逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

信仰の決断

2019-06-26 10:10:19 | 説教要旨

2019年6月23日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「信仰の決断」 列王記上18章20-40節

私たちの人生は選択の連続である。右に行くか左に行くか。買うか買わないか。やるかやらないか。小さなことから大きなことまで、常に選択している。その決断には、意味があり、理由があり、合理性がある時もあるが、特にない場合もある。みんながしているから、習慣だからとか、親の代からそうしているからとか、何となくとかいう場合もあるだろう。信仰生活の場合はどうだろうか。

預言者エリヤにとってバアルの神との戦いは重要な使命であった。時の王アハブは異邦のシドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、彼女の言うままにバアル信仰を受け入れてしまう。そのためイスラエルの民たちの間にもバアル信仰を受け入れる者もいた。バアル信仰とは偶像礼拝であり、ご利益信仰であった。エリヤは人々の間に混乱が生じていることを憂い、イスラエル伝来の信仰を取り戻そうと、バアルの預言者たちとの直接対決を試みた。そして、エリヤは人々に信仰の決断を迫る。バアルか、主なる神か、どちらを信じるのかはっきりせよと。
 
しばしば何を信じても結局は同じという人がいるが、歩き出していないからそう言える。信仰していない人が言うせりふ。信仰とは一途なもの。信じる道は歩き出した道筋一本しかない。エリヤは、どの道を選ぶかを決定する決め手は、人が働きかけなければ起きない神なのか、人に働きかけてくださるお方であるかを知ることにあると教えている。

18章27-29節に「彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった」とある。何も起こらない。あるのはバアルの預言者たちの体の傷と狂ったような叫び声だけ。

続いて18章36-37節に「献げ物をささげる時刻に、預言者エリヤは近くに来て言った。『アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう』」とある。あくまでも神が主権者であり、私たちはその僕である。そこには神への信頼がある。この違いに気づくべきだ。そして、偶像のバアルか、主なる神か、どちらを信じるのかはっきりせよと言う、この選択原理は時代を超えて現代でも十分通用する。
 
ここで預言者エリヤが迫っていることの理由がもう一つある。それは、中途半端ないい加減な信仰のあり方。信仰は、結局のところ信じるか、信じないかの決断を迫るのだから、万事につけ生ぬるいことを許さない。決着を付けることが求められる。ヨハネの黙示録3章15節に「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」とある。信仰において、あいまいさがあってはならないとする意味。信仰の世界には、あいまいさを断ち切る明快さが必要。
 
さて、さきほど読んだヨハネの黙示録3章15節の次の16節。「 熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」。ここでは私たちの行い、生き方の温度が測られている。いま自分で測って何と答えるだろうか。多くの者が、自分は生ぬるいほうだと答えるだろう。それが正直なところ。しかし、そこで忘れてならないのは、生ぬるいのは、主イエスにとって最も我慢ならないのであって、主が吐き出すような存在になっているということである。なぜ生ぬるいのか。17節にある通り「『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」からである。気づいたら、熱心に努め、悔い改めなければならない。19節の「だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」にある通り。戸口にキリストが立っておられることに気づかないことこそ、生ぬるいままでよしとする姿勢を作っているのではないだろうか。

そのような私たちに対して、主イエスは戸口に立って、戸が開かれるのを待っておられる。待っておられるだけではない。18-19節「そこで、あなたに勧める。裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身に着ける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい。 わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする」と言われる。生ぬるい私たちを叱責しつつ、愛をもって迎えてくださるのだ。一緒に食事をしよう、早く戸を開いてくれないか。主はそう言って戸を叩き続けておられるのだ。私たちにも、主イエスが戸を叩く音が聞こえないだろうか。聞こえたら、こう挨拶しよう、こう祈ろう。「初めまして、イエス様。どうぞ私の家にお入り下さい」。

映画「こどもしょくどう」、涙、感動

2019-06-21 11:00:17 | 日記

ぜひ、多くの人に観て欲しい。映画「こどもしょくどう」。今週の火曜日(18日)の朝日新聞地方版にその映画の紹介記事が載っていた。その日は朝から出かける用事もあって、ついでに横浜まで出て観ることにした。
映画に登場する車中寝どまりするホームレス状態の親子がいますが、私が北九州にいた時、同じような親子に出会ったことがありました。当時、そんなことってあるのって思いましたが。また、母子家庭のいじめられっ子が登場しますが、その母親は、毎日冷蔵庫に千円札をおいていく。小学生の子どもはそれで弁当やおやつを買って一人で食べています。これと同じケースの子が昔、私のクラスにもいました。当時は500円玉、箪笥の上に毎朝父親が置いていき、それで買弁(親の作った弁当でなく、買ってくるパンか弁当のこと)をしてくる子がいました。その子もいじめられっ子でした。30年以上も前の話。
そういうわけで、身につまされて、涙がでました。ドキュメンタリーではない。子どもの演技が自然体で、じっと無言の寂しそうな顔、悲しい顔、つらい顔のアップが、目に残ります、映画としてもよくできています。「万引き家族」もいい映画でしたが、それに劣らない素晴らしい感動の映画です。
皆様にお勧めします。横浜の黄金町にある「シネマ・ジャック&ベティ」という映画館で上映中。一般1800円、シニア1100円。13時20分上映。28日まで。監督は日向寺太郎。

愛は境界線を乗り越える

2019-06-20 11:48:04 | 説教要旨

2019年6月16日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「愛は境界線を乗り越える」 マルコによる福音書2章23-3章6節

 ユダヤ教では土曜日が安息日。そして、この安息日を守ることがユダヤ人にとってはとても大事なことだった。安息日とは、エジプトでの奴隷状態から解放されたことを想起し、神さまに心を向けて礼拝を捧げる日だ(出エジプト記20:8-16、申命記5:12-15)。ところが、パリサイ派は仕事をしてはならないという言葉にとらわれ、「安息日を守る=仕事をしないこと」になり、いかに仕事をしないかが大事なことになっていた。奴隷状態からの解放を意味していたはずの安息日が、人々を束縛するものになってしまっていた。
 
 弟子たちが麦畑を通っているときに、麦の穂を摘んで食べた。この行為は、旅人などがその場での空腹を一時的に満たす場合には、盗みとしてとがめられることはなかった(申命記23:24-25)。ところが、その日が安息日だったので、この行為が収穫の労働をしたことになるとパリサイ派が責めたのだ。それに対して、主イエスはサムエル記上21章の例を用いて答えられた。ダビデが、サウル王から反逆の疑いをかけられ、家来を連れて逃亡生活をしていた時のこと。ダビデたちが、飢えてパンを求めたのが、お供えのパンを取り替える安息日であった。しかし、アビアタルは、祭司以外に食べてはならないこのパンをダビデたちに与えた。「安息日に仕事をしないということが大事なのではない。安息日は、人々を真の意味で生かす日なのだ。アヒメレクは、安息日を軽んじたのではなく、むしろ、本当の意味で守ったのだ」。それが27節の意味だろう。

 28節の「人の子」とは、主イエス自身のこと。安息日の本来の祝い方を取り戻すために、主イエスは来られた。そして毎週、私たちを喜びの礼拝へと招いていてくださる。私たちは、主イエスの前で、最も自由になり、安らぐことができる。なぜなら、このお方によって、罪が赦されているからである。
 
 治療行為は労働だから、安息日には禁じられていた。だから、主イエスも安息日の戒めを守ろうとするならば、日が暮れて、安息日が終わってから癒やしを行えば良かった。しかし、主イエスはあえて安息日に癒やしを行った。「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ロマ書13:10)とあるように、律法の精神は、神がお創りになった隣人を愛すること。人を愛することのためにこそ律法があるのに、その律法を用いて人を苦しめるのは、神が悲しまれること。律法が重んじられ、律法を守ること自体が目的とされてくると、律法の心はいつの間にか影が薄くなってくるということである。律法が一人歩きを始めるのである。このような律法主義の問題は、伝統主義が本来伝統が生まれたときの瑞々しい精神が失われることがあるという問題にも通じる。

 主イエスが怒り悲しまれたのは、このことだった。主イエスは律法主義に対してはいささかも妥協することなく徹底的に戦われた。なぜなら、律法主義こそが神の愛を無にしてしまうからである。しかし、この主イエスの態度が、パリサイ派たちとの緊張を生み、やがては十字架へとつながっていくことになった。
 
 私たちは、始めから悪意をもって、誰かを苦しめるということは少ないかもしれない。しかし、自分の正しさを振りかざして、相手を傷つけていることはずいぶん多いのではないかと思う。しかもやっかいなことに、自分は正しいと思っているから、なかなか、この罪には気づかない。しかし、愛のない正しさは、相手を傷つける暴力になるし、たとい、その内容が間違っていなくても、本当の意味では正しくもないのである。なぜなら、愛がなければ一切はむなしいからである(第一コリント13:2-3)。愛のない正しさをふりかざす態度こそが、まさに「かたくなな心」である。自分はかたくなではないといいきれる人がいるだろうか。
 
 しかし、幸いなことに、神はこのような私たちの「かたくなな心」を砕いてくださる。砕いておいて、後は知らないではない。その「打ち砕かれ悔いる心」を神は侮られない。受け入れてくださり、赦してくださるのである。詩篇51篇19節に、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を/神よ、あなたは侮られません」とある。
これが神の愛、神の恵み。それによって、私たちは神を愛し、隣人を愛する者へと変えられていき、力を受けて、その働きへと押し出されていくのである。その時、私たちは自分中心の、「わたし」という境界線を超えて、隣人へと向かうことができるのである。「愛は境界線を越えるのです」。