2024年5月5日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「愛にとどまる礼拝」 使徒言行録1章6~14節
使徒言行録の冒頭において、主イエスは弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒1:8)と約束して昇天された。その後、最初に弟子たちがしたことは何だったのだろうか。それは二階部屋に集まることだった。そこで彼らが行ったのは、敬虔なる平凡事ともいうべき行為だった。すなわち「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」のだった(使徒1:14)。
聖霊降臨の力と全世界に対する証人となるという約束が弟子たちに告げられて、それによって弟子たちを奮起させたのだとすれば、その直後に予期することは、弟子たちがより活動的な形で実際の反応を示すということではないだろうか。「さあ、やるぞ」と言って、福音を宣べ伝える証人として、一斉にエルサレムの町に飛び出していく姿が目に浮かぶ。ところが違うのだ。弟子たちは「心を合わせて熱心に祈っていた」のだ。聖霊によって力を受け、地の果てまで主イエスの福音を宣べ伝える活動を始めるにあたって、弟子たちが最初にしたことが祈りだったのだ。弟子たちは、主イエスから「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ18:1)と教えられていた。祈りは使徒言行録に出てくる初代教会の主要な活動であり、それは他のすべての活動に優先するものであって、イエス・キリストによってこの世界に生じた出来事を言葉と行動によって証言しようとする教会の力の源泉となるものであった。だから、祈りは、教会のひとつの「活動」というよりも、むしろ教会の生命そのものに関わるものである。教会に求められる行動主義とは、たんなる息もつかせぬ忙しさとか激しい人間的な努力といったもの以上のことであり、それが祈りなのだ。祈りに始まって、祈りに終わる。これが教会の姿、教会の行動、活動の基本的なあり方なのだ。
だから、私たちの祈りも、私たちの信仰に先行する。その具体的なものとして主日礼拝がある。週の初めの日の朝、私たちは礼拝をする。一週間の信仰生活を始めるにあたり、まず礼拝をする。すなわち主日の礼拝行為は、私たちの月曜日以降の私たちの生き方に先立つものなのである。
礼拝とは、ギリシア語の原意によれば「人々の仕事」を意味する。教会における私たちの礼拝は、この世界における私たちの仕事に先行するプレリュード(前奏曲)であり、その源泉ともなる。私たちの生活は礼拝に始まって、礼拝に戻ってくる。言い換えるならば、私たちの生活は祈りに始まって、祈りに終わると言ってもいいだろう。その間、いろいろなことがあるだろう。必ずしもよいことばかりではない。悲しいこと悔しいこと苦しいこといやなことなどもあるだろう。しかし、祈りに始まって、祈りに終わる信仰生活においては、すべてのことはこの祈りにはさまれている。祈りによってサンドイッチにされているがゆえに、苦しみは苦しみでなく、悲しみは悲しみで終わらないのである。祈りによって慰められ、励まされ、力を受けるのである。そして、立ち上がり、主のために用いられていくのだ。
以上のことから、キリスト教の信仰生活の中心は礼拝にあり、祈りにあると言っていいだろう。ローマ12:12に「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」、第一テサロニケ5:16-18に「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」とある。祈りに励みましょう。