逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

心に響く鈴の音

2023-08-21 11:18:15 | 説教要旨
2023年8月20日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「心に響く鈴の音」 使徒言行録16章6~10節
 星野富広さんの花の詩画集「鈴の鳴る道」(偕成社 1986年)の中に次のような文章がある。「車椅子に乗るようになってから12年が過ぎた。その間、道のでこぼこが良いと思ったことは一度もない。ほんとうは曲がりくねった草の生えた土の道が好きなのだけれど、脳味噌までひっくり返るような振動には、お手上げである。(中略)ところが、この間から、そういった道のでこぼこを通る時に、ひとつの楽しみが出てきた。ある人から小さな鈴をもらい、私はそれを車椅子にぶら下げた。手を振って音を出すことができないから、せめて、いつも見える所にぶらさげて、銀色の美しい鈴が揺れるのを、見ているだけでも良いと思ったからである。
 道路を、走っていたら、例のごとく小さなでこぼこがあり、私は電動車椅子のレバーを慎重に動かしながら、そこを、通り抜けようとした。その時、車椅子につけた鈴が「チリン」と鳴ったのである。心に染み入るような澄んだ音色だった。「いい音だなぁ」。私はもう一度その音が聞きたくて、引き返して、でこぼこの上に乗ってみた。「チリーン」「チリーン」。小さい音だったけれど、本当に良い音だった。その日から道のでこぼこを通るのが楽しみとなったのである。
 長い間、私は道のでこぼこや小石を、なるべく避けて、通ってきた。そしていつの間にか、道にそういったものがあると思っただけで、暗い気持ちを持つようになっていた。しかし小さな鈴が「チリーン」と鳴る、たったそれだけのことが、私の気持ちを、とてもなごやかにしてくれるようになったのである。鈴の音を聞きながら、私は思った。“人も皆、この鈴のようなものを、心の中に、授かっているのではないだろうか”その鈴は整えられた平らな道を歩いていたのでは、鳴ることがなく、人生のでこぼこ道にさしかかった時、揺れて鳴る鈴である。
 美しく鳴らし続ける人もいるだろうし、閉ざした心の奥に押さえ込んでしまっている人もいるだろう。私の心の中にも、小さな鈴があると思う。その鈴が、澄んだ音色で歌い、キラキラと輝くような毎日が送れたらと思う。私の行く先にある道のでこぼこを、なるべく迂回せずに進もうと思う」。    
以上ですが、人生において、避けられないでこぼこ道、同じでこぼこ道を歩くなら、きれいな鈴の音を聞きながら、楽しい豊かな気持ちで歩みたい、そういった星野さんの思いがつづられている。私たちはどうだろうか。やはり、最初の星野さんと同じように、でこぼこ道、曲がりくねった道、障害物のある厄介な道はできれば避けたいと思うだろう。しかし、星野さんは、でこぼこ道でこそ、きれいな鈴の音が鳴ると言われる。それは心の中にあるとも言われている。
 また、俳人の種田山頭火の句に次のような句がある。「まっすぐな道でさみしい」。含蓄のある一句だ。私たちは、曲がりくねっている道より、まっすぐな道を選ぶ。曲がっているとすぐ伸ばしたくなる。トンネルを掘ったりしてまっすぐにする。曲がりくねった人生の歩みより、効率のいい無駄のない人生の歩みをどこか望んでいる。それを山頭火は「まっすぐな道はさみしい」と表現している。人生に無駄、遊びといって否定的に言われるが、人生に無駄とか遊びは必要で、人生を豊かにしてくれる。
 さて、ここでパウロは、しばしば聖霊に禁止され、行く手をさえぎられている。パウロはここで北に西にさまよい歩いている。そこではまるで計画もなく、あてもなく歩いているかに見える。しかし、彼はただ足の赴くままに、のんきに旅を続けているのではない。彼は妨げられているのだ。それは神の「否!」にほかならない。しばしばさまようことさえ神の御手の中にあることを私たちは忘れてはいけないだろう。神が扉を開かないところでは、いかなる人間の熱心も、いかなる賢い知恵も、力も役に立たない。箴言の21:30-31に「主に向かっては、知恵も悟りも、計りごとも何の役にも立たない。戦いの日のために馬を備える、しかし、勝利は主による」とある。
 パウロは、途上で何度も問うたことだろう、「主よ、一体いつこのまわり道が、一つの道になるのですか。いつこのあてどのない漂白の旅が、ひとつの確かな方向に変えられるのですか」と。けれども、このよく語るパウロは、聞くことをも忘れていない。その聞くことからのみ、真の服従が出てきて、ついに人は慰めに満ちた確信に到達するからである。詩編の119:45に「私は、あなたのさとしを求めたので、自由に歩むことができます」とある。
 この夜、パウロは幻を見た。マケドニア人の叫びである。「マケドニア州に渡って来て、私たちを助けてください」。それに応えて、パウロたちはマケドニア州に行く。「来て、私たちを助けてください」との声を聞いた時、彼らは悟ったのだ。「神が私たちを召されているのだ」と。「来て私たちを助けてください」との声を聞き、それに従う時のみ、私たちは「神が私たちを召されているのだ」という、もう一つの声を聞くことが出来るのである。私たちが妨げられ、邪魔され、行く手をふさがれた時であっても、聖霊の助けに素直に従うなら、この声を聞くのである。星野さんが言う「鈴の音」を聴くのである。でこぼこ道の時こそ、鈴の音を聞くのである。困難な時、試練の時、苦しい時にこそ神の声を聞くのである。だから私たちはそのような時にあっても、落ち着いて、勇気をもって、いや、神のご計画に期待する喜びをもって立ち向かうことができるのである。人間の計画が崩れる時、神の計画がなる。箴言19:21に「人には多くの計画がある、しかし神の御旨のみ、よく立つ」とある。まず神の声をしっかりと聴くことが大事であることを忘れないでいたいもの。でこぼこ道を避けないで。 

和解による平和

2023-08-14 11:37:36 | 説教要旨
2023年8月13日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「和解による平和」 マタイによる福音書5章21-26節
 どの宗教にも重要な戒律がある。ユダヤ教の場合、「十戒」(出エジプト記20:2-17)を中心とした「律法」である。「十戒」と似たような戒律はイスラムにもあるし、仏教にもある。紀元前18世紀に作られた人類最古の成文法である「ハムラビ法典」にも共通の部分がある。その意味では、「十戒」は人類に普遍的な「道徳律」と言えるかもしれない。
 しかし、ユダヤ教徒にとってはそれは単なる「道徳」を超えた、特別の意味を持っていた。つまり、彼らはそれを「神の」命令として受け止めたのである。さらに、その律法について、主イエスご自身は山上の説教で、自分が来たのは律法(十戒)を「廃止するためではなく、完成するため」であると言われ、その「一点一画も消え去ることはない」(マタイ5:17-18)と明言して、その重要性を最大限認めた。しかし同時に、十戒の条文を「原理主義的に」守ろうともしなかった。むしろ、律法の中で「最も重要な掟」は「神への愛」と「隣人への愛」であるという洞察(マタイ22:37以下)に基づいて、「十戒」を新しく解釈し直した(マタイ5:21以下)。私たちが「十戒」を読むとき大切なのは、主イエスが示されたこの道ではないだろうか。
 たとえば、第6戒の「殺してはならない」。確かに私たちはこの戒めを知っている。しかし、私たちはどこかで「正当な殺し」を模索していないだろうか。「もし侵略されたら、もし愛する者が襲われたら、そんな時には相手を殺しても仕方がない」と思う。確かにそんな「極限状態」に見舞われた時、この戒めを守ることができるかどうか心もとないものがある。戦争やテロ、クーデターが現に起こっている今日、なおさら私たちの思いは「正当な軍備」「正当な防衛」「正当な報復」へと傾いていく。
 しかし、神はただ「殺してはならない」と言われたのだ。そこには状況に対する説明も、条件も何一つ語られていない。すなわち「こんな場合は、殺してもよい」とは言われていないのである。どんなに大変な状況であったとしても私たちが殺すなら、この戒めによって私たちは神から問われるのである。
 では、「殺す」とは何を意味しているのだろうか。それは命を奪うこと。相手の「存在を否定すること」。主イエスはこう語られた。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(5:21-22)。怒りや敵意、さげすみは、相手の存在を否定することであり、殺すことと同じだと、主イエスは言われる。「殺すな」は、命を奪うことと、それに通じるあらゆる道を問うている。
 戦争は、殺すこと、すべてを破壊すること。私たちは、戦争を否定する。同時にそのための備えも、それに対する協力も拒否する。なぜなら軍備の必要性は、敵を想定することによって正当化されるからだ。ミサイルを発射させ得るのは私たちの持つ敵意である。暴力の肯定、軍備、有事体制などを正当化するのは、すべて敵意である。そして仮想敵国を作り上げるのだ。危機感をあおるのである。主イエスは、この敵意と殺しを同じことだと言われている。御言葉に生きる私たちは、敵意や軍備そのものを否定する。
 キリストは、「敵意という隔ての中垣」(エペソ2章)を取り除かれた。これが私たちの希望である。すでに主は勝利されており、敵意の問題は解決している。この希望を信じる私たちは、地上から敵意がなくなるように努力する。
 戦争のために「正当化の理由」を探すのではなく、敵意を取り除くというキリストの業に参与することによって地上から戦争の備えと戦争そのものを無くすのである。殺すなという戒めは、単に命を奪わないということのみならず、この世界から敵意を取り除くというキリスト者の使命を指し示している。これが和解による平和の構築。これがキリスト者の使命ではないか。大変難しい使命だが、主がそれをなしてくださると信じて、その働きへと押し出されていきたいと思う。







平和憲法に生きる

2023-08-10 12:10:21 | コラム
 平和憲法を持つ私たちができることは何か、すべきことは何でしょうか。戦争しない、戦争させない、非戦の未来を選び続けたいものです。
 平和学の父と言われるヨハン・ガルトゥング(ノルウェー)は、社会の構造自体が作り出す貧困・差別・抑圧・言論弾圧などがない状態を「積極的平和」と言いました。その積極的平和を作りだす働きをした典型的な例が、中村哲医師のアフガニスタンの働きでした。戦争の準備ではなく、平和の準備をし続けた生き方に学びたいと思います。
 自公政権の言う「積極的平和主義」とは真逆です。積極的平和主義はあえて危機をあおり仮想敵国を作り出し、その攻撃から防衛するという理屈で、軍備増強に走っています。敵を友とする努力をすることこそ平和憲法の生き方ではないか。難しいことではあるがこれしか平和に生きる道はないと信じる。 

神の愛する友

2023-08-10 12:06:06 | 説教要旨
2023年8月6日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「神の愛する友」 イザヤ書41章8―9節
 聖書には数え切れないほど多くの人々が登場する。しかし、多くの登場人物の中で、神から「わたしの愛する友」と呼ばれているのは「アブラハム」だけだろう。イエス・キリストも神から「わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼ばれているのが思い起こされる。
 友とは裏切らない、見捨てない関係であり、あらゆる時に、時がよくても悪くても向き合う存在である。アブラハムは、神は裏切らない、見捨てないと信じて、光の中にあっても闇の中にあっても、神と向き合い続けていたと言える(創世記15:12)。人に言えない秘密の深い淵の底でも、神と向き合っていたはずだ。
 さて、世界の三つの宗教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教から「父」、あるいは「信仰の父」と呼ばれ、神からは「わたしの友」と呼ばれたアブラハムとは、いったいどのような人物だったのだろうか。彼は背が高かったのか低かったのかなど容姿は分からない。聖書はそんなことにまったく興味がないのか、何も書かれていない。アブラハムは日々何を考え、何を想い、何を楽しみに生きていたのか、これもよく分からない。捉えどころのない人物である。
 では、アブラハムは、何か文化的に創造的な働きをしたのだろうか。優れた歌や詩を作ったのだろうか。そのようなことは何もしていない。当時の技術革新や発明に貢献したのだろうか。いいえ、何もしていない。アブラハムは英雄だったのだろうか。アブラハムの時代にも英雄がおり、巨大な権力を保持している者がいた。彼らは自分がいかに偉大であるかを示すために自らの像、巨大な建造物、記念碑を建てた。しかし、アブラハムは建造物も記念碑も何も残していない。
 彼は生涯かけて何か後世に残る仕事をしたのだろうか。いいえ、そのようなものは何もしていない。彼は生涯、羊や山羊を飼いながら旅をした。彼は放浪者だった。それにアブラハムは当時の文化、政治の中心地、チグリス・ユーフラテス川流域(現在のイラク)からは外れて、周辺の地、パレスチナに移り住んで行き、辺境の人になった。これは人生における平穏な生活、安全と保証の生活を断念して、神に導かれるまま、各地を放浪し、寄留者として、異邦人として住むことを意味した。
 確かに彼は、見える物を何も残していない。それでは彼は何も残さなかったのだろうか。そんなことはない。彼は残した。彼が残したもの、それは目に見えないもの。それは生き方。それは精神。それは信仰である。それは、神、即ち、神信仰を介在にして、生存を脅かす危機と苦悩の日常にあっても逆説的に、どこか楽観的であろうとした生き方であり、精神であり、信仰であった。具体的に見ていこう。
 アブラハムとその妻サラとの間には高齢になるまで子どもがいなかった。古代にあって跡取りがいないということは将来の希望がないということを意味した。他の人から見たら将来のない不幸な人間、不幸せな人間と思われたかもしれない。
 しかし、彼は絶望的な思いには囚われなかった。そのような彼にも、やがて、高齢の身で奇跡的に子どもが与えられる。しかし、神は、年取ってから折角授かったその愛する独り子を神に犠牲として捧げるように、その子を断念するように、と彼を試みる。神が残酷、冷酷な「悪魔」のように思える存在となって、彼の前に立ちはだかったのだ。しかし、アブラハムは、彼の前に立ちはだかるこの不条理とも思えるこの神に、愚直にもなおも従おうとした(創世記22章)。
 それは、過酷で厳しい現実や試練の中でこそ、神に深く信頼して楽観的であること、あるいは楽観的であることへの肯定ともいうべき、精神、生き方、信仰を指し示すものである。これは旧約聖書の教えの屋台骨である。それをアブラハムは生きたということだ。
 ドイツ人で第2次世界大戦の時、ヒットラー暗殺計画に関わったとして捕らえられ、殺害されたボンヘッファーという神学者がいる。彼が獄中で書いた書簡で、楽観主義について次のように書き残している。「楽観主義はむしろ生命力であり、他の人々が失望しているところでも希望する力、いっさいが失敗したと見える時にも頭を高く上げている力です」と書いている。
 マタイ福音書の冒頭にイエス・キリストの系図が出てくる。1章1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とある。神から「わたしの愛する子」と呼ばれたイエス・キリストもまたアブラハムの子孫なのだ。今日は主の晩餐式を共に守る日である。主の晩餐式は私たちの希望の証である。主の晩餐式で私たちがアブラハムの子孫であるイエス・キリストに繋がっている、つなげられていることを思い起こしたいと思う。神は裏切らない、見捨ててはおられないことを、ここにおいて思い起こしたいと思う。