逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

誰と共に生きるのか

2022-11-28 10:54:57 | 説教要旨
2022年11月27日 主日礼拝宣教
 「だれと共に生きるのか」  申命記24章19-22節
 暦は今週半ばから12月を迎える。刈り入れの秋は終わった。今年も多くの自然の恵みをいただいている。神の恵みとして、感謝していただきたい。
教会の庭の柿の木は、今年は残念ながら豊かな実りをもたらさなかった。柿の木は成り年と不成り年があると聞いているので、今年は実の成らない年なのだろう。いずれにしても何の手入れもしないのに、おいしい柿の実をいただいていると申し訳ない気持ちになる。誰に対して申し訳ないのだろうか、とふと思ったりする。大地の恵みに感謝して、精一杯、神にお返ししたいと思う。
 柿を収穫する時、全部取らないで、3,4つ程度、柿の実を残すそうだ。すべて取りつくさない。それは餌の少ない冬場に鳥たちの食物になる。それを「残り柿」という。このような心やさしい風習があることを知ったのは大学生の時だった。
 大学の恩師、古田拡先生(児童文学者、国文学者)の中学教科書にも載った随筆『残り柿』を学んだ時だった。その随筆は、四国の寒村(古田先生の故郷)の晩秋の風景がつづられていて、村の人々が自分たちのひもじさを我慢しながらも、鳥たちのために柿の実を残す風習がつづられていた。都会育ちの私には鳥のことなどに思いはいたらない。実ったものは全部収穫するのが当然と考えていたので、そのような心貧しい、想像力の欠けた自分が恥ずかしくなったことを覚えている。
 クリスチャンになって、聖書を読むようになり、同じようなことが聖書にも書かれていることを知った。レビ記19:9-10や申命記24:19-22に書かれている。「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落ち穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ記19:9-10、申命記24:19-22参照)。
 いわゆる落ち穂拾いの規定である。収穫物の一部を寄留者、孤児、寡婦と分かち合うべきであったのだ。これら三者は農地を持てず、生活上不利であった。古代社会なりの一種の社会保障である。その動機は、出エジプトという自分たちの過去の歴史である救済史の出来事であった(申命記24:22)。さらに、この規定には、土地は神のものであり、土地所有者も土地を持たない貧しい者も共に神の恵みに与るべき、という思想がある。共に生きるという原点である。この土地を命と置き換えるともっとよくわかる。命は神から与えられたものであり、私もあなたも同じ命を生きるものであるゆえに、ともに神の恵みに与るべき存在だという考えであり。
 だから、イスラエルの共同体は、弱い立場にある者を保護するのは隣人への大きな愛であって、そうすることによって共同体全体が恵みをうけるとした。この規定は、土地を持たない貧乏な人が飢えることなく過ごすことを目的にしたものである。
 ひるがえって現代社会は弱肉強食、優勝劣敗の世界。このルールが社会に跋扈するときは、相手を打ち負かすための競争をしなければならない。競争社会。そうなれば人間関係はますます差別化が激しくなる。勝ち組と負け組。差別だけではなく、格差社会を生み出づ。そういう社会では、自分の責任でなく弱者として生きねばならない者、生まれつき能力が及ばない者は、落ちこぼれる以外に道はないことになる。最近言われている嫌な言葉「親ガチャ」もそのことを端的に言い表している。
 その点では、キリスト教会は、今日の落穂拾いの規定をはじめとした、神を愛し、隣人を愛しなさいという聖書の精神を汲んで、昔から教育、福祉、医療、そして最近では心理臨床(カウンセリングなどの相談活動)の働きまで及んで、弱い者と共に生きる社会の形成を目指してきた。同時に、これは教会に繋がるキリスト者一人一人に通じる優しさの奉仕の精神の表れである。譲る、思いやる、もてなす、いたわる、これらは現在社会が求める優しさである。このような優しさをほんの少しでも分かち合うことができれば、どれほど社会を潤すことか、優しさをもらった者はよく知っている。誰と共に生きるか。答えはおのずから示されることだろう。 

数えられることの意味

2022-11-24 12:30:21 | 説教要旨
2022年11月200日 主日礼拝宣教
「数えられることの意味」民数記1章1-19節
 民数記は、1章1節にあるように、「イスラエルの人々がエジプトの国を出た翌年の第二の月の一日、シナイの荒れ野にいたとき、主は臨在の幕屋でモーセに仰せになった」から始まる。「荒れ野」とは、イスラエルの民が精神的に根本から鍛え直された故郷であり、そのように理解し、自分たちの文化や信仰の原点と見なした場所である。だから、預言者たちはイスラエルの民の精神的ゆるみや堕落を見ると、荒野へ行って本来の自分を取り戻せと叫んだのだった。
 さて、その荒れ野での旅だが、20歳以上の男性だけで60万人を越える民族大移動である。イスラエルの民は、今までそのような経験をしたことがない。しかし、だからと言って、各自が自由に振舞っていては、荒野を乗り切ることはできない。だから神の民の信仰共同体として、各自の役割を明確にし、神の言葉に従いながら、約束の地に向かう旅が整えられなければならない。そのことの始めが、神からの命令、2節にある、「イスラエルの人々の共同体全体の人口調査をしなさい」であった。
民数記には二度の人口調査が記されている。最初の人口調査は冒頭の部分で、荒野を旅するにあたって、外敵から民を守り、先住民の間を通過するためのものだった。二度目の人口調査は26章に書かれているが、新しい世代による「約束の地カナン」への侵入のためのものという、いずれも軍事上の必要からであった(3節)。
 人数を数えるというのは、直接的には軍事的必要だったかもしれないが、それは数える側(指導者層)の論理であって、一方、数えられる側(多くの民たち)にとっては、それは何を意味したのだろうか。荒れ果てた大地を、行く宛ても知らずに旅する時、いったい自分は何者なのかという問いが出てくるのではないだろうか。イスラエルの民は、帰る場所を持たず、全財産、全家族を抱え、すべてを賭けた極限状態での旅を続ける。すべて、モーセを通しての主の言葉に従ってのこと。だから、そのような荒れ野において、神の民に数えられている者であるという自己認識は、荒れ野の旅を続ける上で、大きな支えになったことだろう。
 映画「男はつらいよ」で、有名なメロン騒動という場面がある。とらやの家族みんなでメロンを食べるとき、寅さんの分がなかった。数に入ってなかったのだ。寅さんは傷つく、すねる。さくらをはじめ周りも気まずい、しまったと思っている。ひと騒動が起こるという場面である。ドラマの中でなくても、日常生活でよくあること。たとえば、定年退職した男性が、家庭では家族との会話はなく、奥さんからは疎んじられ、地域からは数えられておらず、行く先もない。一方、家族との会話が弾み、大事にされる、地域から、またいろいろなところから必要とされ、何か行事や仕事がある度に数えられて、覚えられて、役割が与えられる。期待される。何と生き生きしたやりがいのある第二の人生でしょうか。それは退職した男性ばかりの話ではない。私たち人間誰でも同じこと。数えられている、覚えられている、役割が与えられる。なんと素晴らしいことだろうか。
 私たちキリスト者はその上にさらに、神に数えられている、覚えられている、教会から祈られている。何という恵みだろうか。それだけではない。生き甲斐、役割もそれぞれにふさわしいあり方で与えられている。祈ること、奉仕すること、献金すること、伝道すること、賛美すること、教えること、証しすること、助けること、励まし支えることなどなどいろいろある。どれもそれぞれに与えられた賜物を精一杯使ってできることであり、そこに喜びと感謝があふれる。そしてどれも、他者に向かって、外に向かって開かれた働きである。まさに生きがい、生き生きとした新しい人生である。信仰生活とはそのようなものだと言えるのではないか。私たちは神に数えられている、覚えられている、教会から祈られている。その確信があるゆえに、根源的な生きる力が与えられるのではないだろうか。

愛はつながる

2022-11-15 18:19:56 | 説教要旨
2022年11月13日 逗子第一教会 召天者記念礼拝宣教 杉野省治
「愛はつながる」 ローマの信徒への手紙13章8-10節
 ご先祖の墓を守る人がいなくて「墓じまい」をする人が増えたというが、今度は「仏壇じまい」をする人も増えてきたという。仏壇じまいの理由はやはり継承者がいないということと置く場所がないということだ。しかし、仏壇がなくなっても故人とのつながりを持ちたいと考えている人も多い。そのために写真を飾ったり、手元供養をするために少量の遺髪や遺骨をペンダントトップに納めたりして、故人とのつながりを大切にしている。やはりつながりは持ちたいという思いは誰にでもあるのだなと思わされる。
 教会ではどうだろうか。今日は年に一回の召天者記念礼拝。私たちの信仰の先輩である故人を想い起しつつ、神さまが故人を通してなされた数々の恵みの働きに感謝し、併せて遺族の方々の慰めと平安を祈る礼拝である。大切にしたいと思う。しかし、よく考えてみると実は年に一回だけの召天者を覚えての礼拝ではない。礼拝とは毎回、天上で行われている礼拝とつながって、この地上でも同じ神さまを礼拝しているのだ。日頃はそのような思いを持つことは少ないのだが、実はそうなのだ。イエス・キリストを通して、つながっているのである。一言でいえば、すでに天に召された人も天において神さまと共にいて愛されて礼拝している。ヨハネの黙示録にその様子が詳しく書かれている。同じように私たちも神さまが共にいてくださり、神に愛されて礼拝している。神さまの愛によってつながっているのである。
 そこで、つながりと愛について、聖書から学んでみよう。パウロは10節で「愛は律法を全うする」と言い、他者を愛することがどれほど大きな意味を持つかを強調している。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。パウロはここ9節で「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」などを取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになる。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っている。
 しかし、「愛する」ことは義務ではない。「だれに対しても借りがあってはなりません」とはその意味。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作り上げるもの。もし義務で他者を愛するなら、冷たい人間関係が残るだけだろう。
 マザー・テレサは「愛情の反対は、憎しみではなく『無関心』」と言っていたが、本当に無視されることほど、人間の尊厳が大きく傷つくことはない。『そんなの、関係ねえ』というフレーズが10年以上昔はやったが、現代の日本人は自ら関係を絶つことを望むような傾向にあるように思われる。隣近所の付き合いからはじまって、地域のつながり、職場の付き合い、親戚との付き合い、友だちとの付き合い、様々な付き合いをわずらわしいものと思うような傾向がないだろうか。そのようにして自ら関係を絶っていくことによって、ますます孤立感を深め、人間不信を増長させ、さらに自分自身をも傷つけていく。そのようにして最後は自己否定へと陥ってしまうということになってはいないだろうか。最近増える傾向にある、「死にたかった。だから、だれでもよかった」という殺人容疑者の供述はそのことを物語っているようだ。関係性の喪失の悲劇である。
 先ほど「愛する」とは、結果として温かい他者との関係を作りあげることだと言った。その「温かい他者との関係」がつながりであり、そこに信頼関係が生まれ、マザー・テレサのいう「無関心」とは反対の「愛情」が生まれ、関係性が構築されていくのである。 
 そして、その「つながり」は内向きではなく、外向きの「つながり」でなければならない。外に開かれていなければならない。教会も同様である。教会も基本的には地域につながることが求められている。開かれた教会とは、地域と開かれた関係性をつくっていくことである。何でつながるのか?お金でつながる。そんなお金は教会には残念ながらない。教会にあるのは「愛」。神の愛。愛のつながりである。地域に仕える教会として、愛のつながりをつくることが求められている。
 最後に、カトリックの信者だった元国連難民高等弁務官の緒方貞子さんの言葉を紹介する。「難民問題は私の高等弁務官時代より量・質ともにより深刻になっている。重要なことは苦しんでいる人々に関心を持ち、思いを寄せ、行動をとることだ。人々が互いを思いやることこそが、人間の最も人間らしいところだと思う」(「朝日地球会議2016」)。

74歳、ないのは〇〇だけ。あとは全部そろってる

2022-11-12 15:01:59 | コラム
 表題の〇〇にどんな言葉が入るでしょうか?そう、「お金」です。牧師ミツコさんの『74歳、ないのはお金だけ。あとは全部そろってる』(すばる舎 2020年 1,300円)の本が昨年から静かなブームとなって売れている。同じ牧師としてまた同年代の者として、共感するところが多かった。平易な文章で、読みやすい。この本を読みながら、今一度自分の生活を見直してみるのもいいでしょう。生きるのが楽になりますよ。お勧めです。お貸しします。
 本の帯のアピール文を紹介しよう。「牧師にして子ども4人・孫16人のビッグマザー、清貧かつ豊かな生活!」「年金7万円の暮らしでこんなに明るいひとり老後」「あるお金で感謝して、それで十分足りる暮らし」「手作りの食事と筋トレで健康維持」「週3回のシルバー人材の仕事が張り合いに」「71歳からプール通い。いくつになっても新しい挑戦」「植木の花が咲いただけで、空が晴れただけで幸せ」。

生きよ

2022-11-10 11:42:44 | 説教要旨
2022年11月6日 主日礼拝宣教
「生きよ」 エゼキエル書16章4‐6節
 預言者エゼキエルは、エルサレムに象徴されるイスラエルの民の罪を昔にまでさかのぼって、白日の下に暴き立て裁かれる神は、同時に決して彼らを見捨てることのないお方であることを告げる。彼の預言は、バビロン捕囚の苦しみは、かつて住んでいたエルサレムを懐かしく思い出させるのではなく、かえって彼らの犯した罪とそれにもかかわらず見捨てることなく見守ってくださるお方に対する信仰を呼び起こす。
 この16章は、古い昔、エルサレムは野に捨てられた存在であって、主であるお方とは無縁の存在であったのに(16:5)、神はその傍らを通り過ぎられる時、「(血まみれのお前に)生きよ」(16:6)と声をかけられたのであると託宣の言葉を語る。生々しい神との出会いのさまである。その後、神はエルサレムを美しい娘にまで育てたのに(16:9-13)、彼女は姦淫の罪を犯し(16:15)、今やその責めを負っているのだ(16:58)と言われる。にもかかわらず神は、「わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、お前に対して永遠の契約を立てる」(16:60)と言われる。この16章には、いったん信仰者として「生きる」ことを得た者は、この永遠の契約に生きる者であることのメッセージが語られている。
 さて今日与えられた16章のみ言葉にこういう言葉がある。「わたしはお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見た」(6節)。この言葉は、遠い異教の国バビロニアに捕囚となって連れていかれたユダヤの人たちに告げられた主の言葉であると同時に、今も私たちに向かって語られている言葉でもある。なぜなら、今も自分の血の中で転がり回り、もがいているのは、私たち人間の現実だからである。本当に人間の生涯は、実際に、血の中でもがくことで始まる。
 血は「いのち」を象徴している。そして、いのちは「生きる」ということと同義。だから「血の中でもがく」というのは、生きるということにもがいているということになる。ある意味では、生涯、私たちは何か似たような仕方で、もがき続けているのではないだろうか。赤ん坊が母親のおっぱいを求めてもがくように、それをはじめとして、私たちは永遠に求めても得られぬものを求めて、生涯もがき続けているのではないか。そして最後にはすべての人々が、自分の血の中に横たわって、最後のもがきを終えて、動かなくなる。
 けれども、そのような私たちに、神さまが声をかけてくださる、と聖書は語る。「生きよ」と。6節に「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ」とある。
 そのような神さまがいらっしゃる。そしてその神さまは、ただ単に、私たちの傍を通り過ぎて行かれるのではなく、私たちに手を差し伸べて、私たちの身体を抱きしめ、私たちを引き起こされる。それでも生きよ、と、声をかけてくださるのである。
 キリスト教の信仰は、この神さまがついには、ご自身が人間として生きられたのだ、と語る。ヨハネ福音書3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された」とある。神の独り子イエス、まさに神の分身である。その独り子を「世」に送ってくださった。そして何をなされたのか。具体的には、神の独り子イエスさまが、私たち人間の血みどろの苦しみの人生を同じように送られ、人間として最も苦しい死を、十字架の上でお受けになった。そして私たちと同じように、イエスさまはわたしたちの苦しみの中に、最後のもがきを終えて、静かに息を引き取ったのである。しかし父なる神は、そのイエス・キリストの傍らを通り、血の中に横たわっているその方を見て、「生きよ」と言われる。キリスト教の信仰の中心は、イエス・キリストが血みどろの死の中から、甦られた、もう一度生きられた、ということである。神さまはそれほどまでに、私たちが生きることを望んでおられる、愛しておられる。
 「生きよ」という言葉を、私たちは今日聞いた。生きることに意味があるとかないとか、それは最終的には、私たちにはわからない。まして私たちが決定できることでもない。ただ、私たちの生きることの意味は、私たちの中ではなく、神さまの中にあるのだと思う。神さまの「生きよ」という言葉の中にある。言い換えるならば、「生きよ」と言ってくださる神の愛の中に生きるとき、私たちの生きる意味が意味を持ってくるのではないだろうか。具体的に言うならば、「神を愛し、隣人を愛する」という、神の言葉に生きることではないだろうか。「生きよ」といわれる言葉に励まされていきましょう。