逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

根っ子は大事

2022-04-28 11:16:29 | 説教要旨
2022年4月24日 主日礼拝宣教
「根っ子は大事」コロサイの信徒への手紙2章6‐7節
 教会の昨年度の標語は「キリストに向かって成長しよう」。聖句は「愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます」(エフェソ4:15)である。どこに向かっていくかは極めて大事。皆さんはどこに向かって今日を生きていますか。ここでは「頭であるキリストに向かって」とはっきり書かれている。そして、「頭であるキリストに向かって成長」するためには、「愛に根ざして」と書かれている。これはもちろん、神の愛に根ざして、ということ。だから、神に根ざして、キリストに根ざしていくことが示唆されている。キリストに根を張って、命の源である、生きる力をキリストからいただいて、ということである。
 そこで今年度は、標語を「キリストに根ざして成長しよう」にした。聖句は「キリストに根を下ろして造り上げられ、教えられたとおりの信仰をしっかり守って、あふれるばかりに感謝しなさい。」(コロサイ2:7)が与えられた。           
 このコロサイの信徒への手紙は、パウロがコロサイの教会の伝道の困難に直面していることを聞いて書かれたものと言われている。コロサイは現在のトルコ西部の町で、東西交通の要衝にあたり、異教的な影響の強い土地だった。コロサイの教会にはそれこそ様々な人種・階級の人たちがいた。ギリシア人に、ユダヤ人、奴隷もいれば自由な身分の者もいるといった状態だった(3:11)。秩序のない雑多で混乱している状況に対して、パウロは福音の真理とは何かを正面から明らかにしようとしている。そのキーワードが「御子はその体である教会の頭」(1:18)であり、「キリストの体である教会」だった。昨年度の聖句にも「頭であるキリストに向かって」とあるように、キリストは教会の頭であり、教会の体である。
 パウロにとって、教会はキリストの体である。しかしながらコロサイの教会は種々雑多な人々の集まりで、中にはキリストの体にしっかりと結びついていない者も多くいた(2:19)。だからキリストの体にしっかり結びつくようにと、いろいろと言葉を変えて、諭し、勧め、励ましている。今日の聖書箇所の6節の「キリストに結ばれ」とか「キリストに根を下ろし」がそれである。コロサイの教会のようなことは、異教の地にあり、小さな群れである日本の教会やクリスチャンでも起こり得ることである。サタンは巧妙にやってくる。今一度、信仰生活のあり方、キリストに堅く結びついた生活、キリストに根を下ろした生活の有り様について今日与えられた聖書から考え、整えられていきたいと思う。
 信仰生活というものは、一度主イエス・キリストを受け入れたら、それでもういいのではない。バプテスマを受けたから、もう天国に行けるというわけでもない。むしろ、信仰生活のスタートである。それから成長していかなければならない。その時、キリストに堅く結びついた歩みが大切である。それは具体的に「キリストの体である教会」に堅く結びついた信仰である。キリストに堅く結びついた信仰生活のみが、私たちを天の父なる神にいたらせる道である。
 キリストにある生活とは、「キリストに根を下ろした」生活である。キリストの大地に深く根をはり、キリストから霊的栄養分である命と力を受け取ることである。そうすることによって「あらゆる善い業を行って実を結ぶ」(1:10)ことが出来るのである。
 それでは具体的にどのようなことを心がければいいのだろうか。そのために最も大切なことは、静かに神からの呼びかけを聞くことである。聞くこと、そのことは静的で受け身であり派手さはないが、そのことを主体的に、自覚的に、能動的に行うことが大切である。毎日の生活の中で、祈りとみ言葉の傾聴と黙想を主体的に、自覚的に、能動的に行うことが大事である。
 皆さんも生き生きとした信仰生活を送りたいですよね。そのためにはこの主体的、自覚的、能動的な祈りとみ言葉の傾聴と黙想が極めて大事である。そこから始まる。それと正比例して生き生きとした信仰の歩みがあり、信仰の確立があり、感謝が湧き出てくるのである。だから「あふれるばかりに感謝しなさい」(7節)と勧められているのである。一日のうち5分でも10分でもいい。できたら同じ時間で行い習慣化しよう。一日一章、そして短く祈る。そこから始めてみよう。
 キリストにしっかりと根ざし、そしてキリストからしっかりと生命と力の栄養をいただこう。そのことによって、一人ひとりが成長させられ、やがてその一人ひとりが肢体である教会が成長させられていく。私たちの救い主イエス・キリストによって、それはなされていく。それは神の約束である。

復活とは何か?

2022-04-18 15:14:37 | 説教要旨
2022年4月17日 イースター礼拝宣教
「復活とは何か?」ルカによる福音書24章36-49節
 最初にはっきりさせておきたいことは、復活とは死んだ人が墓から今一度、この三次元の世界(いわゆるこの世)へと生き返ってくる蘇生ということではないということ。聖書のいうよみがえり、復活ということとは根本的に違うということだ。イエスが復活したということは、墓から出てきて弟子たちと一緒にこの三次元の世界(この世)を歩き回ったというようなことではさらさらなくて、神の御手に、ということは神の国において永遠の命に復活した、よみがえったということなのだ。
 確かに、今日の聖書箇所では、復活したイエスが弟子たちの食事をしているところに現れ、魚を一緒に食べられたというような記事が書かれている。文字通り読めば、イエスが三次元の世界(この世)に生き返ってきたかのように読み取れるような表現である。しかし後で詳しく触れるが、宗教体験というのは深く人間の深層意識に根ざしている。この宗教体験というのはなかなか言葉では表現しにくいところがある。従ってこの体験を普通の表層意識での言語で表現しようとすれば、いきおい象徴性を持たせざるを得なくなるわけである。
 いま、「ルカによる福音書」の表現を追ってみよう。弟子たちが食事をしているところに復活したイエスが現れた時、弟子たちは恐れおののいて亡霊を見ているのだと思った、と記されている。なぜ弟子たちはそんなに恐怖に震えあがったのだろうか。
 もちろん亡霊だと思ったからもあるだろうが、実は震え上がったのにはそれ以上の理由があったのだと思われる。すなわち弟子たちはイエスの怨霊が現れたのだと思ったのではないだろうか。
 まだイエスと一緒にいた時、弟子たちは、「私たちは先生一人を見殺しになぞ決していたしません。一緒に死にます」などと言っていた。しかし、いざとなると命が惜しくて完全にイエスを見殺しにしてしまった。ただ何処遠くから見ているだけだったのだ。そのうち謝る間もなく、イエスは十字架上で、苦悩と孤独と屈辱の死を遂げてしまった。弟子たちは、さぞかしイエスは我々のことを恨みながら死んで行かれたに違いない、そのような意識にさいなまれて、自己嫌悪と恐怖の時間を過ごしていたに違いない。弟子たちは当然それなりの天罰を受けることを覚悟していただろう。
 ところが、この物語の表現によれば、そこに現れたイエスは弟子たちを罰したり恨んだりせず、魚を取って一緒に食事をしたというのだ。これは弟子たちを裁かずに赦しているということである。神の御手のうちによみがえられたイエスは、裏切った私たちを赦し、今も生前と同じように私たちを同伴者として大切にしていてくださるのだ、そう受け取ったのだ――これが弟子たちの復活体験の核をなすものである。この赦されているということの深い宗教体験は、目には見えない聖霊の働きによって導かれたものである。
 実際はこの物語は、出来事を客観的に述べたものではなく、本来深層意識に根ざしている深い宗教体験を、表層言語に象徴的意味合いを持たせて語ったものなのだ。その時、聖霊の助けがあったことは言うまでもない。
 それは宗教の世界(信仰の世界)における真実は、科学の世界のように主観から冷たく切り離された客観的真理を求めるものではなく、あくまでも主体との関わりにおける主体的真実を求めるものだからである。言うなれば、神との主体的な関わりの中にその真実があるということだ。これが信仰といわれることの本質である。
 もう一か所、復活の記事を見てみよう。ルカ福音書24章の最初のところ。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。」(ルカ24:5)。主の葬りの墓に赴いた女性たちに天使が現れて言った言葉である。天使はイエスが生きておられると言うのだ。復活信仰の中心メッセージはこれをおいてほかにない。この信仰がなければ、キリスト教信仰は今日あり得ないだろうし、また教会は命を失う。生きるキリストは、この世を働き場とされる、これが私たちの復活信仰であって、この世に生きることを輝かしいものにする根源である。イエスが生きておいでになるということは、考えても分からない。もし考えて分かるようなら、分かっただけの信仰の持ち主でしかない。それでは頭の中の信仰であり、自分の中での知的作業に過ぎない。分からないからこそ、永遠であり、究極であるキリストにわたしが結ばれていることを真実とする信仰が生まれるのだ。そこには聖霊の助けがある。主の復活を信じる信仰は、ひたすら驚きと恐れを引き起こすのみ。聖書の中に登場する、主の復活の証人たちの反応はみなそうだった。逆に言えば、驚きと恐れのない信仰には、人の知恵が働くかもしれないが、神は働いておいでにならない。
 私たちはただ驚きと恐れをもって主の復活を受け入れ、十字架による贖いと赦しを感謝をもって信じるのみである。

荒野に希望を見る

2022-04-11 15:53:52 | 説教要旨
2022年4月10日 レント第6主日礼拝宣教
「荒野に希望を見る」申命記2章7節
 もう20年以上前の話になるが、私が福岡の西南学院大学の神学部にいた時、福岡市の干隈にあった神学部が本学の西新キャンパスに移転することになった。その時発行された記念誌に編集委員として関わったが、その記念誌に「神学部は荒れ野だった」という体験や思い出が多く書かれていた。しかし、皆さんがその荒れ野を懐かしみ、素晴らしいところであったと振り返っておられる。不安や苦しかったこと、自分の信仰との葛藤などいろいろあったにもかかわらず、荒れ野において多くの恵みをいただいたということであろう。それは何も神学生ばかりではない。
 今日の聖書箇所の申命記2章7節には、主なる神の40年間にわたる荒野でのイスラエルの民との関わりが記されている。これは、神との関わりにおけるイスラエルの民の総括の言葉である。
荒野は恐ろしいところだ。食べ物や水が不足することが当たり前のところ。昼は暑く、夜は寒い。恐ろしい蛇、動物、虫がいる。そして思いがけないこともまた起こる。そのような中にイスラエルの民は40年居た。「この四十年の間」とあるが、40年は古代にあっては人の一生の長さだった。彼らにとっては長い期間だったであろう。
 ここには記されていないが、他の聖書の箇所を参照すると、荒野にあって、イスラエルの民は、信仰的というよりは、不信仰、あるいはつぶやきの多い民だった。出エジプトという救済の恩をすぐに忘れる、かたくなで傲慢な民だった。にもかかわらず、神はそのような民を見捨てずに、共にいてくださった。それのみならず、イスラエルの民のなすその手の業を祝福して下さった。「あなたの手の業をすべて祝福し」とある通りである。
なぜ、神は、このような出エジプトの恩をすぐに忘れるかたくなで傲慢な民を見捨てなかったのだろうか。それは、この神の本質が愛だからだ。たとえ人々の不信仰と反逆があったとしても、それで神が異なる神に変身するわけではない。自らの燃える怒りに「否」を言って、愛に留まり続ける愛の神である。先日、お話したゼカリヤ書10章6節の「わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す」という神の無条件で一方的な憐れみである。それ故に、イスラエルの民は、神の本質について、繰り返し告白してきた。たとえば、詩編に次のような聖句がある。詩編103章8節。「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。」 
 先ほどの申命記2章7節に「この広大な荒れ野の旅路を守り」とあるが、この「守り」と訳されている言葉はヘブライ語で「ヤーダー(知っていた)」である。直訳すると、神は民の、その歩みを全てご存知であった、となる。ここには、人に最大限の自由を与えつつ、見守っておられる神の姿がある。
 さて、私たちの聖書(新共同訳)には、この40年間「あなたの神、主はあなたと共におられたので」とあるが、原文のヘブライ語聖書においては、「おられた」という動詞はない。原文は、「あなたの神、主はあなたと共に」とあるだけ。「おられる」はない。何もないのである。だから、申命記2章7節は、見えていないものを見ているのだ。ないものにあることを見ているのだ。
 ここで話は記念誌に戻るが、記念誌にKさんの「なんにもなかった」という題がついている文章がある。Kさんはキリスト教人文学コースで学ばれた方でクリスチャンではないが、干隈での神学校生活がどのような荒野であったかを語っている。「神学部には、本当になにもなかった。賑やかな食卓も、刺激的な音楽も、洒落た服装で私をうらやましがらせる人も、豪勢な海外旅行の話も…。今だから正直に言おう。私はあまりの侘しさに、泣きそうになることがたびたびあった。……この原稿の依頼をいただく少し前から私は、ひとつのことが気になり始めていた。なんにもない場所にしか存在しないものの存在、についてである。
 確かに、神学部でのあの四年間、干隈というなんにもないあの空間には、ただ者ではない何かがあった。それがいったい何だったのかはいまだに分からないが、それ以前もしくはそれ以後に経験した、どの時間ともどの空間ともそれらは明らかに異なっていた。……なんにもない中に存在していたとてつもない力とはいったい何だったのか、そこに向かって、哀しいあがきを繰り返しているに過ぎないのかも知れない。」
 以上です。私たちもまた、時として、Kさんのように、ないもの、見えないものと格闘することがあるだろう。即ち、荒野を経験することになるということだ。しかし、荒野で格闘することは悪いことではない。なぜなら荒野には、希望も潜んでいるからだ。イスラエルの民たちは、ないものにこそ、見えていないところにこそ、荒野の40年の祝福の源、その根源を見ていた。何という、不確かさに確かさを見ていることだろうか。目には見えないけれど、この四十年の間、「共におられた」と告白をしている。そこに祝福があり、守りがあり、何一つ不足しなかったと。

我らの国籍は天に在り

2022-04-03 17:49:13 | 説教要旨
2022年4月3日 レント第5主日礼拝宣教
「我らの国籍は天に在り」フィリピの信徒への手紙3章12-4章1節
 20節に「わたしたちの本国は天にあります」とある。口語訳聖書では「わたしたちの国籍は天にある」と訳されていて、さらに文語訳聖書では「我らの国籍は天に在り」と訳されている。いずれにしても、キリスト者の本質、隠された性格を言い表している聖句だと思う。大事なことは、この聖句が私たちの信仰生活の中で力を発揮しているかどうかである。この聖句によって私たちはもっと慰められるべきではないか。もっと励まされ、もっと明確に私たちの歩む方向を示されるべきではないか。
 「我らの国籍は天に在り」という信仰に生きる私たちの人生は、一体どういう具体的な姿になるのか。二つのことが言えるのではないか。一つは、私たちの人生は旅であると位置づけて、その「旅」はまだ終わらないということである。その旅はどこに向かっているのかというと天国、神の国である。だから天にある本国に向かっての私たちの旅はまだ途上にあるということだ。
 一方で、私たちは「天から主イエス・キリストが救い主として来られるのを待っています」。怠惰に寝転んで待つのでもなく、また今か今かと落ち着きもなく待つのでもない。すでに主を信じて、天に国籍がある者として、キリストの市民、キリストの大使として、この地上の旅を続けながら、待つのである。待つと同時に天に向かって地上での旅、生活に励んでいるのだ。
 もう一つのことは、「この世のことに対して正しい距離を持つ」ということである。「この世のことしか考えない」というのは「距離」がないことになる。巻き込まれすぎて、天の国籍のことを忘れてしまう。「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとする」ことになってしまうのだ。地上のものを神の位置に置いてはならない。キリストによって私たちにはこの世の価値は限定されている。天に属することで、この世の終わりを見ている。終末論的に生きていると言っていいだろう。それがこの世に対して正しい距離を持つということだ。別の言い方をすると、自分の人生のみならず、社会、世間、この世界に対して相対化して生きるということ。そうでないと、いつの間にか、この世の価値しか頭になくなって、この世のことだけが心を占領して、まさに主にあるキリスト者のあり方、主にある自由を失ってしまうことになりかねない。
 「正しい距離」を持つことは、しかし地上の一切のことに無関心、冷淡になることではない。地上には苦難があり、悩みがあり、苦しんでいる人々がいる。人災があり、天災がある。パウロは今、牢獄の中にいる。フィリピの教会の人たちはパウロのために祈り、支援している。また、パウロは大飢饉に苦しむエルサレム教会のために募金をし、それをエルサレム教会に届けた。そのように昔も今もキリスト教会はそのような人々のために祈り、支援をしてきた歴史がある。国籍が天にあるということは、この世に「派遣」されているということでもある。だから「派遣」された者としてこの世に生きるのである。それゆえに共に生きて、地上の困難から少しでも助け出す工夫、支援、祈りを傾けるのである。そうした働きを通して、主が助けてくださることを伝える。伝道と奉仕に生きるのは天に国籍を持った、私たちの使命である。そのようにして、私たちの信仰生活でも、「我らの国籍は天に在り」ということを具体的に行動し、発揮しなければならない。国籍が天に在る者として。