逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

一粒の麦は、多くの実を結ぶ

2022-06-28 17:40:10 | 説教要旨
2022年6月26日 主日礼拝宣教
「一粒の麦は、多くの実を結ぶ」ヨハネによる福音書12章20~26節
 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。このみ言葉は、主イエスが十字架にかかられる直前、教会暦でいう受難週の中で語られたみ言葉である。今朝はそのことに注意を向け、また私たちにとってこのみ言葉がどういう意味を持っているのか、そのメッセージを聞きたいと思う。
 今日の聖書箇所のすぐ前を読むと、主イエスのエルサレム入城の時であったことが分かる。「ろばの子」に乗って、人々の「ホサナ、ホサナ」という歓呼の叫びに迎えられながら、主イエスはエルサレムの町に入られた。棕櫚の主日のこと。そのとき人々の中に、「何人かのギリシア人」がいたというのだ。この人たちはユダヤ人から言うと異邦人だが、彼らも「祭り」、つまり「過越しの祭り」に来ていた。それも「礼拝するためにエルサレムに上ってきた」人たちだった。つまり彼らは、ユダヤ教に改宗したギリシア人だったと考えられる。そして十二弟子の一人であるフィリポのもとに来て「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだというのだ。それからフィリポはアンデレに話し、アンデレとフィリポは連れ立って、主イエスのもとに行って、そのことを話したとある。
 ここで注意したいことは、まず、ギリシア人たちが「イエスにお目にかかりたい」と願ったということ。そして、その願いをきっかけとして、それに答える中で、あの「一粒の麦は…」のみ言葉が出てくることだ。礼拝に来た人々が「イエスにお目にかかりたい」と願うことは、意味深いことである。
 改宗したギリシア人たちは、すでに主イエスのことを聞いていたのであろう。このギリシア人たちがどういう状態にあり、どういう救いを求めていたか、それは記されていない。ギリシア人は知恵を求めると言われる。しかし人間の知恵では解決のつかない問題に苦しんでいたかもしれない。彼らは傷ついた魂の「癒し」を求め、民族を超えた「和解」を求めていたのかもしれない。あるいは、弟子になりたいと思ったのかもしれない。それを契機に、「人の子が栄光を受ける時が来た」という宣言がなされ、主イエスに従うとはどういうことかが示されたと理解することもできる。
 「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われた、この栄光は、続けて言われた「一粒の麦」の表現にあるように、「地に落ちて死ぬ」ことである。主イエスは「十字架におかかりになること」をご自身の栄光として決意された。この栄光というのは、神と一体の方として高く挙げられること。しかしそれが、十字架に苦しみを受け、死ぬことと一つなのである。主イエスが栄光を受け、十字架に死なれることで、ギリシア人たちとお目にかかるわけである。「一粒の麦」として主イエスは地に落ちて死ぬ、それが主の栄光であって、それによって「多くの実を結ぶ」というのである。キリストは私たち皆のために死なれたのだからである。
 私たちが今朝、主のお目にかかるのは、主が地に落ちた麦として死んでくださったことによってである。そのことによって多くの実を主が結んでくださったからだ。その実の一つに加えられることが、主とお目にかかることである。
 主イエスが十字架で死なれ、そして多くの実を結ぶ。結ばれた実が教会ではないだろうか。私たちもその実の一つとされている。私たちはなお欠けの多いもの。しかし赦され、癒され、生かされている。そのために主イエスは十字架の上に栄光を表したのだ。今朝、こうして礼拝しているのは、この主の栄光があるからだ。そしてその中で、私たち自身もまた「一粒の麦」とされたのではないだろうか。主に仕えるものとされ、主のために地に落ちて死ぬ一粒の麦とされ、主のために実を結ぶ者とされたことを喜びたいと思う。

信仰・希望・愛

2022-06-21 15:44:49 | 説教要旨
2022年6月19日 主日礼拝宣教
「信仰・希望・愛」第Ⅰコリント13章1~13節
 第一コリントの13章は愛の賛歌と呼ばれて大変有名な箇所である。 この美しい愛の賛歌は三つの部分に分かれている。1-3節には愛の必要性。4-7節では愛の特質。8-13節では愛の不滅性が語られている。
 まず、1~3節だが、「たとえ……しようとも、愛がなければ……である」という言い方で、三つの文が並んでいる。1節「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。」 あらゆる種類の優れた異言を語ることが出来ても、愛がなければ、そうぞうしくかえって迷惑である。愛なき異言は騒がしいだけ、と言い切っている。
 2節、3節も同じパターンで述べている。しかし、誤解してはいけない。パウロはこれらもの(異言、預言、知識、信仰、教え、奉仕、殉教)を単純に軽んじて否定しているのではない。ただ愛が伴わないなら、それらのものは空しくなると言ったのだ。愛が必要条件であるというだ。信仰も知識も教えも奉仕も否定されるものではなく、価値あるものであるが、それが愛において全うされる、完全にされると言っているのだ。
では、その愛とはなんであるかだが、二つ目の部分、4~7節、ここに愛の特質、愛とはどのようなものであるかが述べられている。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。……」
 このような書き方に二つの特徴がある。そして、そこから愛の特質を理解することができる。一つは主語が「愛」であると言うこと。もう一つはその主語である「愛」が擬人法、人にたとえるように表現されていること。「神は愛なり」だから、主語である「愛」のところを「神」と読みかえてみると、「神は忍耐強い。神は情け深い。……」 ここには「神は愛である」というメッセージが隠されている。
 もう一つ、擬人法で語られているということは、愛は抽象的なものではなく、愛は生きて働くもの、愛はもっぱら行動に即してのみ語られるということを意味している。ここでは、動詞が15も使われている。すなわち、愛は行為であり、その行為は愛の働きであるということだ。そして、行為の主体は愛であり、すなわち神である。神ご自身が働かれるのだ。本質的に愛である神が、愛の行為をされるのだ。そして、そのことが何であるかが我々に知られるのは、究極的にはキリストの十字架である。キリストの愛は自己を犠牲の供え物とし、献身し(ささげ)、仕える愛であるということだ。神の愛はキリストの愛であり、十字架の愛であるというメッセージがここにある。
 最後の三つ目の部分は、愛の不滅性である。「愛は決して滅びない。」 愛のみは不滅であるということ。先ほど「神は愛なり」だから、愛を神と読み替えてみた。同じように「愛は決して滅びない」を神と読み替えると「神は決して滅びない」となる。神の永遠性、不滅性を言っているわけだ。他方、造られたもの、そこから出る物、花は散り、木の葉が落ちるように諸々の霊の賜物、預言や異言や知識は廃れるであろうというのだ。なぜなら、「わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから」。不完全であり、相対的であり、部分的だからだ。だから10節「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れ」るのだ。「そのとき」とは「完全なものが来たとき」であり、それはこの世と歴史の終末の日、キリストが再臨し、栄光の神の国が現れる時である。その時、部分的なものは完全なものの前では不必要である。鏡で見るように間接的にしか見ることの出来ないものは、その時、直接的に「顔と顔とを合わせて見ることになる」時、必要ではないのだ。
 ここでパウロは終末の待望の信仰から語っている。終末はまだ来ていない。それゆえ、終末が来るまでの間存続し続けるものがここで提示される。「信仰と、希望と、愛」である。この三つは、キリストに愛され、生かされ、新しくされた信仰者のあり方、生き方を示している。私たちの信仰は神の義と結びつき、そこに救いの唯一の根源を求める。そして、そこから来たるべき神の国を待ち望む。さらに、神の愛を通して現実の生活を生きるのだ。
 信仰、希望、愛は抽象的な概念ではなく、今生きる私たち信仰者の生き方の目標ともなり得るべきものであり、それを具体化して日々生きるよう求められている。

疑うがゆえに救われる

2022-06-13 11:54:15 | 説教要旨
2022年6月12日 主日礼拝宣教
「疑うがゆえに救われる」 マタイによる福音書14章22-33節
 「主よ、助けてください」。ペテロが叫ぶと、主イエスは助けてくださった。その時、あの恐るべき言葉を主イエスはペテロに語られた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。それは私たち誰もが人から言われたくない言葉でありながら、私たちの多くが同じ言葉を毎日のように自分自身に投げかけている言葉でもある。なぜ、私にはもっと信仰がないのか。なぜ、すべてを神にゆだねることができないのか。なぜ、疑うのか。この私が神のみ手の中にあると信じ、そのみ手がよき手であることを信じているのに。それなのに、失業したり、だまされたり、事故にあったり、様々な試練や困難に出会うと、私の信仰も一緒に失せ果てて、私は沈み始めるのだ。
 なぜ私たちは疑うのだろう。怖いからだ。海はあまりにも広大であり、私たちはあまりにも小さいからだ。嵐はあまりにも凄まじく、私たちはあまりにも簡単に沈んでしまうからだ。人生はあまりにも私たちの手に負えず、私たちはその中であまりにも無力であるからだ。なぜ私たちは疑うのだろうか。それは怖いからだ。私たちに信仰があるときでさえもそうだ。そう、私たちには信仰がある。まったく信仰がないわけではなく、いくらかの信仰ならあるのだ。ペテロと同じように、私たちにもいくらかの信仰があり、それは全くないよりもずっと良いことだ。その信仰が、私たちを救うには十分ではないように思えることが、時にあるとしてもだ。
 ペテロのように、私たちは、信仰がありながら疑い、主イエスと共に歩こうとしながら失敗し、ほんのわずかだけ歩きながら沈むのだ。そして、「主よ、助けてください!」と叫ぶのだ。私たちが叫ぶと、主は助けてくださる。そのみ手を差し伸べて下さると同時に、叱責の言葉をもって助けてくださる。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。それを聞いて、私たちのほとんどは自分が落第者だと決めつけてしまう。けれども、私はこうも思うのだ。もし、この物語が別の方向に向かっていったら、どうなるのだろうか、と。
 もしも、ペテロが沈まなかったらどうなるのだろうか。もしも、ペテロが完全に信頼して、舟から飛び降り、波の向こうの主イエスに微笑みかけ、主のもとへ全く躊躇することなく滑るように行ったとしたなら、どうだったのだろう。それでは、まったく別の物語になってしまっていたことだろう。確かに素晴らしい話かもしれないが、それは私たちの物語ではない。私たちの真実の姿はもっと複雑なのではないか。私たちの真実の姿は、従い、そして恐れ、歩き、そして沈み、信じ、そして疑うのが真実なのではないか。本当に人間の心というものは複雑だ。どれが本当の自分か本人でもわからない。そのどちらか一方というのではなく、両方してしまうからだ。私たちの信仰と私たちの疑い、その二つは併存しないものではない。その二つは私たちの中に同時に存在して、私たちを支え、引き降ろし、私たちを勇気づけ、恐れさせ、人生の荒海を歩く私たちを下から支え、石のごとく沈める。どちらも本当の私なのだ。
 だから、私たちには主イエスが必要なのだ。だから、私たちは、主イエスがおられないのであれば、水の上になど決していたくないのだ。恐怖と疑いは、私たちを縮み込ませるが、それは同時に、主の救いのみ手を求める叫びを私たちに促してくれるものでもある。それならばどうして、恐怖や疑いは悪いものでしかない、と言えるか。もしも、私たちが決して沈まなかったなら――もしも水の上を自分の力でわけなく歩いていけたなら――救い主を求める必要はなかっただろう。私たちは、独立独歩で生きていけただろう。疑いは、私たちに恐れをもたらすものだが、いったい自分が誰なのか、自分はだれのものなのか、そして、私たちの人生において私たちが救い出されるために、いったい私たちはだれを必要としているのかを私たちに思い起こさせてくれる。ペテロのように、そして、私たちの誰もがそうであるように、私たちが沈んでいくとき、私たちの主はみ手を伸ばして私たちを捕まえ、まず恵みをもって、それから裁きをもって応えてくださる――「なぜ疑ったのか」――。しかし、それは決して拒絶ではない。主は私たちを舟に戻してくださる。主は、すっかりご存知なのだ。私たちがそもそも舟に乗っているのは、信じているからだということを。信じたいと願っているからだということを。そして、疑いに満ちた日々の中にあっても、主に従うつもりでいるからなのだ、ということを主はご存知なのだ。
 主は私たちを舟に戻してくださる。私たちの仲間たちが、襟首を捕まえて舟に引き上げてくれる。感謝にあふれると同時にへとへとになった私たちは、滑りやすいデッキの上に倒れ込む。たちまち風は止み、波は静まり、夜が明けようとする畏怖すべき静寂の中で、この舟に乗っている私たち皆が、ともに主イエスを礼拝し、言うのだ。「本当に、あなたは神の子です」。疑いのあるところに救いはある。疑うがゆえに救いは主から来る。

風は思いのままに吹く

2022-06-07 16:12:40 | 説教要旨
2022年6月5日 ペンテコステ礼拝宣教
「風は思いのままに吹く」 ヨハネによる福音書3章8節
「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。」
 このみ言葉、一度聞いたら忘れられない、本当に含蓄のある言葉。このみ言葉から、いろいろなことを考えさせられたり、思わされたりする。たとえば、世の中、何が起こるか分からないよ、ということを教えてくれる。私たちが将来をいろんなふうに考えて、こまごまと計画を立てていても、突然な何か事故が起こって駄目になってしまうことがよくある。また逆に、ダメだと思ってほとんど期待もしてなかったことが、何か助けが入って、とんとん拍子にうまくいくということもある。風は思いのままに吹くのである。予想もしなかったことが起こってくるのである。だから私たちは、あまり何もかも勝手に一人決めしないで、心の中のどこかで余裕をもって、もしかするとやって来るものを「待つ」という態度が大事だということ。もちろん、ただ待っていればいいというわけではない。何も努力しないで、ただ待ってばかりいるというのではつまらない。ただ待っているだけでは、いい結果は得られない。そういうのは、本当は「待つ」ということではなくて、ただボーッとしているだけ。しかし、いろいろと準備をしたり、努力をしたりしつつ、ほんの一呼吸待つという余裕が大事だということ。「人事を尽くして天命を待つ」ということわざに重なる。聖書的に言うならば、「人事を尽くして、あとは神にゆだねる」、「人事を尽くして、神に期待して待つ」ということになるだろう。そうするとずいぶん、気が楽になり、自由になれる。
 「風は思いのままに吹く」の「風」とは聖霊なる神のこと。だから、言葉を変えて言えば、神さまは自由だということ。誰も、神さまのなさることをあらかじめ決めてかかることはできない。私たちはもちろん、これからどうなるかを予想することはできる。私たちは何度も、繰り返しこれからの予定、計画を立てる。自分の人生設計もそうだ。30代になったらこう、40になったらこうするなどと計画を立てることはできる。しかし、予定通りにいかないということもある。いやむしろ、人生というものは、実際には予定通りにいかないことの方が多いのではないか。
 予定通りにいかないからといって、嘆くのではなくて、むしろ予定から外れっぱなしであるという、そのところに私たちの人生の面白みがあるんだ、つまりそのところで私たちは実は神さまに出会っているんだ、ということを知ってほしい。
 予想もつかない事態で驚いて腰を抜かす、驚きあきれる、心をかき乱される、悩んだり、情けなく思ったりするということがある。あるいは逆に嬉しくて、夢じゃないかと目をこすったり、ほっぺたをつねってみたりするということがある。その時に私たちは、神から吹いてくる風の音を聞いているのである。
 神は自由に私たちに語りかけ、私たちを救われる。だから私たちは、これからの人生でどんなつらいこと、悲しいことがあったとしても、そのことで絶望することはない。どんなに行き止まりの絶望的状況に思えても、この地上が真っ暗闇であるように思えても、私たちはなおも、将来に希望を持ち続けることができる。たとえ私たちの目には暗闇しか見えなくとも、私たちは自分の愚かな目を信じるのではなく、神さまの深い導きをこそ信じるからである。「風は思いのままに吹く」、そのことを私たちが本当に理解した時、そのつど新しくこの人生に向かって旅立つ勇気が湧いてくるのである。
 風は思いのままに吹く。私たちのあらゆる思いを超えて、はるかかなたへと、風は吹き過ぎてゆく。私たちの思いがけないところで、風は吹いて来て、私たちの小さな思いを吹き飛ばしてくれる。そのような神の自由、信仰の自由を味わったことがある者、それを信じることができる者は幸いである。