逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

沈黙の愛

2021-11-29 15:26:23 | 説教要旨
2021年11月28日 主日礼拝宣教
「沈黙の愛」 ヨハネによる福音書8章1~11節
 聖書に限ったことではないが、物語を読むとき、どのくらい登場人物の立場に身を置いて読めるかということがとても大切。その感情や気持ちを拾うことが肝要だ。ヨハネの福音書8章にある「姦通の女」の物語はそういう読み方が必要な話の一つだろう。
 出来事は、主イエスが早朝エルサレムの神殿で、集まってきた民衆に教え始められた時に起こった。律法学者やパリサイ派の一群が姦通の現行犯で捕らえた女を主イエスの前に突き出し、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問い詰めたのだ。律法違反で死罪だというのだ。
 といっても、この質問は女の裁判を求めたのではなく、「イエスを試して、訴える口実を得るために」であって、「赦せ」と言えばユダヤ教の律法違反だとして訴え、逆に「殺せ」と言えば、おまえの説く神の愛と矛盾するではないかと追い詰めることができるのだ。また当時、ローマ帝国の支配下にあったユダヤ人は死刑執行権がないから、処刑を承認するなら、ローマ帝国への反逆者として告発することもできるわけだ。要するに彼らは、律法の適用をめぐって教えを請うたのではなく、「イエスを試して、訴える口実を得るため」に女を利用しただけなのだ。
 このような場に突き出された女の気持ちは、どんなものだっただろうか。簡単にその心の内を想像することはできないが、耐え難い苦痛であったと思われる。断罪されるだけなら、恐ろしくはあっても当然の報いとして受け取ることもできるだろう。しかし、それを公衆の面前で利用されるとなると、つらさは増幅されるのではないだろうか。そしてこの恐怖と屈辱に加え、あられもない姿を男たちの目にさらされる恥辱には計り知れないものがあったに違いない。ここに人間の恐ろしさがある。何の哀れみもかけず、さらし者にして利用しようとする、人間はそういう心にもなってしまうということなのだ。
 主イエスは、「ところで、あなたはどうお考えになりますか」と問い続ける律法学者たちの前で、目も合わせず指で地面に何かを書いておられた。主イエスの沈黙が続く。この沈黙は問い詰める律法学者たちに向けられたものだと思われる。主イエスは彼らを憐れみ、そして悲しくなったのではないだろうか。やがて身を起こして「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と返された。律法学者たちやパリサイ派の人々は、「罪を犯したことのない者が」と言われて、自信を持って「ない」とは言えず、年長者から始めて、一人また一人と立ち去った。彼らは隠れてしてきたこと、秘密にしてあることなどを思い起こしたのだろうか、良心が痛んで立ち去ったのだ。彼らは主イエスの沈黙の後で発せられた言葉によって、自分自身と向き合わせられ、自分の罪を自覚させられたに違いない。
 ところで、姦通の女は、皆が去った後のつかの間の静寂に何を感じ取ったのだろうか。これこそ、恐れと恥辱に震える彼女の立場に身を置いて考えてみなくては分からないことだが、それを思い巡らしていくと、その静かな沈黙の中に主イエスの温かさが感じられてならない。私はこれを「沈黙の愛」と呼びたい。 
 彼女はこの愛に触れ再生に向かったのではないだろうか。ポール・トゥルニエが言うように、人が「自分の過ちを認めるにいたるとするならば」、それは「彼・彼女を裁いたことのないだれかとの、打ち解けた雰囲気の中で生じてくること」(『罪意識の構造』)なのだ。彼女は沈黙のうちに視線をそらしてくれた主イエスとの温かな関係の中で、真の自分の姿を見ることができたのではないか。自分の罪と向き合うことができたのだ。
 人々が立ち去った後、主イエスが彼女に「あなたを罪に定める者はなかったのですか」と言われると、彼女は「だれもいません」と。これに対して主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われた。ここに主イエスの愛と配慮を感じる。恐れと恥辱の中に突き出され、やがて静かな沈黙の中で赦しの愛に触れた彼女は、どんなに平安を得たことだろう。 

隣人愛とは

2021-11-23 15:01:12 | 説教要旨
2021年11月21日 主日礼拝宣教
「隣人愛とは」 ローマの信徒への手紙13章8~10節
 キリスト者の倫理は、愛と自由であるといわれる。愛とは他者に対するあり方であり、自由とは自分自身へのあり方と言えるだろう。
 今日はその愛について考えてみたいと思う。パウロは「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)と言い、他者を愛することがどれほど大きい意味を持つかを強調した。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。だから、パウロはここで、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」(ローマ13:9)などを取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになる。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っているのである。しかし「愛する」ことは義務ではない。義務だと責任が伴い、その責任が問われる。「だれに対しても借りがあってはなりません」とは、義務ではないから責任を問われないという意味に解釈できる。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係をつくり上げる。もし義務で他者を愛するなら、血の通わない、冷たい人間関係が残るだけであろう。
 キリスト教の愛について語る場合、様々な立場から、あるいは切り口から見ていくことができるが、今日は、他者性という切り口から考えてみたいと思う。冒頭に愛とは他者に対するあり方であると言った。「愛」は「愛」という名詞だけでは存在しない。「愛する」という動詞となって、行為となって初めて存在するものである。そして、「愛する」となると必ず愛する対象が必要。それが他者である。
 その他者との関係だが、先ほどは肯定的に前向きに考えた時のことを話した。さらに義務ではなく自発的なものであるとも言った。ここでさらにもう一つのことを付け加えたいと思う。それは、9節にある「隣人を自分のように愛しなさい」の「自分のように」である。マタイ福音書には「自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ」(マタイ22:39)とあるが、同じ意味内容である。主イエスが具体的に、「自分を愛するように」と説いていることがポイントだ。キリスト教は自己愛を重視する。裏返して言うならば、自分を愛することができない人は、隣人を愛することもできない。自分を愛することができないのは、自己肯定感が持てないからだと言われている。そういう人は小さい時から愛されたことが少なく、褒められたり、認められたり、抱きしめられたりして愛されたことの経験が少ない人に比較的多いと言われている。愛された経験がないから、愛が分からない、愛し方が分からないとでも言ったらいいだろうか。愛の負の連鎖である。その負の連鎖を断ち切るにはどうしたらいいだろうか。それは神さまが自分を愛していて下さると気づくこと、受け入れることから始まる。神の愛は無条件で一方的で、永遠。昔も今もそしてこれからも変わらず神は私たちを愛し続けられている。その神の愛をいっぱい受けることによって、隣人を愛するものへと変えられていくのである。そして神の愛の恵みの分かち合いに励みましょう。





同じいのちを生きる

2021-11-16 11:08:51 | 説教要旨
2021年11月14日 召天者記念礼拝宣教
「同じいのちを生きる」 
ヨハネによる福音書11章25節、ヨハネ黙示録7章9-12
 召天者記念礼拝は、先に召された人々をしのびつつ、残された者たちを慰めるものではあるが、それだけではない。召された者を記念することは、キリストにあって意味づけられ、「主にあって共に生き、共に主を証しする」ことが明らかにされるのである。
 黙示録7章9節以下は、天においても主の前で礼拝している様子が描かれている。信仰によって義人とされた者は、白い衣を着て、天の国に入ったしるしとしてナツメヤシの枝を手に持ち、神と小羊の前で賛美の声を上げている。かつて主イエスを十字架の死へと追いやった群衆が今や、生け贄の小羊であるキリストによって救われ、義人となり、小羊なる方を礼拝している。
 礼拝を守らないキリスト教会はない。礼拝こそが最高の信仰の献げ物である。天国においては、この礼拝が最も完成された形で守られている。肉において生きている間は、祈りに雑念が入り、御言葉を聞くにあたって居眠りも珍しくない。けれども、天上の礼拝は、「昼も夜も」神に仕えるのであり、小羊なるお方が牧者となってくださるのだ(7:15以下)。天国へ迎え入れられた時、信仰者は、その礼拝に参加することが約束されている。
 そのような天において捧げられている礼拝は、同じ信仰に生きる者によって捧げられているこの地上での礼拝と連続している。今、「同じ信仰に生きる」と言ったが、それは私たちには永遠の命が約束され、この地においても、天においても同じいのちを生きるということにほかならないからだ。
 ヨハネ福音書11章25節で「私は復活であり、命である」という主イエスの御言葉が語られている。それは主イエスが愛された家族、マルタとマリアの兄弟ラザロが亡くなり、主イエスがその家にお出でになった時のこと。「あなたの兄弟は復活する」と主イエスが言われたのに対して、マルタは当時の人々の言うままに、あまり考えもしないで、「終わりの日に復活することは、存じています」と答えたのだった。その答えに対して、主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言われたのだ。これは強烈な言葉である。死んだ者も生きている者も皆同じ命を生きていると言っているのだ。その命とはキリストの命。これは霊魂不滅とか、不死の賜物といったことではない。
 キリストの命を生きるとは、キリストと取り換えっこした命を生きているということにほかならない。しかも生きていて、今その命を生きており、死んでもその命を生きる、それが信仰者の復活の意味であることを強い響きのうちに私たちは聞くのだ。永遠の命とはそのことである。私の命のことではない。キリストによって生かされている命である。
 キリストによって生かされる命に生きるとはどういうことだろうか。それは、御言葉に生きるということである。ヨハネ福音書5章24節で、主イエスの言われた、「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」ということである。また、詩編119編105節には、「あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」とある。ある牧師曰く、「御言葉が照らすのは、今踏み出す足元だけでよい。一歩一歩を御言葉の光の中に踏み出す。そして生涯を振り返る時、その曲がり角であったところに、まるで自分が歩んだ旅路の里程標のように御言葉が輝いていることを感謝をもって思い起こすだろう」。
 聖書を開くと、ここでもあそこでも立ち止まって、この御言葉によって足元を照らしていただいた思い出が浮かび上がってくるだろう。そうであればこそ、これからも、同じように足元を照らす御言葉が与えられることは確かである。それは同じいのちを生きるということにつながっているのである。

神は善、恵み深い

2021-11-08 11:41:20 | 説教要旨
2021年11月7日 主日礼拝宣教
「神は善、恵み深い」 詩編100編1-5節 
 詩編100編は、神が善であることを信仰告白的に強調している。5節に「主は恵み深く、慈しみはとこしえに/主の真実は代々に及ぶ。」とあるが、「恵み深い」は「トーブ」というヘブライ語の訳。このトーブの本来の意味は「良い」「善](good)。だから、ここは「神は良い、あるいは善である」と訳してもよいと思う。そして、この5節には、神の善に対する信頼と確信がみなぎっている。「とこしえに」あるいは「代々に及ぶ」という言葉がそれを示している。
 実は、この詩編は、その昔、人々が神殿に行列を作って、歌を歌いながら進んで行った、そのことがモチーフ(動機、題材)になっている。2節、4節を見ると、「賛美せよ、感謝せよ」と繰り返し呼びかけられているが、行列を組んで進む人々は、日常生活において全てがうまくいっていたわけではないだろう。中には仕事がうまくいってない人もいただろう。経済的に苦しい人もいたであろう。病気や健康のことで大きな不安を抱えていた人もいたことだろう。それは現代の我々も同じではないだろうか。すべてがうまくいっている人などいない。みんななにがしかの厳しい現実に直面して生きている。しかし、詩編は、日常的にうまくいってない人に向かって、「にもかかわらず」、「賛美せよ」「感謝せよ」と言っている。
 ではなぜ、にもかかわらず、賛美せよ、感謝せよと言っているのだろうか。それは、命の根源に目を向けるようにとの呼びかけではないか。詩編100篇は、一人ひとりは意識しようとしまいと、命は神に切り離しがたく結びついている。だから、その命の根っこのところに目を向けて、神に「感謝せよ、賛美せよ」と言っているのである。
 それは3節を読むとよくわかる。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民/主に養われる羊の群れ。」とある。「主はわたしたちを造られた。」これは神の創造行為と関係した言葉。「その民/主に養われる羊の群れ。」、これは命の保持としての救いと関係する言葉。神の創造と救いのテーマは聖書全体を貫くメッセージであり、信仰の内容である。聖書の神は命を創造し、その命を愛をもって養われ、導かれる神である。これが聖書のメッセージ。そして、この聖書のメッセージである創造と救いには「善」ということが深く関係しているのである。
 たとえば、聖書の創造論が語られるもっとも有名な箇所は、創世記の1章だが、創世記1章で「良い、善」を意味する「トーブ」という言葉が7回も使われている。そこでは創造した天地万物を神が良いもの、善として肯定されたことが語られている。もちろん私たち人間も。私たちの命には神の善が、神の「良し」という宣言が宿っているということである。この創世記の記者の置かれている状況は人の命を良しとしない、命が軽んじられ、希望のない現実が背景となっていたはずだ。にもかかわらず、神の善に言及が及んでいる。
 救いということでは、この詩編100篇は、羊飼いが羊を導くように養い、導くことの中に神の救いを見ている。それは、神の奇跡的な救いではなく、人の日常的な営みの中での神による命の持続的保持、維持、支えに神の救いを見ているということである。 
 神を羊飼いとする比喩で有名な詩編23篇がある。1節「主は羊飼い、わたしには何も書けることがない。」に始まり、6節に「命のある限り/恵み(トーブ)と慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」とある。この詩編23篇は、神を、良い、善なる羊飼いとして印象深く歌い上げている。この詩編23篇の作者の置かれている現実は、政治的に休まらない現実だったと想像できる。そのような中で、どこそこの王ではなく、主なる神こそが自分の魂の本当の養い手であり、導き手であると主なる神に対する信頼をきっぱりと歌い上げて信仰告白している。
 命の尊さが軽視されることの多いこの世界にあって、神が善であることは、命ある者にとって揺るがない基盤である。その上にすべての望みと信仰が基礎づけられていく。これからの人生、いろいろなゆさぶりや困難なこと、悲しいことがあるかもしれない。しかし、その中にあって、善である主なる神に信頼し、祈りを通して主なる神に心を開いて交わり、霊の力を与えられて、感謝と賛美のうちに歩んでいきたいと思う。