逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

アドベント・新しい備え

2024-12-03 16:26:34 | 説教要旨
2024年12月1日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「アドベント・新しい備え」ルカによる福音書1章5-25節
 アドベントとは、ラテン語のアド「~に向かって」、ベント「来るべきもの」から来ています。ですから、「アドベント」とは、「来るべきものに向かって」となります。来るべきものに向かって待っているのです、では、待っている「来るべきもの」とは何でしょうか?そう、それは「救い主」です。ですから、アドベントとは「救い主に向かって」待つ日々ということになります。しかし、「待つ」とはただ漫然と無為に時間を過ごすことではなく、キリストに向かって「待つ」信仰の姿勢を示すものであります。
 ヨハネの父ザカリヤと、その母エリサベツは、「二人とも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」人でありました。旧約の信仰では、正しい人は神から祝福を受ける。例えば、子どもがたくさん生まれるとか、あるいは事業が繁栄するとかいうことを神の祝福のしるしと見ていました。ところが神の前に正しい行いをしていたザカリヤたちには、子どもが与えられなかったのです。それは理解できないことでありました。
 私たちはよく「どうして」と言います。神に対してもそれを言うことがあります。18節に「どうしてそんなことが、私にわかるでしょうか」(1:18)、34節に「どうして、そんなことがあり得ましょうか」(1:34)とあります。それは神を自分の秤で計ろうとしていることであります。私が理解し、納得できたら信じようという生き方であります。そこでは神ではなく自分が主人になっています。
 私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることにあります。25節に「主は、今私を心に掛けて下さって」(1:25)、48節に「この卑しい女さえ、心に掛けて下さいました」(1:48)とありますが、神はこの私を心に掛けて下さっていたことに気づくところから、ほんとうの信仰が始まるのではないでしょうか。「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます」。これが信仰であります。今は別に信仰する必要がないとか、そのうち教会へ行きますとか言う人がよくおられますが、それは信仰がよく分かっていないのであって、キリスト教信仰は、自分が必要だから信じたのではない。神が私たちの方へ臨んでこられたから、信じるようになったのです。神が私のような者を心に掛けてくださった、そのことが私たちの信仰の始まりであることをいつもはっきりさせておかなければなりません。
 マリヤが「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」とガブルエルから聞いたとき、「ひどく胸騒ぎが」したとあります。恵まれたのに、胸騒ぎがするとはちょっと不審に思われます。なぜ不安を感じたり、胸騒ぎがするのでしょうか。それは神が私たちの世界に介入してこられたからであります。私たちは、サンタクロースを迎えるように、ストレートに神を迎えることはできない。言い換えると、神の恵みは、今までの自分の生活を続けながら受けることはできない。イエスが生まれたとき、ヘロデ王が不安になったのも、新しい王が生まれることは古い王が追放されるということになるからであります。
 私たちも自分の王座に座っています。だから新しい王を迎えるとか、新しく恵みを神からいただくときには、今まで王としてあがめていたものを追放しなければなりません。古いものがなくならなければ、新しいものは起きてこないのです。そこに不安や胸騒ぎの原因があります。新しく来た世界に対して、新しい備えをすることが、悔い改めであります。回心であります。神からの働きかけに応え、新しいもの、新しい秩序を心から受け入れていくところに、悔い改め、新生が起こり、全く新しい信仰と希望と愛の生活が始まるのです。