望と愛」である。この三つは、キリストに愛され、生かされ、新しくされた信仰者のあり方、生き方を示している。私たちの信仰は神の義と結びつき、そこに救いの唯一の根源を求める。そして、そこから来たるべき神の国を待ち望む。さらに、神の愛を通して現実の生活を生きるのである。
 
 パウロは、これら三つのもののうち愛をさらにその上位におくことによって、愛がすべてのものの基礎にあること、愛はすべてを完全に結ぶ帯であること(コロサイ3:14)、最高の道であることを主張している。私たちの人生がキリストの愛の基盤の上にあり、キリストの愛に結ばれているとき、私たちはそのような愛に生きる者として生かされていく。

 私たちが4節以下にあるようなことが出来るとか出来ないとかそんなことをパウロは言っていない。愛の主体はあくまで神であり、キリストである。私たちに問われるのはそのキリストの愛の支配と力に満たされているかが問われるのだ。教会の中心にキリストがおられるのかが問われるのだ。教会のかしらであり、からだであるイエス・キリストに一人ひとりがつながっているかが問われているのだ。先ほどコロサイ3:14「愛はすべてを完全に結ぶ帯である」と引用したが、要はキリストの愛につながっているか、ということだ。しっかりとキリストに結びつこう。キリストの愛にまったき信頼をおこう。キリストの愛に結ばれ、支えられ、そして導かれて、豊かな恵みの人生を歩もう。