逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

見えないものに目を注ぐ

2020-12-29 15:28:21 | 説教要旨
2020年12月24日 イブ礼拝宣教
「見えないものに目を注ぐ」 コリントの信徒への手紙二4章18節
 昨日(12月23日)の朝日新聞の夕刊に、アメリカでは有名な話である「サンタクロースはいるのですか?」という幼い少女の新聞投稿に対して、「“Yes,Virginia,There is a Santa Claus (そうです、ヴァージニア、サンタクロースはいるのです)”」という返事を社説で書いた話が紹介されていた。そこで思い出した。10年前に週報の「牧師室だより」にそのことを紹介した文章を。以下、再録する。
おじさん、わたしは8才です。お友だちの中に、サンタ・クロースなんかいないっていう子がいるのです。パパはこう言いました。「『ザ・サン』にそう書いてあればそうだろう」。どうか本当のことを教えてください。サンタさんはいるのですか。          ヴァージニア・オーハンローン
これは、1897年9月にニューヨークの新聞『ザ・サン』にあてられた8歳の少女の手紙である。返事は新聞の社説に掲載された。執筆したのは論説委員のフランシス・チャーチである。チャーチは「この世には、愛や思いやりといった、目には見えないけれども確かに存在するものがある。それと同じように、サンタクロースだって確かに存在する」という内容の社説を書いて答えた。“Yes,Virginia,There is a Santa Claus (そうです、ヴァージニア、サンタクロースはいるのです)”という一節のあるこの社説は大きな反響を呼び、以後、『ザ・サン』は毎年クリスマスが近づくとこの社説を掲載したほか、この文章は様々なところで取り上げられ、クリスマスについて書かれた名文の一つとなった。日本でも翻訳され、偕成社から1977年に出版されている。書き出しの一部を紹介しよう。
ヴァージニア、あなたの友だちはまちがっています。その子たちは疑い深い時代の疑いに影響されているのです。その子たちは見えるものしか信じないのです。その小さな心で分からないことは存在しないと思うのです。ヴァージニア、大人の心も、子どもの心もちっぽけなものです。この大きな宇宙の中にあって、人間はほんの虫けらか、アリンコのようなものです。まわりの果てしない世界に比べれば、その知恵においても、また真理や知識の全体をつかみとる知性においてもそうなのです。
 以上ですが、その時、私が思い起したのは次の聖句であった。「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(第二コリント4: 18)。本当に大事なものは見えない。「愛」「心」「命」など、皆さん見えますか?見えないからって、「命」なんかないと言えますか?生きているのに。見えないものにこそ目を注ぎたいものです。

祈りでつながる

2020-12-29 11:52:42 | 説教要旨
2020年12月27日 主日礼拝宣教
「祈りでつながる」 テサロニケの信徒への手紙一 1章2-3節
 祈りは一面においてまことに孤独なものだ。祈ることによって初めて一人、神の御前に出るということを知る。しかし他方、祈りはただ一人祈る時にも他者を思い起こさざるを得なくなる。あの人この人と。そのように、ここでもパウロは、祈りにおいて、離れているテサロニケの教会の人々を思い起こしている。
 パウロはその祈りの中で、テサロニケの信徒が偶像から離れ、生ける真実の神に仕えるようになった、その信仰と模範(1:7-8)に対して神に感謝している(1:2)。そのことをパウロはここで「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」という言葉で語っている。これらの言葉は、コリントの信徒への手紙一の13章にある「信仰と希望と愛」という、いつまでも存続する霊の賜物についての言葉を思い出させる。
 しかも自分にそのような賜物が与えられていてうれしいというのではなく、イエス・キリストの神を父と呼ぶことができる教会の仲間たちに、この大いなる賜物が与えられている現実を「心に留めている」と書いている。テサロニケの教会の人々の暮らしぶりに、信仰によって彼らが働いている姿を見ていた。いや、見ていたというより思い浮かべていた。また、愛の労苦に耐えることができている姿を思い浮かべ、望みに根ざした忍耐の歩みが与えられているのを思い浮かべているのだ。信仰も希望も愛も、それが単なるお題目ではなくて、教会の仲間たちの生活ににじみ出てきているのを知るのである。祈りは、このようにまず何よりも信仰の仲間たちを思い起こす場所であった。感謝から祈りは始まると言われるが、その感謝の糧として、このように他者がくっきりと姿を現してくるのである。
 このことだけですでに、祈りがひとりでは成り立たないということ、教会の仲間があってこそ成り立つものであることがわかる。そして、そのように思い起こす人々のために祈るのである。しかもそれだけではない。この手紙の終わりに近いところでは、「兄弟たちよ、私たちのためにも、祈って欲しい」(5:25)と書いている。パウロは求めている。私のためにも祈って欲しい。自分も教会の仲間のために祈る。教会も自分のために祈って欲しい。パウロはよくこうした求めを書いている。教会の祈りの支えなくしては生きていかれないということをよく知っていたからである。
 ある牧師が祈りについて次のようなことを書いている。病気になった者は医師のところに行く。診察を受け、薬を処方してもらい、時には手術も受ける。そのように医学的な処置を受けるのは当然のことであろう。しかし、信仰者にとってはそれだけではない。祈ることをも必要とする。自分が祈るだけではない。祈ってもらうのである。つまり病んでいる者は、自分のために祈って欲しいと要求する権利があると言うのである。権利などと言うと、少し厚かましい言い方になるかもしれないが、この牧師が言いたいことは、病んでいる者は祈りを求めていいのだ、ということである。肉体の病の時だけではない。心が病んだ時にも、苦しみにある時にも、悲しみの中にある時にも、私のために祈ってくださいと求めてよいのである。いや、そういう時だけではない。喜んでいる時にも、幸せだと思っている時にも、信仰の兄弟たちよ、私のために祈って欲しいと言ってよいのである。苦しみや、悲しみに自分が打ち勝てるように祈って欲しい。この喜びを共に喜んで神に感謝してほしい。そう言えるのである。ここに祈りのつながりが生まれる。
 もちろん、自分のための祈りを求めるだけではない。自分のために祈ってほしいという願いは、自分も仲間のために祈り続けることと一つである。表裏一体である。祈り合うのだ。教会はそのようにして形作られる祈りの交わり、祈りの共同体なのだ。その意味では、私一人でする祈りが孤独であるということはない。自分のためだけに祈るような祈りもない。初めから他者を思い起こさないわけにはいかないのだ。そこでは、初めにまず自分のために祈り、心に余裕があったら他者のために祈るということでもないのだ。自分のために祈ることと、他者のために祈ることと簡単に分けることは出来ないのである。自分が他者の祈りの中に包み込まれるように、自分もまた他者を包み込むような祈りに生きるのである。ここに祈る者の知る幸いがある。教会に大勢集まっている時の祈りだけではない。私の一人の祈りが、またとりなしの祈りであることは当然である。私たちの祈りがそのようにして、日ごとに少しずつでもつながり、広がることが出来ればどんなによいことかと思う。その祈りのつながりの中に生かされているからだ。
 私たちには祈りという武器がある。祈ることができる特権がある。今日のコロナ禍で、人とのつながりが持ちにくい時こそ、祈りに励み、祈りのつながりを強くしていこう。

アドベント・新しい備え

2020-12-22 12:09:48 | 説教要旨
2020年12月20日 逗子第一教会 クリスマス礼拝宣教
「アドベント・新しい備え」 ルカによる福音書1章5-25節
 今日は教会暦でアドベント第4主日礼拝である。アドベントはクリスマス前の4週間を指す。第4アドベント主日礼拝をしたその週、いよいよクリスマスがやってくる。日本語では待降節と言うが、アドベントとはどんな意味があるのか?アドベントとは、ラテン語の前置詞「アド」「~に向かって」、「ベント」「来るべきもの」から来ている。「来るべきもの」とは「救い主・キリスト」なので、「救い主に向かって」の日々、すなわち待降節と呼ばれるわけである。「待つ」とは漫然と無為に時間を過ごすことではなく、キリスト・イエスに向かって「待つ」ということだ。
 以前、新聞で読んだのだが、「待つ」とは、自分ではどうにもならないこと、また自分以外のところでの事柄なので「待つ」ということが起こるのであり、だからこそ祈りが生まれるのだとあった。なるほどと思った。「人事を尽くして天命を待つ」という格言もある。
ユダヤの人たちは預言者が預言した救い主を長い間待ち望んできた。祈り続けてきた。主イエスのご降誕は、その祈り、待ち望んできた預言が成就された出来事であったのである。それは、自分たちでどうすることもできない、ただただ神のなさる出来事として実現したのである。そこに主イエスの誕生の大きな意味がある。 
神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、驚くべきことである。そのことはザカリヤの記事でも示されている。ザカリヤが香をたいているとき、御使いが現れた。私たちは神に仕え、献げ物をしたり、香をたいて神の喜ばれるようなことをするのが、宗教であると思いやすいが、確かにそれらは宗教行為であり儀式ではあるが、問題はなぜそのようなことをするのか、ということの本質をしっかり押さえておく必要があるだろう。
ここでは神がザカリヤに御使いを送ってこられた。神のために人間が何かしていくものだと思っていたのに、神の方から近づいてこられたのだ。聖書が私たちに訴えているメッセージとはそれである。そこに他の宗教とキリスト教の違いがある。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目を留めていくのがキリスト教である。「成就された出来事」というのは、大事な言葉である。神がなしてくださった。そこにすでに著者であるルカのイエス・キリストに対する信仰の告白がなされている。
 ヨハネの父ザカリヤとその母エリサベツは、「二人とも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」人だった。旧約の思想では、正しい人は神から祝福を受ける。例えば、子孫繁栄、あるいは国や事業が繁栄するとかいうことを神の祝福のしるしと受け取ってきた。ところが神の前に正しい行いをしていたザカリヤたちには子どもが授からなかった。それは理解できないことだっただろう。
 私たちはよく「どうして」と問う。神に対してもそれを言うことがある。「どうして、そんなことが、私にわかるでしょうか」(口語訳1:18)、マリアも「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」(1:34)と言っている。それは神を自分の秤で計ろうとしているからである。自分が理解し、納得できたら信じようという生き方である。そこでは神ではなく自分が主人になっている。
 私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることにある。エリサベトは「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(1:25)と言っている。マリアも「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」(1:48)と告白している。私たちが神を信じるのは、自分の成長のため、また人生の問題で悩んだり、苦しんだりした時には、どうしても助けや慰めがいるからだ、と言う人がいるが、キリスト信仰とはそのようなものではない。苦しい時の神頼みではない。確かにそういうことが動機だったということはあるだろう。でも、やがて、神はこの私を心に掛けて下さっていたんだということに気づくところから、ほんとうの信仰が始まるのである。41節にある「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます」とあるが、これがキリスト信仰である。キリスト信仰は、神が私のような者を心に掛けてくださった、そのことに気づくところから始まるのである。
 それは神ご自身の私たちに対する、限りない愛から始まる。そのことに気づき、受け取ろう。神の恵み、プレゼントを。

愛には恐れがない

2020-12-15 10:32:59 | 説教要旨
2020年12月13日 主日礼拝宣教
「愛には恐れがない」 ヨハネの手紙一4章7-21節
 ギリシア語には「愛」を表わす言葉がいくつかある。男女の愛を表わす「エロース」はよく知られているが、神の愛を表すギリシア語は「アガペー」である。十字架によって示された神の愛を表わすのに、「エロース」は適当ではない。なぜなら、男女の愛は自分にとっての価値あるものに対する愛だからである。しかし、神が人を愛するというのは、相手の価値を問わない愛なのである。この価値なき者への愛という、新しい意味を「アガペー」という言葉で表した。
 「アガペー」に示された神の愛は、対象によって起される愛ではない。「エロース」の愛などは、愛する対象の美しさや魅力といった相手の価値によって引き起こされる愛である。しかし、神の愛は対象によって引き起こされる愛ではない。「神は愛なり」(4:8,16)といわれる神から一方的に無条件であふれ出る愛なのである。
 また、ヨハネは神の愛が私たちの愛に先立っていることを示している。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、…」(4:10)と書いている。私たちの常識は、信仰とは私たちが神を愛することから始まると考えがちだが、聖書は、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まると言うのである。神の愛の先行。しかも私たちが愛されたとは、私たちの罪をあがなう生けにえとして御子が遣わされたことだとヨハネの手紙は言う。神の愛の後ろには、私たちの罪のために死んでくださるお方がおいでになるということは、決して尋常なことではない。ここで言われる罪(ハマルティア、的外れ)とは、神への背信を意味する。にもかかわらず、不信仰なる者のために御子であるお方のいのちが捧げられたということから本当に尋常なことではないことが分かる。それが神の私たちへの愛の形である。無償の愛である。私たちがこれをお願いして、そうしてくださいと言ったわけではない。それどころか、そんなことが私たちのためになされたということすら知らない、気づかない。そんな私たちへの神の愛し方であると言われているのである。一方的で、無条件で、無償の愛、それは永遠でもある。これが聖書の常識で、この常識を我がものとすること、我がこととして受け入れること、信じることが信仰である。
 さらに、この神の愛は「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(4:18)と書いてある。愛とは、徹底して相手の存在を肯定することに繋がる。神が私たちを愛してくださったとは、まさしくそのことを意味する。存在を肯定するとは、ある事をすればよしとされ、違うことをすればだめだとされるのと違う。愛は相手の価値を問わない。無条件。どのような在り方であろうと、そこに「いる」ことがよしとされる。それが存在を肯定されることである。神の愛とは、そういう愛。99匹の羊を野に残して、一匹を探す羊飼いの姿にこの愛を見ることができるだろう(ルカ15章)。
 どこまでいっても「いる」こと、「ある」ことで愛されている。安心感がある。たとえ心配で眠れない夜を過ごすようなことがあっても、「いる」ことが肯定されていれば、「そのままの自分でいいんだ」「心配するような自分でいいんだ」と思えてきて、心配をしなくなるというより、心配をする自分を受け入れることができるだろう。さらに言えば、そのような事態になれば、心配をしないならば事は解決をしないのだから、むしろ心配するのが当然であるという心境に至ることができるだろう。その心配する私という存在をそのまま丸ごと愛してくださるお方がおられる。何と心強いことだろうか、なんという慰めだろうか。それこそ、「完全な愛は恐れを締め出す」と言えるだろう。そのような神の愛によって、慰められ、励まされ、生きていく力をいただいている。さらに主に信頼して歩んでいこう。 

神の光の中を歩む

2020-12-08 11:58:00 | 説教要旨
2020年12月6日 主日礼拝宣教
「神の光の中を歩む」 ヨハネの手紙一1章5-10節
 ヨハネの手紙が書かれた時代(紀元90-110年頃)はまだキリスト教の歴史も浅く、指導者の数も限られていた。礼拝を共にする集会があちこちにあったが、その一つ一つに指導者はいなかった。指導者は集会を巡回し、時にはヨハネのように手紙という手段を用いて指導する場合もあった。このような状況の中で、指導者不在の集会に異端的思想を持った人が入り込んできたりした。彼らは教会の人々にヨハネをはじめとする指導者たちから教えられたことと違う教えを語った。それを聞いたある者はその教えを拒否したが、ある者はその教えに魅力を感じて、ヨハネから伝えられたことを捨ててしまった。そのために、教会の中に深刻な対立が生じて、この対立は教会を分裂させ、ある者たちは福音を捨てて教会から飛び出していった。
 それでは、教会に分裂をもたらした異端的思想とはどういうものなのだろうか。それはいわゆるグノーシス主義と言われるもので、ギリシア哲学に影響を受けた二元論に立つ思想である。人間を霊と肉に分け、それを対立的に考える。すなわち霊は真理であるが、肉は偽りと考えるのだ。従って、神が偽りである「肉」をとってイエスとなったということ(受肉)を否定するのだ。そこで、ヨハネは手紙の冒頭で「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について」(1:1)と記している。この言葉は、神の子イエスが肉体を持った人となり、世に来られたことを表している。分裂をもたらした人々は、この事実を否定していた。このようにキリストが人として生きられたことを否定する思想を持った熱狂主義的な巡回指導者やそれに影響された人々が、教会を惑わせていたのである。
 教会に分裂をもたらした異端者たちは「私たちには罪がない」(8節)と言っていた。なぜなら、グノーシス主義者にとって肉は偽りであって、その肉体が犯した罪は実態のない偽りであり、責任は問われないという論法なのである。これは人間の現実を無視している。私たちも、罪というマイナスの評価を受け入れたくないために、現実から逃げようとしたり、見ないことにしたりする。そこで、ヨハネは、罪の自覚の重要性を示す。8節で「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くこと」と記している。
 私たちにとって大切なことは、神の光の中を歩むことである。それは、罪人という人間の現実と向かい合うことを意味する。この現実を受け入れたところにこそ真の救いがある。私たちにとって大切なことは、神の光の中を歩むことである。しかし、異端者たちは神の光の中を歩むことではなく、自分自身が光り輝くことを願った。そして自らの正しさを示すために、他者を見下したのである。
 ヨハネによる福音書も含めてヨハネ文書には「光と闇」というように二つの対立する場を示す特徴がある。例えば、ヨハネ福音書の1章5節には「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」とある。ヨハネの第一の手紙の著者であるヨハネも、神と交わりを持つ者は光の中を歩み、神に反する者は闇の中を歩む(5~6節)と「光と闇」という対立する場を示している。そして、光の中を歩む者は「互いに交わりを持ち」「御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのである」(7節)と書く。つまり、光の中を歩むというのは罪の赦しの中に生きていることなのだと言うのである。
 聖書は、神の光は私たちの罪を照らし出す、つまり指摘するという。しかし、その光は罪をあぶりだすことにとどまらず、自分の罪を受け入れた人に、その罪を赦す神の愛を示す。ヨハネ福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とある。もし自分には罪がないと言い張るなら、この愛の尊さと、永遠の命の価値を知ることはできないだろう。そしてそれは福音を拒むことになるのである。
 ヨハネによる福音書8章の「姦淫の場でとらえられた女」の記事で、イエスは女に「私もあなたを罪に定めない」と言われた。イエスがこのように言われたのは女に罪を認めないというのではない。そうではなく、「あなたの罪は私が負う」という福音の宣言ではないだろうか。
 自分自身を受け入れるというのは、自分を良い者とするのではなく、内なる罪、欠けや弱さを事実として認めることこそ自己を受容することである。ここに罪の告白の必要がある。ヨハネは9節で「もし、私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださる」(9節)と言っている。イエスの十字架と復活はこの「赦し」と「清め」のことなのだ。
 私たちは自分の罪と向かい合うとき、イエスの十字架の血による贖いを自分自身のこととして受け止めることができる。神の光の中を歩むというのは、神の赦しを受け、愛の中を歩むということである。福音に生かされているということなのだ。神の光の中へ歩み出そう。