逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

正義を洪水のように

2023-10-31 11:45:34 | 説教要旨
2023年10月29日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「正義を洪水のように」アモス書5章21-27節
 聖書を読んでいると、私たちの目の前にある社会が、どのような社会であるべきなのか、と考えさせられたり、そしてその社会を変えていく力について考える手がかりを得られることがある。今日はアモスという預言者が神から受け取った御言葉を通して、そのことを考えてみたいと思う。
 アモスは羊飼いとしてイスラエルのテコアという村で静かに生活を送っていた。しかし、神に選ばれた使命感の中で、彼は預言者として社会と大きく関わっていくことになる。アモスが生きたイスラエルの社会は、ヤロブアムという王が治める時代で、政治的に独立を謳歌し、経済的に大きく繫栄していた。しかしその一方で、権力は腐敗し、弱者は虐げられ、道徳は堕落し、宗教は退廃していた。そのような時代にあって、神はアモスに正義が貫かれていない社会に目を向けるようにと促す。その促しに呼応して、アモスは彼の生きていた社会を直視した。そして、社会の権力者とそこに生きる一般の人々に対して、神からのメッセージとして語り、書き残したのがアモス書である。アモスの預言の主題は神の義であり、主の裁き。しかし、彼もまた神にある希望をもってその預言を結んでいる(9章11節以下)。そのアモス書から、特に正義について教えられたいと思う。
 24節に「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」とある。正義(ミシュパート)という言葉は、法に基づいた公正さを表わしている。また恵みの業(ツェダカー)という言葉は、倫理的意味合いを強く帯びた正しさを表わしている。法的な公正さである正義と、倫理的な正しさである正義の両方が社会の中に貫かれていることが神の意志であるとアモスは語る。
 聖書の預言者は神の言葉を預かる人である。アモスは神の言葉を預かって、イスラエルの人たちに向けて語った。しかし、この言葉が文書の中に書き留められた以上、それは後に続くすべての時代の人たちに向けて語られる神の言葉となった。私たちも今、その神の言葉をアモスを通して聴いている。
 さて、ここに「正義が洪水のように流れる」とは語られてはいない。「正義を洪水のように流れさせよ」と言われているのである。だれが流れさせるのか。それはこの言葉を受け取った人たち一人ひとりである。この言葉は、受け取った人たちに行動を促す言葉になった。「流れさせよ」とアモスを通して私たちにも語り掛けられている。流れに乗るのではなく、流れに任せるのでもなく、私たちが流れさせるのである。流れさせる中の一滴となるのである。教会はそのようにしてこの世に遣わされているのであり、教会に繋がる私たち一人ひとりがその働きへと遣わされていくのである。
 マザー・テレサも言っている。「わたしたちのすることは/大海のたった一滴の水に/すぎないかもしれません。/でも/その一滴の水があつまって/大海となるのです。」(『マザー・テレサ 愛の言葉』女子パウロ会1998)。
 マーティン・ルーサー・キング牧師の生き方からも考えてみよう。彼は私たちと同じ米国南部バプテスト連盟の牧師である。その彼は首都ワシントンで行った演説の中でこのアモスの言葉を引用した。肌の色が違うというだけで自分たち黒人が抑圧され不当に差別される社会を彼は目の当たりにしていた。彼には夢があった。人が肌の色によって差別されることがないという正義をアメリカの社会の中に洪水のように流れさせる夢である。彼のすべての行動と演説はそのような夢に裏打ちされたものである。彼は何度も逮捕されながらも、暴力に訴えることはせず、忍耐強く語り続けた。そしてその積み重ねが大水のような大きな流れとなり、公民権運動と呼ばれる大きなうねりを作り出したのだった。
 このアモスの言葉は、今この時代に生きる私たちに向けても語られている。そうだとするならば、私たちが生きるこの時代、この社会の中に、正義と公正がないがしろにされてはいないか、ということについて問いかけてみたいと思う。いま日本は、どうなっているのだろうか。世界はどうなっているのか。アモスを通して神が訴え、キング牧師が目指した正義は、法律に基づいた公正と倫理的な正しさがすべての人に等しく及ぶことだった。その二人が夢見たように、現実を直視しながら、社会の不正が見逃されず、機会の平等がすべての人に保障され、言葉と文書が尊重される社会が実現するように夢を持ち続けていたいと思う。性別や民族、職業、貧富、障害のあるなしなどのゆえに差別、不平等に扱われることがない社会、人が人として生きていく権利が保障される社会が実現するという夢を持ち続けていたいと思う。教会はその働きのためにも立てられている。

静かな沈黙の愛

2023-10-24 11:10:13 | 説教要旨
2023年10月22日 横浜戸塚教会 主日礼拝宣教要旨  杉野省治
「静かな沈黙の愛」 ヨハネによる福音書8章1-11節
 当時のユダヤの社会では、姦通罪は石打ちの刑と律法に定められていた。姦通した女をイエスの前に突き出した者たちが、イエスにこの女は石打の刑になるのだがどうお考えになるかと、イエスを問い詰めた。しかし、イエスはお答えにならず、「かがみこみ、指で地面に何か書き始めた」。イエスは沈黙された。イエスは人間の問題は律法だけでは決着がつかないことをこの場面で教えられたのだろう。だから、では石を投げる者自身はどうなのかと問われたのだ。この問いによって、人々は罪は石を投げることでは決着がつかないことを知らされる。イエスは女に言われる。「だれもあなたを罪に定めなかったのか」。「主よ、だれも」と女は答える。するとイエスは「わたしもあなたを罪に定めない」と言われた。だれも石を投げる者がいないということは、人の掟では決着がつかないということだ。
 ところで彼女は、皆が去った後のつかの間のシーンとした静寂に何を感じただろうか。これこそ、恐れと恥辱に震える彼女の立場に身を置いて考えてみなくてはわからないが、その静かな沈黙の中にイエスの温かさが感じられてならない。私はこれを「沈黙の愛」と呼びたい。彼女はこの愛に触れ再生に向かったのではないだろうか。P.トゥルニエという医学者は、人が「自分の過ちを認めるに至るとするならば」、それは「彼・彼女を裁いたことのないだれかとの、打ち解けた雰囲気の中で生じてくること」(『罪意識の構造』)と言っている。彼女は沈黙のうちに視線をそらしてくれたイエスとの温かな関係の中で、真の自分の姿を見ることができたのではないだろうか。
 人々が立ち去った後、イエスが彼女に「だれもあなたを罪に定めなかったのか」と言われると、彼女は「主よ、だれも」と答えた。これに対してイエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われた。ここにイエスの愛と配慮を感じる。恐れと恥辱の中に突き出され、やがて静かな沈黙の中で赦しの愛に触れた彼女は、どんなにか平安を得たことだろうか。 

イエスの愛の眼差し

2023-10-09 17:01:07 | 説教要旨
2023年10月8日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「イエスの愛の眼差し」ルカによる福音書15章1-7節
 「見失った羊」のたとえ話は、マタイ福音書18章12-14節にも並行する譬えとして出てくる。しかし、このルカ福音書では「無くした銀貨」と「放蕩息子」と三部作になっていて、物語の主体は「失う側」にあって、三つの物語は共に見失ったものを必死に探し、見つけ出した時に大喜びする持ち主の態度に焦点を当てている。この焦点を通して、見失われた一人ひとりの人間を捜し求める神、そして探し出したら大喜びする神の姿を透かし見るように導かれる。それが「このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(15:7)という結びの句が明瞭に表現しているだろう。
 一方で、この「見失われた羊」の譬えでは、100匹のうちの一匹を見失った羊飼いの身になったら、皆さんはどうしますか、そう問いかけていることに気づく。もし、99匹と一匹の間で、皆さんはどちらに配慮しなければならないかと問われると、誰もが「もちろん99匹の方」と答えるだろう。通常、良き羊飼いなら、さらに羊を見失ったりしないように、残りの99匹を守ろうとするだろう。しかし、このように問われると、「自分も一匹を探しに出るかもしれない」と思う人もいるだろう。その時に、ふと、人生にもそうした瞬間があるのではないか、と考えさせられる。私たちの日常の世界では「最大多数の最大幸福」の原則の上に成り立っており、民主主義でことが多数決で決定されるのもこの原則が暗黙のうちに是とされているからだ。だれもがこの正当性を当たり前のように受け止めて日常生活を送っている。
 しかし、私たち個人の人生においては、この原則がどのような時にも妥当するわけでないということを思い知らされることが起きる。ドイツで現在も活躍しているF・フォン・シーラッハという小説家、弁護士がいる。彼の書いた『テロ』という小説を紹介する。一つの極端な例になるかもしれないが次のような話である。一人の戦闘機パイロットがテロリストにハイジャックされた旅客機を撃墜して、164人の乗客を死なせた罪を問う法廷を描く裁判の話である。なぜこの戦闘機のパイロットは乗客が乗っている旅客機を撃墜したのか。それはこのハイジャックしたテロリストたちは旅客機を7万人の観客がいたサッカースタジアムに墜落させようとしていたからである。法廷で争われた問いは、7万人という多数を救うために、164人という少数者を犠牲にしたパイロットは有罪か、それとも無罪か、というもの。有罪判決であれ無罪判決であれ、それぞれに言い分があり説得力があるところに問題の難しさがあり、意見は分かれるだろう。
 もっと身近な例で言うならば、リストラの問題を挙げることもできる。会社を存続させて多数の雇用を守るために、少数の犠牲者を出す。私たちが多数の側にいる限りは当然と思える事態だが、その犠牲になる少数者が自分の家族、あるいは自分自身であったなら、それを当然のこととして平静に受け止められるだろうか。
 「見失った羊」の譬話を語ったイエスの眼差しはいつもこの犠牲にされる少数者にあった。私たちが犠牲になることのない、いや、むしろ恩恵を受ける多数の側にいる限り、当然のことのように見える人生の出来事や事柄が、不利をこうむり犠牲を強いられる少数者に連帯するとき、あってはならないこととして見えてくる。それは、どちらが正しいとか、どちらが間違っているとか言うことではなく、私たちはどのような生き方をしたいか、生き方の選択が問われる問題である。選び取りの問題である。この譬話を読むたびに、私はイエスのようにはなれないけれど、しかし、私の人生での様々な選択の機会に出会うたびごとにイエスの愛の眼差しを思い出すのである。できることは限られているが、できるだけ少数者、弱くされた者、小さくされた者の側に立って考え、共に歩みたいと思う。それはチャレンジでもある。

秋のチャペルコンサートのご案内

2023-10-07 11:13:06 | 教会行事
秋のチャペルコンサート 
アコーディオンと共に 
2023年10月14日(土) 開演 13:30~15:00
 <主な演奏曲> 「主よ、人の望みの喜びよ」 J.S バッハ 「Amazing Grace」 「パリの空の下~セーヌは流れる」 讃美歌・・・他 
ゲスト :熊坂  路得子
 埼玉県さいたま市生まれ。 6歳よりピアノをはじめ、18歳でアコーディオンと出会う。 女子美術大学短期大学部在学中に演奏を始める。 2009年・2014年に CD をリリース。2009年渡仏。 以後、幅広く活動する。 現在、全国の各教会で伝道集会演奏を精力的に行っている。 日本バプテスト連盟浦和キリスト教会会員。

入場無料 ・駐車場は数が限られていますので、 できるだけ公共交通機関をご利用ください。

互いに愛し合う

2023-10-07 11:10:02 | コラム
 大牟田にある社会福祉法人 キリスト者奉仕会は今年創立40周年を迎えられた。奉仕会の法人設立時の定礎は「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ福音書15:12)だそうです。
 「互いに愛し合う」には、人と人を比較して劣っているとか優れているとかではなく、一人ひとり違っていい、その違いを認めて、その人らしく生きていくことを認めることが基礎になるだろう。国籍、性別、思想信条、障害のあるなしなどに関わらず、それぞれが一人の人間として尊重される社会を目指したいものです。
 奉仕会の基本理念の一つに「わたしたちは社会の中で差別・抑圧され、弱い立場に立たされている方々と出会うことを基本とし、その方々の生の声に耳を傾け、そこから学ぶ視点を大切にします。」があります。教会もそのような理念をもって励みたいと思います。