逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

喜ばしい交換

2024-02-12 12:20:54 | 説教要旨
2024年2月11日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「喜ばしい交換」 マタイによる福音書21章1-11節
 主イエスは大勢の群衆の注目を浴びながら都エルサレムに入られようとしている。そのような時は誰であっても、この<晴れがましい>場面での服装をどうするかを考えると思う。しかし、主イエスは、晴れ着を用意されない。ただゼカリヤ書9章9節に預言されている通りに、ご自身で準備されたロバに乗っておられた。これは柔和を示すしるしと考えられる。柔和とは、ただニコニコしてやさしいだけではない。柔和とは他者を生かす力である。ルターは「そこには罪はまったくなく、義の装いがある」と言った。他者を生かす神の義である。戦いに勝利した王が凱旋するときは軍馬に乗る。馬は戦いのしるし。一方、ロバは柔和。ロバに乗っている主イエスはそれにふさわしい柔和な方であることを示している。他者を生かす方であることを示している。
 主イエスのエルサレム入城は、戦いに勝利して帰ってきた時のパレードではない。まるで反対の十字架の死に向かってのエルサレム入城である。しかし、大勢の群衆が期待するメシアは、日常を襲う生活の苦しさ、病や災いを幸福と健康に変えてくださるお方であった。そのようなメシアは力を持ち、人々を圧倒するような姿を持っていてよいはず。でもここには、メシアは意気揚々と凱旋するかのような王として入城されない。それにふさわしい馬に乗っていないし、服装もしていない。
 主イエスは、受難と死によって人の罪に勝利される王であることをとぼとぼと歩くロバに乗るという行為に表わされた。人々が常識で期待する勝利の王の姿とはまったく対極に位置するものであった。主は低く低くいますお方であることによって、人間の最も根っこにある罪に勝利する王であることを示された。もし私たちが、背中に負う罪の重荷にあえぐロバのようであるなら、そのロバに乗っておられるのは実はその重荷に勝利されるキリストご自身に他ならないのであって、恵みの重荷であることを思うべきである。
 すでに主イエスご自身も「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)と言われている。私たちは、うっかりすると救い主のところへ行けば、辛いことや悲しいことはすっかりなくなってしまうと単純に受け止めがちである。しかし、救い主イエスは、信仰さえあれば、幸福と健康を手にすることができると単純に考えておいでにならない。救い主イエスは言われる。あなたの軛は、実は私の軛なのだと言われる。背中のくびきが主イエスのくびきと成り変っているので、背負い得る者となっている。そこになおもって生きる勇気の源泉を発見するのである。ルターは、キリストを信じるとき、「喜ばしい交換が起こる」と言った。キリストのものが私のものとなり、私のものをキリストが引き受けてくださる、そこにこそ信仰による慰めがあるというのである。その結果、私たちは疲労こんぱいの最中にあろうと、重荷で押しつぶされそうになっていようと、なおしたたかに生きている自分の姿を見るのである。
 喜ばしい交換が起こるので、自分の背中に負っている罪の重荷にあえぐロバである私たちの罪の重荷はキリストに変わっている。恵みの重荷となっている。だから、私たちがどんな時にあっても、喜べない時にも、感謝できない時にも、そのことを喜び、感謝できる希望の人生を生きることができる。これが十字架のあがないである。十字架の救いである。そのことに気づき、主イエスを心の中に受け入れよう。主に信頼し、主にゆだねて歩もう。

肯定的なスリーⅮ

2024-02-05 12:26:21 | コラム
 先日NHKラジオの深夜便という番組に登場した加藤タキさん。コーディネーター、78歳。モンキーズ(今の若い人は知らないか)が初来日した時、通訳をしたという。現在は「難民を助ける会」副理事長をされている。彼女が番組で語った言葉が心に残った。「できる人ができることをできるだけする」。これを肯定的なスリーⅮと言うそうだ。まさに教会の奉仕のあり方にあてはまる。反対に否定的なスリーⅮもあるという。「だって…、どうせ…、でも…」。皆さん、ついこんな言葉をつぶやいたりしませんか。あらためて、これからの生き方の指針にしたいと思いました。
 彼女の両親は戦前には労働運動家として投獄も経験し、戦後は国会議員で活躍された加藤勘十、加藤シヅエ(日本初の女性国会議員)。おしどり議員として有名。年配の方はご存じでしょう。二人とも気骨のある政治家でしたね。現在、このような骨のある政治家は見当たりません。時代でしょうか。

教会は宿屋

2024-02-05 12:24:21 | 説教要旨
2024年2月4日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「教会は宿屋」 ルカによる福音書10章25-37節
 愛はキリスト教信仰の「DNA」だと言った人がいた。DNAとは生物の遺伝情報を担う物質で、日本語ではデオキシリボ核酸というそうだ。言うならば物質の核心とでも言ったらいいだろうか。だから愛はキリスト教信仰の核心。まさに神の核心は愛であり、神は愛である。私たちはその神の愛によって一つに集められている。だから、このように毎週、日曜日に会堂に集まって一つとなり、神を賛美し祈り礼拝するのは、キリスト教信仰の必然だとも言えるのではないだろうか。
 私たちは集められ共に礼拝する中で、神の愛を体験し、共通のアイデンティティ、神に罪赦された罪人、クリスチャンだということを再確認していく。その神に罪赦された罪人であるという自覚は、たとえばヨハネ3章16節のみ言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉によってもたらされる。そして、神からの愛をどのようにして互いに分かち合うかによって、神に愛されている者としての証しを世にしていくのだ。ヨハネ13章35節に「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」とある通りである。
 今日の聖書個所で、イエスは、申命記6章5節の「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という、ユダヤ教の伝統的な教えを再確認している。すると律法学者は「わたしの隣人とはだれですか」とイエスに質問をする。聖書のいう愛の義務はどこまで及ぶべきかという問題である。隣人とはどこまでの範囲の人たちを言うのか、ということだ。当時のユダヤ社会では同胞であるイスラエル人と、居住する異邦人まで及ぶと伝統的に考えられていた。律法学者がイエスに投げかけた問いに対して、主イエスは律法学者が期待する範囲をはるかに超えた愛をたとえ話で説明していく。それがよきサマリア人のたとえ話。
 さて、このたとえ話だが、多くの初期キリスト教の教父たちは、このたとえ話の中に、世を救うための神の計画の軌跡(道筋)を見ていた。教父たちは、エルサレムから下っていく人を、楽園から、すべての危険と挫折を抱えたこの世に下ってくるアダム、すなわち全人類のイメージとして見ている。そして追いはぎを、私たちを襲う敵対的な地上の権力のイメージとして見たのである。彼らはキリストご自身を、憐みで心動かされ、半死半生の人を助けに来て、その傷の手当てをし、安全な宿屋に連れて来た人として見ている。それは教会のイメージであると考えた。帰りがけにというサマリア人の約束は、主の再臨の約束を予表するものだと教父たちは理解したのである。
 このたとえ話から、キリスト者は、宗教的、民族的、社会的アイデンティティに関係なく、困っている人に憐みと思いやりを示し、良いサマリア人のように愛の行動をとるよう求められている。私たちが他者を助けるよう促されるのは、伝道のためではなく、このたとえ話に出てくるサマリア人の「隣人」愛からである。キリスト者がこのサマリア人のような隣人となれるのは、違いを乗り越えた相互の愛を学ぶことによってのみなのである。
 教父たちは、よいサマリア人のたとえ話に出てくる宿屋を教会のイメージとしてしばしば解釈してきた。サマリア人が傷ついた人を宿屋に連れてきたように、キリストは世界の傷ついた人、困窮している人を私たちの教会に委ねられる。ゆだねられた教会に集う私たちは、傷の手当てをし、健康な状態に回復するよう助ける。世界に奉仕するこの使命は、神の民への神の賜物であり、一致への道でもある。
 私の好きな言葉に「思考は地球規模で、実践は足元から」というのがある。教会は「世界に奉仕するこの使命」をゆだねられているが、実践は足元、この逗子を中心とした地域である。そのためには地域に開かれ、地域に仕え、地域と協働する教会となっていく必要がある。できることからやっていきたい。今日の週報のコラムに書いた。「できる人ができることをできるだけする」。できる人、始めよう。