逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

あなたがたは神の神殿

2021-01-25 10:25:12 | 説教要旨
2021年1月24日 主日礼拝宣教
「あなたがたは神の神殿」 コリントの信徒への手紙一3章10-17節
 パウロは教会のことを様々な言葉で表現している。10節で「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と言い、自分を建築家、教会を建物にたとえている。そして、この建物で要となるのはイエス・キリストという土台であると言っている。
 しかし、次に問題となるのは、この土台の上にどのような素材を用いて家を建てるかである。例として、金、銀、宝石、木、草、わらの六つがあげられているが、それぞれの家が試され、真価を問われる日が来る。それは13節にある「かの日」、つまり、キリストの再臨される日で、その日に各々の建築家の仕事ぶりが火によって試されるのだ、と言うのである。
 パウロはその話を何のためにしているのか。それは教会の働きの中身が問題だ、ということだ。16節で「あなたがたは……知らないのですか」とパウロは問うている。そして「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」(16節)と教え、さらに17節で教会は神の霊の住みたもう神殿、聖なるものであるということ、これこそ決定的に重要なことだ、と言うのである。
 ここでパウロは「あなた方」と複数形で言っている。教会はギリシア語で「エクレシア」という。「神から召し集められた者」という意味を持つ。つまりイエス・キリストによって召し集められた人々の集まりであるということ。そしてその集まりには、パウロがガラテヤ3:28で、「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません、あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」と、パウロが書いている。また、主イエスはマタイ18:20で「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである」と言われている。そのような集まりこそが教会である。
 私たちの教会は、交わりの中に祈りがあり、神の霊が住んでいてくださり、聖なるもの、神のものとされているだろうか。教会はこの聖霊によって生かされている。先週の説教で話したが、教会の土台、隅の要石としてのキリストと教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに、教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくということだ。同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちは教えられる。その私たちの祈りの交わりの中に聖霊が働き、私たち一人ひとりが生き生きとされていくのではないだろうか。そのような一人ひとりが輝いて生きる群れとしての教会を建て上げていきたいと願う。 

キリストによる和解

2021-01-21 10:51:35 | 説教要旨
2021年1月17日 主日礼拝宣教
「キリストによる和解」 エフェソの信徒への手紙2章11-22節
 ここでパウロはエフェソの人々に向かって、かつてキリストを知らなかった時、神の民に属さず、歴史の支配者である神の約束とも関係なく、この世での希望を持たず、神の慰めや平安、約束、希望などと遠く離れて生きていた「異邦人」であったと言う。ここでいう「異邦人」とはユダヤ人以外の人を指し、「割礼のない者」「律法を持たない者」とも呼ばれ、ユダヤ人からは救いとは無縁な者とみなされていた。
 ここにはユダヤ人から見た差別と偏見、その裏返しの彼らの選民意識と特権意識が背景にある。彼らユダヤ人は神から選ばれた民、神の救いを約束された民であるという意識だ。それが彼らに自分たち以外の民族を異邦人とみなして、差別、偏見を生み出していった。それは民族間だけでなく、ユダヤ人同士の中にも「隔ての壁」をいくつも作っていくことになった。それは神殿の作りからも見て取れる。その壁を打ち破ったのがイエス・キリストであった。どのようにしてか。それは「今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」(13節)である。「血によって」、「肉において」(14節)、「十字架」(16節)の出来事によってである。
 そのように神から遠かった異邦人(私たち)が今やキリストの十字架の出来事によって、神に近い者、神を知り、神と共にある者、キリストによって生きる者、希望を持って生きる者とされたと言うのである。この十字架の出来事、救いの恵みは今はすべての人々に開かれている。すべての人々を主は今招かれているということである。
 そのことを以下、具体的にパウロは述べていく。「実に、キリストは私たちの平和であります」(14節)という意味が、「二つのものを一つにし」「隔ての壁を取り壊し」「律法を廃棄した」という三つの文章で示されていく。
 「一つ」とは一致とも訳されるが、それは画一化ではなく、むしろ和解の意味である。「二つのもの」とはここではユダヤ人と異邦人との二つのグループをさしている。「二つのものを一つにし」、そこに主イエスの言葉が響く。「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」(ヨハネ10:16)という主の言葉である。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのだということである。
 次に「隔ての壁」とは、ここでは異邦人をユダヤ人から隔離し、差別していたエルサレムの神殿の壁のことである。当然その壁は双方の敵意の象徴であった。この他にも女性をさえぎり閉め出す壁、祭司以外の人を入れない壁などがあった。このように人々を「規則と戒律ずくめ」(15節)にして、がんじがらめにして、差別を助長し、救いを独占し自己絶対化するような律法をキリストはご自身の生き方を通して廃棄された。
 さらに、パウロはこの人々の和解と平和と一致について、キリストによって新たに造られた教会を通して具体的に語っていく。キリストによって新たに造られた教会。そこにおける人々の和解と平和と一致という交わりが、国籍、家族、建物という三つのたとえで語られている。しかしそれらの言葉はまったく新しい意味で用いられている。家族や国籍という言葉は偏狭な民族主義や血縁的なものにつながりやすいものだが、そのような「血」を乗り越える意味もこめられて、13節でキリストの血が強調され、その血によって新たに造られる共同体としての家族や国籍という言葉が使われている。「神の家族」という言葉は、主イエスの言われた言葉を思い出させる。「神の御心を行う者はだれでも、私の兄弟、また姉妹、また母なのです」(マルコ3:35)。主イエスの言われる神の国、救いとはそういうものなのである。
 またよく体にたとえられる教会は、ここでは建物、聖なる神殿、神の住まいにたとえられている。当時の建築方法では、隅に「かしら石」を置き、次に礎石、その上に段々に石を組み合わせて積み重ねていき、最後に、最上部に建築完成の決め手とも言うべき「要石」をはめ込んだ。「かなめ石」(20節)とは、最も基礎になる「隅のかしら石」(口語訳)と最後の「要石」(新共同訳)の二説があるが、そのどちらでも、また両方とも指すと考えても意味深いものがある。つまり、教会の基礎としてのキリストと、教会の完成者としてのキリスト。そのキリストにおいて多様な人々が組み合わされていくところに教会の豊かさや健全さがあり、その時、教会は成長していくというのである。この「成長し」という概念は教会が常に途上にあることを示していて、同じ主を共通の礎とし、仰ぎ見て歩むところに一致があることを私たちに教えている。
 私たちは神との和解を受け、キリストによって一つとされた神の家族。そのことはすべての人々に開かれており、隔てはない。神の家族の教会に、すべての人々を主イエスは招かれている。この神の家族である教会につながり、「実に、キリストは私たちの平和である」といわれるキリストにつながって歩みたいと願うものである。

神の憐れみに生きる

2021-01-12 17:24:42 | 説教要旨
2021年1月10日 主日礼拝宣教
「神の憐れみに生きる」 創世記4章1-16節
 今日の聖書箇所で、兄カインは神に腹を立て、激しく怒り、顔を伏せる。理由は弟アベルには目を留められたのに、なぜ自分には目を向けてくれないのか、というもの。人間的な思いからすれば当然のように思われる。しかし、この物語には事の善し悪しの最終的な判断は人間にはなく、神にあるのだという意味が隠されている。カインもアベルも自分の判断で最も良いと思うものを献げ物として持って来たに違いない。けれども究極の判断は神がされるのである。神はアベルの献げ物をよしとされた。カインがこれをよしとせずアベルを殺すのは、己の判断が正しいとする自己の絶対化に他ならない。人間の判断は、相対化されねばならない。一歩引いてみる。自分を相対化してみる。そこから謙虚さというものが生まれてくるのではないか。たとえ私が正しいと思われる時でも、究極的に正しいか正しくないかの判断は神の手にあり、私の側にないとする生き方。それは神を信頼し、神にゆだねる信仰でもある。そのような態度は、相手の立場をも包み込むことができるのであり、赦しを人と人との間に置くことができる。
 さて、今度は神ご自身のなさったことに目を向けてみよう。激しく怒ったカインに神が声をかけられる。「どうして怒るのか?」。それは、神が決して彼を無視していたのではないことを示しており、カインが神と語り合う絶好のチャンスだったのだ。しかし、カインはその声に応えなかった。なぜカインは素直に胸の内を明かさなかったのだろうか。どうして怒りの気持ちをぶつけなかったのだろうか。振り返ると、私たちもカインと同じように、腹の立つ相手に向かい合う勇気がない、不可解なことを尋ねる勇気もない、顔をそむけて黙り込み、自分の内側に逃げ込んでしまう、そのような経験があるのではないか。
 カインの激しい怒りは、より弱い立場の弟アベルに向けられた。弟さえいなければ、との恨みの思いが心に溢れてきたのだろう。自分のことしか見えなくなっていたカインは、弟アベルを呼び出し殺してしまった。その時のカインは、神に対する思いも隣人に対する愛情も消えうせていた。結果、自分を支配している激しい怒りに自分自身が見えなくなっていたのである。激しい怒りという感情に支配されていたということだ。
 兄のカインだけが残った。神はカインに声をかける。カインはすぐさま「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と言う。彼は、最初の神の声には答えなかったが、二度目の声には即答している。とはいえ、どちらも、神に向かってまともに応えていない。最初の声には顔を伏せ、口を開かなかった。二度目の声には知らぬ振りをした。どちらも、まっすぐ神に向かって答えていない。声をかけられても、逃げ隠れ、ごまかそうとする点では同じである。カインは神から逃避しようとしている。同時に、罪に飲み込まれる弱い自分自身を受け入れることができず、自己からも逃避している姿がそこに見え隠れする。
弱い人間の姿がここに描かれている。聖書は、アダムとエバの物語で表した人間の罪「自己中心、エゴイズム」をここでも表現している。「何ということをしたのか」。真実を見抜いている神の目は、まっすぐカインに向けられる。この神の言葉は、彼の父母アダムとエバに向けられたかつての言葉(3:13)と同じである。
 「お前の弟の血が土の中から叫んでいる」。神のこの言葉は、殺されたアベルの姿を彷彿とさせる。カインは、ドキリとしたに違いない。暴露された彼はパニックに陥ったことだろう。「今、お前は呪われる者となった」。神の言葉はストレートである。「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」。三度目の神の言葉になって、カインは初めて答える。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」。カインは、初めて神に向かったのだ。と同時に自分自身が見えてきたのだ。何ということをしてしまったのか、彼は自分の罪を自覚したのだ。この時、自分自身がはっきりと見えたのだ。神に向かうことは、同時に自分を見つめることであることがよくわかる。
 弟の命を奪ったカイン。彼自身は生き続けようとしたが、生きることの重さを今さらのように気づかされる。与えられた自分の命を生き抜くことは、それだけで実に重いことである。まして他者の命を奪うことは、自分の命に加えて、他者の命の重さをも背負うことになる。奪った命をどこかで放り出すことはできない。どこまでものしかかってくる。背負いきれない重さとなる。
 けれども……、と聖書は伝える。神は、誰もカインを撃つことのないよう、生き抜くことができるようカインに印を付けられた、と伝えている。神は、負いきれない重荷を担いつつも生きることを望まれ、徹底的に命を大切にされる、と伝えているのだ。神は殺人者カインを殺しはしない。むしろ誰もカインを撃つことがないようにとカインに印を付けられる。この印はカインが罪を犯したことを示すと同時に、共同体を追われ命の危険にさらされるカインを「これは私のものだ、手を出すな」と神が保護していることを示すしるしでもある。神はカインの殺人に対して、殺さないことで応え、さらに印を与えてカインを殺させないようにし、報復の連鎖を断ち切られるのである。こうして神は、罪は罪として明らかにしつつ、なお憐みをもって生きる道を与えてくださるのである。時に感情的に支配され罪を犯す者でありながら、なお神の憐みのなかに生かされている私たちもカインの末裔だといえないだろうか。だから神が私たちにしてくださっているように、どんな状況に置かれても決して殺さず、相手を否定せず、対話をし、向き合って、共に神の前に生きていきたいと思う。それは、神にゆだね信頼して歩むことでもあり、主の希望をもって歩むことでもある。

キリストに向かって成長しよう

2021-01-05 17:23:25 | 説教要旨
2021年1月3日 新年礼拝宣教
「キリストに向かって成長しよう」エフェソの信徒への手紙4章7-16節        
 今朝の聖書個所には、キリスト者が共同して、共に成長していくものであることが述べられている。それには、まずキリスト者は「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(13節)こと、また「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していく」(15節)こと、そして「キリストの体を造り上げてゆく」(12節)ことが求められている。
 では、キリスト者の成長とはどのようなものだろうか。一般に人は逆境の中でいろいろな問題にぶつかって苦労して、そこでいろいろなことを学び、また、人間関係の中でもまれて成長する、と言われる。「艱難汝を玉にす」という格言もある。確かに現実の人生ではそうだろう。しかしキリスト者の成長は、そのような成長とは違う。誤解しないでほしい。先ほど言った「艱難汝を玉にす」ということを否定しているのではない。「若い時の苦労は買ってでもせよ」ということわざがあるように、それは確かにそうだと納得するものがあるし、現実の生活の中ではそういうものだと経験からも言える。しかし、ここで言いたいのはキリスト者としての成長ということを考えた時に、また別の何かがあるのだということだ。
 ではキリスト者の成長とはどのようなものだろうか?キリスト者の成長は、イエス・キリストが自分の中に大きくなっていくこと。キリストを知って、次第にキリストが分かってくることであり、キリストによって自分の心が占領されていくことである。そして「キリストの心を心とする」「キリストの香りを放つ者」とされていくことである。
 私たちが気を付けなければならないのは、この世の中にはいろいろな誘惑があり、それに心が占領されやすいということである。たとえば仕事、地位、名誉、お金、家庭のこと、子どもの教育、健康のことなどで心がいっぱいになり、キリストの入る余地がない状態になりやすいということである。ここでいう「未熟な者」(14節)と言えるだろう。未熟な者はいろいろなものに縛られ、囚われているがゆえに心が頑なになって、固くなっていくからである。
 そのような未熟な私たちが、だんだんと私たちの中で、キリストが根を下ろし、キリストが自分の中の最も深い部分を占領してくるためには、霊の呼吸、すなわち神への祈りと、霊の糧、すなわち御言葉による養いが必要である。日々、神に祈り、御言葉によってイエス・キリストを知ることを通して、心が硬くならない道へと向かってこそなのだ。祈りの生活を常に絶やすことなく、霊の交わりを持ち、キリストにあって堅く立つ。また御言葉によって整えられ、固く立つことである。
 そうするうちに、だんだんと私たちの中で、キリストが根を下ろし、キリストが自分の中の最も深い部分を占領していく。そしてそれが、次第に大きくなっていくのである。自分の意志ではなく、キリストの心を心として、キリストの意志を行おうと、努めはじめるようになるのである。そのようにしてキリストイに向かって成長するのだ。
 私たちは霊の呼吸と霊の糧によってキリストの満ちあふれる豊かさにあずかることができる。祈りと御言葉によって、「頭なるキリストに向かって成長していく」のである(15節)。昨日も今日もいつまでも変わることのないキリストに、もっと深入りをして、キリストが私たちの生活の中でますます大きな場所を占めていくように、私たちは成長していきたいと思う。神は土の器にひとしい私たちを分に応じて用い、光栄ある神の業に参加させて下さっている。私たちが愛によって共に働き、おのおのの最良の部分を持って共に奉仕する時、それぞれの部分は調和を持ち、キリストの教会として成長するのだ。一人一人の、キリストに向かっての成長というものは、ともに祈り、共に心合わせて賛美し、感謝し、奉仕をなし、共に御言葉によって整えられて成長していく。そしてその総体として、キリストの共同体である教会もまたキリストに向かって成長していくのだ。