2024年6月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「神の引き渡しのドラマ」 マルコによる福音書14章43~50節
劇作家の別役実氏がある本の中で、「一つの集団は、一人の犠牲者を生み出すことによって完成される。つまり、その時、集団は論理的に構成されるのである」と書いている。この別役氏の言葉を私なりに解釈すれば、裏切り者は最初から存在するのではなく、一人の犠牲者が生れるためには、一人の裏切り者の存在が必要となる、ということではないか。劇作家の別役実氏の目には、兵士たちによって捕らえられている犠牲者イエスと、イエスを引き渡した裏切り者ユダとが舞台の上で交叉しながらドラマが進展しているように見えているのではないか。
イスカリオテのユダという人物が私たちの心をどこか捉えて放さないのは、ユダの裏切り自体にあるのではなく、ユダの裏切りが犠牲者イエスを生み出しているという、その相関関係に惹かれるからではないか。あえて言えば、イエスが犠牲者となるためにはユダの裏切りが必要であったということである。その意味では、イエスとユダ、それは表と裏として表裏一体だったのではないか。
この「裏切り(引き渡す)」という言葉は、マルコ福音書では10回使われているが、ユダに対して5回、祭司長たちに対して2回、ピラトが1回、人の子(イエス)が「引き渡される」と受身形で2回使われている。これを見るとユダだけが「引き渡す(裏切り)行為」を行ったのではないことが分かる。これを図式化すれば、「ユダはイエスを祭司長たちに引き渡し」、続いて「祭司長たちはイエスをピラトに引き渡し」、そして最後に「ピラトはイエスを十字架に引き渡した」となる。
このように「引き渡し」が人の手から人の手へと、次々と行われていることが読み取れる。受難物語は、実はユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡される出来事を描いているものなのである。ユダはその役割のはじめを演じているにしか過ぎないということがわかる。
実はこの受難物語は聖書には書いてないが続きがある。それはユダの「引き渡し」から始まり、祭司長たち、そしてピラトを経て、最後に十字架へと引き渡され、そして主イエスは十字架につけられたが、真実に言うならば「今もつけられている」のである。今も血を流しておられるのだ。なぜなら、この私やあなたがピラトに続いてイエスを「引き渡している」からである。
ところで、この「引き渡す」という言葉は、同時に「ゆだねる」、「任せる」という意味を持っている。むしろそちらのほうがこの場面では正確かもしれない。受難物語における一連の出来事は「ゆだねる」物語ともいえる。神の救いのドラマにゆだねるということである。神の救済のご計画が進められているということである。イエスの受難の表の舞台では、ユダ、祭司長たち、そしてピラトと群衆がイエスを十字架に「引き渡す」ドラマを演じている。しかし、見えない裏の舞台では神の救いのドラマが進行している。「引き渡される」イエスが主役となって、もう一つの脚本、いわば神の救いの脚本に従ってドラマが進んでいるということである。目に見える人間の営みは今も悲喜こもごも続いている。しかし、見えないところでは、今も主イエスが十字架上で私たちのために血を流し続けておられる。ここに神の救いのドラマがある。ここに神の愛が示されている。この神の愛にゆだねる。このことこそが信仰なのである。