逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

ねたみの問題

2022-08-24 16:50:27 | 説教要旨
2022年8月21日 主日礼拝宣教
「ねたみの問題」マルコによる福音書15章9~10節
      ガラテヤの信徒への手紙5章19-26節
 主イエスはなぜ十字架につけられたのか。人間はなぜイエス・キリストを十字架につけたのか。従来から三つの理由が考えられている。第一には、主イエスは「瀆神者」、つまり神をけがす者と見なされたために十字架にかけられたという。当時の律法学者や律法を守ることに熱心なファリサイ派の人からすれば、神を「わが父」と呼び、あるいはご自身を権威ある者のごとく語られたことは許し難いことであ法を守らず、主イエスを神の子と信じない人々の目には、かえって逆に神守らず、主イエスを神の子と信じない人々の目には、かえって逆に神を冒涜する者だと見えたことだろう。
 そして第二には、主イエスは「反乱指導者」に仕立てられて十字架にかけられたのだと言われる。当時ユダヤを支配していたローマ帝国からすると、「神の国」の福音を宣べ伝えたり、民衆からは「ユダヤ人の王」と誤解されて期待されるようになった主イエスは、ローマ帝国に対する反乱者として危険人物に見えたことだろう。
  第三には、「神に見捨てられた者」として十字架にかけられたと言われている。十字架にかけられた主イエスは、道行く誰の目にも神から見捨てられた人に見えた。「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになるのですか」という十字架上の主イエスの叫びは、人々の目には神から見捨てられた人間の憐れな姿に映ったに違いない。見捨てられた人間だからこそ十字架にかけられたのだと思ったとしても不思議ではない。
 しかしそれら三つの理由ではまだ尽くされていないもう一つの理由が福音書には記されている。今日の聖書箇所の一つ、マルコ福音書15章10節に、ピラトは「祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」と書かれている。つまり、主イエスが十字架にかけられたのは、祭司長たちの「ねたみ」のためであって、主イエスは人々の「ねたみ」の犠牲になったというのである。
 さて、ここから「ねたみ」について考えてみたい。聖書は人間の罪として「ねたみ」に注意を向けている。創世記4章の「カインとアベルの物語」もその中心に「ねたみ」の問題がある。兄のカインは弟アベルに対して「ねたみ」の感情を抑えきれず、殺害してしまう。また、同じ創世記3章にあるアダムとエバが罪に落ちる物語も「神になんとか等しくあろうとした」という問題に注意してみれば、神に対する「ねたみ」の問題として解釈することもできるのではないか。「ねたみ」は人間の罪の核心部分にある問題だと言ってもいいだろう。そこからさまざまな悪が出て来る源とも解釈される。「殺人」も「むさぼり」もそこから出てくる。
 ガラテヤ書の今日の箇所の21節には、肉のわざとして「ねたみ」が挙げられている。そして26節には「ねたみあってはならない」と語られている。ねたみあっていたら、協力はできない。共に力を合わせて奉仕することはできない。反対にねたみのない人は、周囲の人間関係を自由な協力の空気で包むことができる。
  「ねたみ」は特に現代的な病でもあると思う。なぜなら現代は激しい競争社会になっているからである。競い合って生きる社会になっている。競争原理は一方では確かに社会を活性化させるだろう。私たちを絶えざる努力、不断の前進へと駆り立てる。そのようにして、社会を進歩に向かわせる。しかしその競争原理は他方で成功と失敗の両方を生み出し、勝ち組と負け組という分断を生み出す。その結果、「ねたむ心」を刺激する。こういう社会にあって、私たちはどう生きたらよいのだろうか。「ねたみ」から自由に解き放たれた人生を生きることができるのだろうか。
 聖書は「ねたみ」は罪であると言っている。罪であるならば、赦されなければならない。贖罪をくぐらなければならない。そのために聖書はキリストが私たちのために血を流し、犠牲になられたと伝えている。そしてそれによって私たちはキリストのものとされ、罪を赦されたというのである。キリストに結ばれ、キリストのものとされ、罪の縄目から解放されて自由にされた自分、その自分を生きる。それが深い意味で、自分本来の生き方ではないだろうか。聖書はそう理解し、そう告げている。またそう言ってよい証拠もある。それはその時、「喜び」があるからである。誰でも自分本来の生き方をすれば、喜びがあるはずだ。キリストによって赦され生かされている自分を生きる。その正しさは、その時湧き起こる確かな喜びによって証明される。また、キリストによって赦され生かされた自分を生きる時、「他者と共に生きる愛」も生まれる。他者がいなくなる、他者を殺すような意味で自分がいるのではない。本当の自分がいるならば、その時他者もまたいるはずではないか。キリストによって赦され生かされた自分を生きる時、私たちは他者を愛することを知る。「生きる喜び」と「他者への愛」が湧いてくる。これが、キリストによって赦され生かされた自分の本当の姿であり、そのように生きるよう導かれるのである。 

キリスト者の倫理は愛と自由

2022-08-17 17:46:05 | 説教要旨
2022年8月14日 主日礼拝宣教
「キリスト者の倫理は愛と自由」ローマの信徒への手紙13章8-10節
 キリスト者の倫理は、愛と自由であるといわれる。愛とは他者に対するあり方であり、自由とは自分自身へのあり方であるといえるだろう。パウロは8節で「人を愛する者は、律法を全うしているのです」と言い、さらに10節で「愛は律法を全うするものです」と言い切り、他者を愛することがどれほど大きい意味を持つかを強調した。もともと律法は、他者との関係にいくつかの「~するな」との戒めを持っている。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」(13:9)などをパウロはここで取り上げている。それらの「~するな」に対して、愛は「~しなさい」と結ぶ、肯定的な前向きの戒めである。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を肯定的に前向きに捉え直せば、「隣人を愛しなさい」と一つになる。その意味を捉えて、パウロは、「愛は律法を全うする」と言っているのである。
 しかし、「愛する」ことは義務ではない。「だれに対しても借りがあってはなりません」とはその意味である。「愛する」とは、結果として温かい他者との関係をつくり上げる。もし義務で他者を愛するなら、冷たい人間関係が残るだけ。信頼関係は生まれない。愛は信頼を生み出す。私たちはそのような愛し合う関係、信頼関係の中で安心して生きることができるのである。
 さて、もう一つの「自由」についてだが、聖書のいう自由は言いたい放題、やりたい放題の自由でないことは言うまでもない。聖書のいう自由とは、根本的な意味では、人間の罪と死と滅亡から解放される自由なのである。パウロは「被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている」(ローマ8:21)と言っている。神を無視して、自分本位に生きていると、かえってモノや地位に縛られていく。自由の不自由と言えるだろう。この罪のために自分で自分の首を絞めて自滅するといっていいだろう。
 この自分の罪を悔い改めて、自分の罪の身代わりにイエス・キリストが裁きを受けて死なれたのだと心から信じ切る時に、その罪責から解放される。元の自分と別れを告げ、神の子としての生涯が始まる。罪人が神の子につくり変えられるのである。罪の奴隷から神の子の自由に移し換えられるのである。神の子ならば神は父である。今や神は私たちの味方なのだ。パウロは「神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」(ローマ8:31)と言い、さらに「誰がわたしたちを罪に定めるのか」(ローマ8:34)と断言している。どんな敵からも自由である。神が必ずその敵に勝つからである。世間のどんな非難からも自由である。キリストは必ず、その非難をただすからである。このような自由は、「キリストの愛」が私たちから離れないとの確信にもとづく。十字架のキリストの愛を信ずる限り「患難・苦悩・迫害・飢え・裸・危難・剣」(ローマ8:35)に勝てる。神が勝利してくださるから。
 では、信仰によって罪と死と滅びから解放された自由人は、それで満足してしまってよいのか。パウロは、「兄弟たちよ、あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである」と言いながら、さらに「ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)と勧めている。キリスト者の自由は、愛するがゆえにわがままを捨てる自由である。したくなくてもする自由である。マルチン・ルターは「すべての人に対し自由な王であるが、愛するゆえにすべての人に対して奴隷のように仕える」と言っている。キリスト者の自由は不自由の自由と言えるだろう。キリスト者の自由は互いに愛し合うことへと向かう。

自立と協力

2022-08-08 11:41:11 | コラム
 「自立する」と「独立する」と「孤立する」の表現の違いは何だろうか。「自立」は、自分から進んで、自分の活力でやること。「独立する」は、他に服従しないで自由になること。「孤立する」は、相手を求めても得られないで、まわりから切り離されて一人だけポツンといること。 
 日本バプテスト連盟は「全日本にキリストの光を」の標語を掲げ、その使命のために加盟諸教会が「自立と協力」の理念のもとに福音宣教の業に励む教派である。私たちの教会は「自立」しているだろうか。経済的自立は、組織的自立は、そして何よりも信仰的自立はどうだろうか。何かに依存していないか。自ら進んでという主体性は発揮されているだろうか。
 では「協力」は?連盟・連合内の教会との協力は、地域の教派を超えた教会との協力は、地域の諸団体との協力はできているだろうか。孤立してないだろうか。教会形成を考える上で大切な視点である。   

映画は映画館で

2022-08-08 11:37:03 | コラム
 昔の名作映画がデジタル修復されて、全国の映画館で上映される「午前十時の映画祭」という企画がある。6年前にこの企画を知って以来、もう映画館で見られることはないだろうとあきらめていた名作を何本も楽しんだ。
 もちろんビデオやCD、またはテレビで昔の名作を見ることはできるが、私は、映画はわざわざ映画館に出かけてお金を払って暗いところでスクリーンで見るものだというこだわりを持つ、ちょっと変わった映画ファンなのである。ある海外の映画監督の言葉。「人はみな社会で役を演じている。映画館の暗闇は、役を捨てて匿名で好きな世界に身を隠せる自由な空間なんだ」。
 今年もオードリー・ヘブバーンの「いつも2人で」、ジェームス・ディーンの「エデンの東」を楽しんだ。もちろん過去にビデオで見ているが映画館で見るのが楽しいのである。いつまで映画館に通えるだろうか、それが問題だ。 

問われるほどに愛されて

2022-08-08 11:26:59 | 説教要旨
2022年8月7日 主日礼拝宣教
「問われるほどに愛されて」フィリピの信徒への手紙1章4~11節       
  人生の中で、人々から無視されたり、関心を持たれないことほど、つらく悲しいことはない。だれかに怒られてがっかりして落ち込んでいる人に「怒られているうちがハナだ」と言って、慰め励ますことがある。家庭において、親子や夫婦の間でも、今日はどんなことがあったのと問い合い、互いに関心を持ち合うことによって、自分は愛されているのだという喜びを持つことができる。ある哲学者の言葉に「愛とはたえざる問いのことだ。人生で、誰も、何も聞いてくれない苦痛」というのがある。
 フィリピの信徒たちはパウロから、手紙を受け取った。だれにとっても手紙をもらうということは、嬉しいもの。手紙というのは、私はあなたを覚えていますよ、あなたに深い関心を持っていますということの証明でもある。しかもパウロはこの手紙の中で、フィリピの教会の一同に対して、いかに心にかけているかということを繰り返し強調している。7節では「あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている」と述べている。 
 このような愛の心から、祈りが生まれる。まず9節以下で「あなたがたの愛がますます豊かになり……」とある。ここでの愛は、彼らの人間的な愛ではなく、神からの恵みとしていただいている愛である。神の愛(ギリシア語で「アガペー」)は、人間が生まれながらに持っているものでも、努力すれば身についてくるものでもない。ただ上から垂直的に、神からの恵みとして与えられるもの。私たちが通常、愛と言っているものは(ギリシア語で「エロース」「フィリオ」)、美しいものや価値あるもの、大きく強いものに心が引き付けられていくことである。これに対して神の愛は、価値なきものを愛し、無なるものの中に価値を生み出す創造の愛なのだ。イギリスの小説家、『ナルニア国物語』で有名なC・S・ルイスの『四つの愛』の中に、次のような意味のことが書かれている。「愛というものにはいろいろの愛がある。愛情、友情、恋愛など人間の愛は美しいものであるが、バラの花のようにトゲがある。愛の美しさの中に落とし穴があり、滅びに至る危険がある。エゴイスティックな醜いものがある。だからそのような愛が、聖なる愛、神のアガペーの愛によって支えられ、清められ、変えられていく時に、輝く愛になるのだ」と。
 マザー・テレサがある町で、生きているかもわからないような、誰からも知られていない一人のお年寄りを訪ねた時、部屋はひどい状態で、ほこりまみれになっているランプがあった。「なぜランプをつけないのか」と尋ねると、「だれのために。誰も来やしません」と言ったという。それでマザー・テレサはそれでは「シスターたちがあなたに会いに来たら、ランプをつけてくださいますか」と聞くと、「いいとも」と答えたというのだ。やがてテレサに伝言があった。「あなたが私の生活にともしてくれた光は今も燃えている」と。
 私たちの人生も、誰からも顧みられないほどに小さく、やがて忘れられていくものに過ぎない。ぱっと消えていく泡沫のようでもある。しかし10節で「キリストの日に備えて……」と語られている。人生にも総決算の時があって、最後の日、究極の日に、私たちの愛が神から問われるというのだ。
 最初の人、アダムとエバに対して、主なる神は「あなたはどこにいるのか」と問いかけられた(創世記3:9)。神は絶えず問いかけられるのだ。私たちはいかに生きているのか、生きてきたのか、神は大問題にされるというのだ。人間はたえざる神の問いの前に、立たされている。今も声なき声で問い続けておられる。
 しかしこのような問いの背後には、人間に対する神の燃えるような愛がある。問われるほどに、愛されているのである。神は私たち一人ひとりに、深い関心をもっておられるのだ。なにがあったの、どうしたの?問われるのである。
 長い歴史や大きな社会から見れば、私たちは無に等しい存在かもしれない。実際、人から無視されることもあるだろう。しかし神だけは心にかけてくださるのだ。そして愛においてどれだけ豊かであるか、と問われるのである。たとえ小さな生涯であっても、心のランプに神の愛の大きな光をともし、ますます輝かせるように求めておられるのである。この神の問い、神の愛に応えていこう。