逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

用いられてこそ生きる

2022-07-25 11:05:53 | 説教要旨
2022年7月24日 主日礼拝宣教
「用いられてこそ生きる」 ヨハネによる福音書12章20~26節
 この世の常識では、主イエスの受難や十字架の出来事をとても輝かしい「栄光」と見ることはない。世間では、オリンピックで金メダルを取るとか、ノーベル賞を受賞するとかがこの世の「栄光」である。ところが、ヨハネ福音書は人がうらやむ光り輝く世界だけが栄光ではなく、暗闇を担いつつ、苦しみもがき、しかし、その暗闇の中でこそ輝く光こそ、主イエスの栄光だと語っている。
 それは受難と十字架の死を通して多くの命が実を結ぶからである。もしその一粒が蒔かれなければ、つまり自己保身や自分可愛さのために、十字架の出来事が行われなければ、全人類の救いは起こらなかった、ということでもある。一粒の麦の死、主イエスの十字架の死を通して命が実る。失うことによって多くを得る。そういう命の大逆転。敗北から栄光へ。悲しみから勝利へと大転換する。そういう恵みが上から与えられる。これが「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われている「主イエスの栄光」である。
 当たり前のことであるが、私たちは一人では生きられない。多くの支え、親、兄弟の愛情や友の助けも要る。逆に言うと、一人前に育てるには手がかかる。命にはコストがかかるのである。その最大のコスト「犠牲」こそ、主イエスの十字架ではないだろうか。私たちの自己中心的な生き方、神から離れてしまっている心、それらの罪を背負うために、主イエスは尊いご自身の血を十字架の上に流さねばならなかった。それは決して「廉価な恵み」ではない。尊い犠牲である。主イエスはゲッセマネの園で苦しみと戦い(27節)、だが父なる神への従順と祈りによって(28節)、やがてその御業を成就された。その十字架の死の彼方に神がなそうとする救いの目標が、あの麦の譬えの中に言い表されているのだ(24節)。
 主イエスが十字架に死なれ、そして多くの実を結ぶ。その結ばれた実が教会である。そのキリストの体なる教会につながる私たちもその実の一つとされている。私たちはなお欠けの多いものだが、赦され、癒され、生かされている。そのために主イエスは十字架の上に栄光を表したのである。今朝、こうして礼拝しているのは、この主の栄光があるからだ。そしてその中で、私たち自身もまた「一粒の麦」とされるのだ。主に仕える者とされ、主のために地に落ちて死ぬ一粒の麦とされ、主のために実を結ぶものとされたことを喜びたいと思う。
 では具体的にその生き方とはどのようなものだろうか。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである」。まさにそのとおり。「宝の持ち腐れ」という言葉がある。お金をいくらタンスに溜め込んでもただの紙屑。「お金は使ってなんぼ」、使ってこそ初めて価値を持つのだ。私たちも与えられた賜物を用いてこそ輝く。出し惜しみしないこと。
 野菜は食べてもらってこそ生きる。余ったから捨てるなんて、それでは一生懸命大きくなって実を結んだ野菜に失礼、申し訳ない。野菜は泣いているだろう。農家の人も泣いていることだろう。おいしく食べてあげてこそ、その野菜はその生涯を全うする。野菜も喜ぶのではないだろうか。農家の人も作り甲斐があるというもの。 道具もそう。金槌は道具として使われてこそ金づち。金槌も喜ぶことだろう。建物もそう。車もそう。なんだって用いてこそ生きるのだ。喜ぶことだろう。ただし、ちゃんと手入れをしてやらなければいけない。かわいがるということ。愛着を持つということ。大事に使うということ。人間の生き方もまさにそうではないだろうか。寿命が長い短いではない。主のために十全に、精一杯、生ききることが求められる。与えられた「命」、与えられた賜物、与えられた恵み、十全に使い切ろう。自分の命を大事にしよう。そして主のために生きる人生を、隣人のために生きる人生を生き抜こう。一粒の麦として、地に落ちて多くの実を結ぼう。

涙と共に種を蒔く人

2022-07-18 14:57:22 | 説教要旨
2022年7月10日 主日礼拝宣教
「涙と共に種を蒔く人」詩編126編1~6節
 この短い126編の詩には、歴史的背景がある。それはユダヤ民族にとっては何年たっても忘れられない歴史的出来事であるバビロン捕囚とその後解放されたことだ。ユダヤの人々は、バビロンに約50年にもわたって長い間捕われていた。それがペルシャ王キュロスによって解放されたのだ。そして多くの者は故国に帰還し、その後エルサレムの破壊された城壁は再び修復された。また小規模ながら新しく神殿も再建された。それを大いなる喜びをもって歌ったのがこの詩であったと言われている。
「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、わたしたちは夢を見ている人のようになった。そのときには、わたしたちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。」(1、2節)。ここに「シオン」とあるのはエルサレムのこと。そのエルサレムに「連れ帰られる」ということをもって長年の夢が果たされたこととして喜び、その口に笑いが満たされたというのだ。
 この喜びの出来事は、2節に「主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」とあるように、主が彼らのために大いなることを為したのだ。それはユダヤの人々だけではなく、諸国民もそれを認めたというのだ。そしてここに「大きな業」という言葉が2度も繰り返されているのを見ても(2,3節)、それがその時代のユダヤ人にとってまさに起こりえないことが起こった奇蹟として受け取られていたのだろう。
 126編の詩人は、この大いなる業をさらに農夫の労苦とそれが報いられる喜びにたとえて、大変印象的に歌っている。「涙と共に種を蒔く人は/喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は/束ねた穂を背負い/喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」(5,6節)。ここに農夫がいかに苦労して地を耕し、そこに種を蒔くこと、しかし時来たってそれによって得る収穫がいかに大いなる喜びであるかがよく歌われている。
 バビロン捕囚が当時のユダヤ人にとっていかに甚だしき屈辱と悲哀であったか、他の詩人も歌っている。哀歌2:11「わたしの目は涙にかすみ、胸は裂ける。わたしの民の娘が打ち砕かれたので/わたしのはらわたは溶けて地に流れる。幼子も乳飲み子も町の広場で衰えていく。」そう歌っている。それ故に、キュロス王による彼らの解放と帰還とはいかに大いなる歓喜と感謝であったかがうかがい知れるだろう。この短い126編の詩の中に「笑い」「喜びの歌」「喜び」が繰り返されていることによってもそのことが想像される。
 しかし、それはこの詩に歌われているユダヤ人の民族的な解放、回復の場合にとどまらない。私たち一人ひとりの人生もまた同じであろう。人生は涙の谷である。詩編42:4に「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。人は絶え間なく言う。『お前の神はどこにいる』と。」と歌われているように、涙は昼も夜も人間の食物である場合がしばしばである。
 涙と共に食を取る経験なき者に人生の何たるかは到底解らないであろう、と言っているようだ。しかし、それに耐え抜く者にとって大いなる喜びが待っているのではないだろうか。この短い詩は平凡にして真実たる真理を私たちに良く教えているのではないかと思わされる。  
 そして、その背後には、必ず回復をもたらしてくださる主への信頼、信仰がある。現在の苦しみと空しいと思われる祈りも、いつか、報われる時が来る、という待望の信仰を伝えているのではないか。その信仰の表明を「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる」という言葉に託しているのではないか。待望の信仰を持ち続けたいものである。

赦しと契約

2022-07-08 14:44:40 | 説教要旨
2022年7月3日 主日礼拝宣教
「赦しと契約」エゼキエル書16章59~63節
 エゼキエル書はイザヤ書、エレミヤ書と並んで三大預言書と言われている。時代は南ユダ王国がバビロニア帝国に侵略、支配され、後に王や高官、主だった技術者たちが捕囚の民としてバビロンに連れて行かれた、いわゆるバビロン捕囚の時。紀元前6世紀の後半。この時代に生きたエゼキエルはエルサレムの神殿祭司の子で自らも祭司を務めていたが、バビロンに捕囚の民として連れて行かれ、その地で預言者として召命を受け、神の言葉を捕囚の民たちに語った。そのエゼキエルの預言がまとめられたのがこのエゼキエル書である。
 さて、この16章には、エルサレムに象徴されるイスラエルの民の罪を昔までさかのぼって、白日の下に暴き立て裁かれる神は、同時に決して彼らを見捨てることのないお方であることを告げた預言の言葉が書かれている。そのようなエゼキエルの預言は、バビロン捕囚の苦しみは、かつて住んでいたエルサレムを懐かしく思い出させるのではなく、かえって彼らの犯した罪とそれにもかかわらず見捨てることなく見守ってくださるお方に対する信仰を捕囚の民たちに呼び起こしたのではないか。
 エルサレムは古い昔、野に捨てられた存在であって、主であるお方とは無縁の存在であった(16:5)と書かれている。しかし、神はその傍らを通り過ぎられる時、「(血まみれのお前に)生きよ」(16:6)と声をかけられたのであると預言の言葉は語る。生々しい神との出会いのさまである。その後、神はエルサレムを美しい娘にまで育てたのに(16:9-13)、彼女は姦淫の罪を犯し(16:15)、今やその責めを負っているのだ(16:58)と言われる。この姦淫の罪とは異教の神々への偶像礼拝の罪のこと。にもかかわらず神は、「わたしは、お前の若い日にお前と結んだわたしの契約を思い起こし、おまえに対して永遠の契約を立てる」(60節)と言われる。いったん、信仰者として「生きる」ことを得た者は、この永遠の契約に生きる者とされるのである。
 エルサレムには神殿があり、神聖な町であると、ユダとエルサレムの人たちから尊ばれてきた。また世界中の人たちから聖地であると言われてもきた。しかし、エルサレムは最初からそうであったのではなく、本来は異教的な一つのみじめな存在であった。それを神が見出し、恵み、祝福したからこそ、エルサレムは素晴らしい町となった。
 ところがエルサレムは、神から自分が何のために召されて祝福され、恵みを受けたのかを忘れて、自分のほしいままにして、恵みをいたずらに受けてきた。それゆえにエルサレムは、神から裁きを受けなければならなかった。
 エルサレムが神を見出したのではなくて、神がエルサレムを見出したのだ。エルサレムは捨てられたものであり、値打ちのないものであったけれども、神が見出されたのだ。この世の人たちは、宝は探すけれどもちりあくたは捨ててしまう。しかし、神はちりあくたのようなものを探し出されたのだ。ご覧になったのだ。「わたしのものだ」と言われたのだ。エルサレムが素晴らしくなったのは、神が着物や、飾りや、指輪や、恵みを施されたからであって、エルサレム自身には何も誇れるものはない。「ところがエルサレムは自分の美しさを頼み、自分の名声によって姦淫を行い、すべてかたわらを通る者と、ほしいままに姦淫を行った……」と主なる神は問い続けられる。
 しかし、「永遠の契約をあなたと立てる」(60節)とあるように、エルサレムがどんなに背いても、あなたを赦すという神の契約が記されている。また「わたしがあなたをゆるす時」ともあるように、娘として、恵みとして、その時に引き受けて赦してくださると言われる。これは、イエス・キリストの到来を預言している。エルサレムと同じように、罪に汚れた者も、神が洗い清めて「わたしのものだ」と言ってくださるのである。その無条件で一方的な恵みを今一度深く思い至らせたいと思う。