逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

執り成しの祈り

2021-07-27 10:51:20 | 説教要旨
2021年7月25日 主日礼拝宣教
「執り成しの祈り」 詩編106編19-23節
 詩編106編は、古代イスラエルがバビロン帝国によって滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれた、いわゆるバビロン捕囚が時代背景にあると言われている。だから、ここにはなぜ自分たちの国が滅んで、遠くのバビロンに捕囚として連れて行かれたかという深い反省がある。それでこれでもかというぐらいに、イスラエルの罪と反逆が挙げられている。
 例えば6節に「わたしたちは先祖と同じく罪を犯し/不正を行い、主に逆らった。」とあるが、詩編の作者は、先祖の罪は、今の自分たちの罪でもあるとの思いがあるのだと思う。誠に鋭い罪の感覚と言える。
 ところで、106編の最初の1節と最後の48節を見ると、そこには「ハレルヤ」が出てくる。この詩編は「ハレルヤ」で始まり、「ハレルヤ」で終わっている。ハレルヤがサンドイッチのように、始めと終わりにある。最初の節と最後の節の「ハレルヤ」が詩編全体を「囲い込む」形を取っている。ハレルヤとは「主を賛美せよ」だ。これでもかと罪を列挙して、「主を賛美せよ」、ハレルヤとは。どういうことだろうか。それは、一言で言って、イスラエルのそのような罪にもかかわらず、神がその民を見捨てていないということにあると思う。ハレルヤの根拠は神の側にあったのだ。
 この詩編において、繰り返し出てくる言葉は、人間側の「忘れた」という言葉だ。13節、21節、22節に繰り返し出てくる。人間の側の「忘れた」と対峙している言葉は、神の「思い起こす」だ。45節に出てくる。
 実は、神とイスラエルの民とは契約関係にあるが、その契約は片務契約というものだ。神の方からの一方的な契約だ。私たち人間同士の契約は、双務契約と言う。例えば、お金を借りたい、では貸しましょう。そして互いに貸す金額と返済方法を取り決めて、互いにハンコを押す。貸すといったのに貸さないとか、返すと言ったのに返さないとかになると、契約違反で罰せられる。ところが、神と私たち人間の契約は片務契約、神の方からの一方的な契約だから、先ほどの貸す借りるで言うと、神が一方的に貸してくれる。これを恩寵と言ってもいいだろう。そして私たちが返さなくても、それで関係を終わりにしない。神はそれを痛みとして、自分のこととして抱え込み、忍耐し、そして赦し、関わり続けるというものだ。 神は、人の罪多い人生に関わり、裁きつつ、赦し、痛みを持ちつつも、私たちの人生を罪あるままに抱え込んでくださるのである。神の痛みの歴史である。苦しむ民、悲しむ民、罪多き民と共におられる神なのである。これは、ハレルヤでなくて何だろうか。
 詩編106編は、ハレルヤで始まり、イスラエルの神に対する罪の歴史をハレルヤと括る、なぜだろうか。もう一つの理由を見てみたいと思う。
 「神の民」の罪の歴史の中に全く希望がないわけではない。詩編106編の希望は、群れの破れを担う者がいるということだ。23節に「主は彼らを滅ぼすと言われたが/主に選ばれた人モーセは/破れを担って御前に立ち/彼らを滅ぼそうとする主の怒りをなだめた。」とある。破れを担って神の前に立ったモーセとは何者だろうか。彼は神の民の指導者である。しかし、王ではない。祭司でもない。預言者と言われることもあるが、純粋に預言者でもない。彼は神の民の指導者であり、執り成しの祈りを通して群れの破れを担う者だ。ご存知のように、彼は約束の地を前にして、約束の地そのものには入ることができなかった。彼自身が破れを持つ者だった。神の民の指導者とは自らに破れを持ちつつ、なおも、祈りをもって民の破れを担う者のことである。
 自らに破れを持ちつつ、群れの破れを担う人がいる、それは、神の民の歴史がハレルヤで閉じられるように執り成しの祈りをもって、神の民に仕える人がいるということである。教会の様々な問題も人間関係も全て神との関係、いかに神を愛するか、それと表裏一体の、いかに人を愛するかということにすべて収斂して行く。群れの人々のために祈る。一人ひとりを覚えて祈り続ける。神がそのような者を神の民の群れに与えて下さっているのである。これはハレルヤでなくて何だろうか。
 そのように私たちは祈ることが許されている。いや、積極的に言うならば、祈ることができる特権が与えられている。特権には責任が伴う。だから絶えず祈りなさいと勧められている。モーセに限らず私たちも破れを持つ者。しかし、祈ることが許されている。祈る特権が、祈る恵みが与えられている。そして、教会のために、教会につながる一人ひとりのために、名前を挙げて祈る。さらに日本の平和、世界の平和のためにも祈る。神の栄光が表されるようにと、神が賛美されるようにと祈る。このように祈ることができるのは、神の一方的な恩寵である。神は、人の罪多い人生に関わり、裁きつつ、赦し、痛みを持ちつつも、私たちの人生を罪あるままに抱え込んでくださる。神の痛みと忍耐の上にある恵みである。これからも、祈りの奉仕に励もう。

地の塩、世の光

2021-07-19 12:06:51 | 説教要旨
2021年7月18日 主日礼拝宣教
「地の塩、世の光」 マタイによる福音書5章13-16節
 今日の聖書箇所は山上の説教と言われている場面で、主イエスは、13節で「あなたがたは地の塩である」と言われ、14節で「あなたがたは世の光である」と言われる。主イエスが「あなたがたは」と複数形で呼びかけている相手は誰だろうか。5章1節に「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た」とあるから、直接的には弟子たちにと思われるが、その周りには大勢の群衆がいるから、群衆を含めて話されたと考えていいだろう。その群衆はその前の4章25節に「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」とあるから、弟子たちはもちろんのこと、群衆たちも主イエスに従う者たちとして、主イエスの言葉に耳を傾けたことだろう。同じように、今朝、聖書のみ言葉を聞こうと礼拝に集まってきた私たちにも、この主イエスの言葉は語られている。
 さて、主イエスはその弟子たちや群衆に向かって、「あなたがたは地の塩である、世の光である」と比喩的に語っている。あなたがたは地の塩として、世の光として存在しているのだ。いや、存在するだけではなく、地の塩として、世の光としての働きがあり、それを果たしなさいと勧めている。そして地の塩、世の光としての存在とはどういうことか、またその働きとは何かと具体的に教えておられる。
 そこで、今日は少し違った視点でこの個所を読んでみたいと思う。よくキリスト教は実践的な宗教だと言われる。だから、心の中で信仰を持っているだけではキリスト者とは言えない。信仰を直ちに行動に移すことが求められる。信仰即行為なのだ。もっともキリスト者は、世の中の他の人々とは少し異なる行動原理、すなわちイエス・キリストに従うという基準で動く。その結果、社会と摩擦を起こす場合もある。そうなると、キリスト者の中には、このような摩擦を恐れて身内だけで固まってしまう傾向がある。しかし、それは間違いだと主イエスは強調する。地の塩のたとえを見てみよう。
 塩が役に立つのは、周囲の食べ物に味をつけるからで、塩だけが固まっていては意味がない。塩は異質な存在であるから意味があるように、自分たちも世の中の基準から少しずれ、変わっているところに意味がある。塩は、自らのために存在するのではなく、他者に働きかけることで初めて意味を持つ。このようにキリスト者も、信者同士で固まっているのではなく、広く外の世界に働きかけることが重要であり、引きこもりになるなと戒めているのだ。集中と拡散が大事。礼拝においてキリストに集中し、そして出て行ってキリストを証しする、その循環が大事。
 また、キリスト教はよくヒューマニズムであると誤解される。ヒューマニズムは訳すと「人道主義」。「人道主義」を広辞苑で調べると、「人間愛を根本に置き、人類全体の福祉の実現を目指す立場。その手段としても非人間的なもの(例えば残虐行為)を排斥する。博愛主義とほぼ同義」と書いてある。キリスト教倫理と重なる部分はあるが、同じではない。
 今日の聖書箇所の後半、14節以下のいわゆる「世の光」と言われている御言葉が私たちに何を求めているか。主イエスは、私たち、神に造られた人間が、どれほど輝く存在となり得るかを証しすることを求めておられる。しかし、それは、人間存在がどれほど深い闇にあったか、罪びとであるかを知ることと重なる。手放しの人間肯定、理想主義的な人間賛歌とは異なる。罪びとである私たちが、主によって罪赦され、立派な行いに生きるとき、それを見る者は、人間賛歌ではなく、私たちの天の父、全能の神を崇めるようになる。そして、神を崇め、礼拝することこそ、信仰の基本であることを教えている。
 16節にあるように、信仰者が塩、光の働きをするのは、自分自身のためではない。それは自分を取り巻く人々のためであり、何よりも人々が「天の父をあがめるようになるため」である。塩や光が役に立つのは、それが周囲に浸透したり、輝かせるからであって、固まってたり、隠されたりしていては役に立たない。また塩も光もその周囲とは異質な存在であるからこそ、意味を持つのであり、さらに、そのどちらもわずかであっても周囲の状況を変えることに注意したい。
 私たちキリスト者に求められるのは、常に他者性である。他者のために生きる。他者を愛するためには、まず自分こそ愛さなければならない。他者のために生きるには、まず自分自身の人生をしっかり生きなければならない。自分を大事にすると言っていいだろう。自己愛ではない。他者のために自分をしっかり生きるということ。主なる神から与えられた命を精いっぱい生きるということである。神から与えられた恵みに感謝して、その恵みを用いて、精一杯生きるということである。神に感謝して、喜びをもって生きていこう。

キリストと出会う聖書

2021-07-13 09:39:42 | 説教要旨
2021年7月11日 主日礼拝宣教
「キリストと出会う聖書」 マルコによる福音書1章1-15節
 マルコ福音書1章1節~15節は、マルコ福音書全体の序文にあたる。ここには「福音」という言葉が繰り返し出てくる。「福音」という言葉はもう十分に日本語として通用するようになった。辞書を引くと最初に、「心配事や悩みを解決するような、うれしい知らせ」とある。二番目には、「キリスト教で、キリストによって、救いようもない深い罪を持つ人間が救われるのだ、という知らせ」とある。簡潔によく書かれている。
 さて、1節には「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあり、15節には「福音を信じなさい」と「福音」という言葉が繰り返し書かれている。福音書は、まさにその「福音」を伝えようとしている。福音書はイエスの伝記というよりは、むしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だということができるだろう。
 では、「福音」という言葉にはさまれた2節~13節には何が書かれているのだろうか。2節には、旧約聖書の預言書であるイザヤ書に証しされている者として、洗礼者ヨハネが登場する。このヨハネは4節にあるように、人々に主の道を備えるようにと悔い改めのバプテスマを宣べ伝える。7~8節を見ると、ヨハネは救い主ではなく、自分よりも優れた方を指し示す者として登場している。
 9節からは、主語がヨハネから主イエスに代わる。バプテスマを受けられた主イエスに向かって天からの声が与えられる。「あなたはわたしの愛する子」。荒れ野で叫ぶヨハネの声と、天からの神の声という二つの証言によって、主イエスの1節に書いてある「神の子」であることが確かめられる。
 荒れ野の試みを経て、ヨハネの時の終わりとともに、主イエスの時が始まる(14節)。その主イエスの時の始まりは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というもの。こうして、この段落全体が、主イエス・キリストによる福音の始まりを告げている。
 さて、さきほど福音書はイエスの伝記というよりはむしろ私たちへのイエス・キリストという良い知らせの手紙だと言った。福音書には一つには、イエスが話した言葉が書かれている。二つ目は、ただ単にイエスが語った言葉だけにとどまらず、イエスという人物の行いと言葉のすべて、いうならばイエス自身のすべて、生きざますべてが書かれている。
 例えば、ある人があなたに「私はあなたが大好きです」と言ったとする。そうするとその言葉はあなたにとっての福音。うれしくなるので、良い知らせであるに違いない。でも、それ以上にそのように語りかけてくれるその人の存在こそがあなたにとって福音、良い知らせではないだろうか。嫌いな人から、同じ「私はあなたが大好きです」と言われても、あまりうれしくはない。それは福音、良い知らせにはならない。怒られる時も同じ。信頼している人から「何やってんだ」と言われても腹は立たない。むしろ、「ほんとだ、私、何やってんだろう」と反省し、気を取り直してしっかりやろうと思うだろう。しかし、信頼できない人から言われると、「あんたには言われたくない」でおしまい。本当に信頼というのは大切だし、信頼をつくり出すには言葉だけではなく、その人の生きざまそのものが大きくかかわってくることが分かる。そういう観点から、この福音書を読んでみてほしい。イエスの言葉となされたこと、イエスの生涯、生きざまを見てほしい、読み取ってほしい。イエスとはどういう人であったか、人となりをしっかりと読み取ってほしい。そしてその主イエスと出会っていただきたい。
 イエスと出会うとどうなるのか。それまでの自分が打ち壊されて、やって来た新しいものにとらえられてしまうだろう。ここに方向転換が起こる。それが改心、悔い改め。主イエスの第一声に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」とあるが、そこには、イエスの言葉と同時にイエス自身の存在がある。そのイエスという人物がどういうものであるかをこの福音書の冒頭1節に「神の子イエス・キリストの……」と告白されている。「神の子」で「人の子」イエス、そして「キリスト(救い主)」とあるから、救い主であるといっているわけである。マルコはそのことをこの福音書全体で書き記そうとしたのである。
 福音書を読むということは、そのイエス・キリストに出会うことである。福音書を通してイエス・キリストの言葉に出会うこと。福音書を通してイエス・キリストという人物と出会うこと。読んでいくとあなたにとってどうしても引っかかる言葉と出会うだろう。そしてその言葉を発するイエスという人物が気にかかる、不思議に思えたりもする。簡単に理解できないかもしれない。胸にグサッと突き刺さることもあるだろう。いろいろな反応があると思う。そのようにイエス・キリストという存在は私たちを巻き込んでいく。神の国、それは神の支配のことだが、「時は満ち、神の国は近づいた」とあるように、イエス・キリストの到来と共に始まった神の国は、近づきつつあるもの、私たちに迫ってくるのである。私たちを巻き込んでいくのである。その迫りの中で、必ず決断が起こされる。その決断が悔い改めへと導いてくれるのである。方向転換へと導いてくれるのである。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。このように宣言される主イエスは今日も私たちと共にあって、神の国へと導いて下さっている。聖書を読むとはそういうこと。

煩悩と罪

2021-07-06 11:36:27 | コラム
 仏教の教えには「六大煩悩」という、人間を堕落させてしまう教えがある。貪りの心、怒りの心、愚かな心、疑いの心、仏教に反する心、そして慢心である。慢心は最後にあるだけあって、克服するのが最も難しいと言われている。この慢心、自分では気づきにくいものだと仏教では言われている。修行僧たちでさえ、これで最後に足をすくわれるとか。
 聖書では罪のリスト、といわれているローマ1:29-31が有名。不義、悪、貪り、悪意、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念、陰口、そしり、神を憎む、侮り、高慢、大言、悪事、親に逆らう、無知、不誠実、無情、無慈悲。これだけ並べられたら、返す言葉がない。
 仏教にしろキリスト教にしろ、私たち人間は弱い存在だということを認めている。この自覚が大事。忘れないでいよう。

奉仕ってなーに?

2021-07-06 11:32:10 | 説教要旨
2021年7月4日 主日礼拝宣教
「奉仕ってなーに?」マルコによる福音書10章35-45節
キリスト教会では、よく「奉仕」という言葉を使う。では教会で言う「奉仕」はボランティアとは違うのだろうか?奉仕は英語ではサービスと言うので、どうも違うようだ。ボランティアは志願者、自分から積極的に行なう有志的な働きの面が強くある。一方、サービスはさせていただくという面が強いのではないか。確かに奉仕は「仕える」という字が入っている。商売で「出血サービス」という言葉があるが、この言葉、意味深だ。血を流してまでサービスをするというのだから、まさにイエス・キリストの十字架と同じではないか。まさかそんなことまで考えて、出血サービスという言葉を使っている訳ではないだろうが、少なくとも、身を削ってというか、犠牲を払っても、もうけが少なくても売りますよという意気込みなのだろう。私たちもつい、その意気に感じて買ったりする。身に覚えがある。
 ところで、奉仕とは「被奉仕の奉仕」だと言う人もいる。それは今日の
聖書箇所で、主イエスが「仕えられるためではなく仕えるために」来た(マルコ福音書10章45節)と言われて、実際、私たちのために命をかけて仕えきって下さった、だから私も仕える。受けて、与えるというわけだ。確かに、感謝してまず恵みを素直に受け取り、そして率直に分かち合っていくという面がないと行き詰ってしまう。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」とも主イエスは言われた(マタイ福音書10章8節)。受けて与える、この思いがないと奉仕はなかなか続かない。自己努力、自己犠牲だけでは限界がある。それに比べると、まず主イエスから恵みを受けるわけだから、分け与えて無くなれば、また主イエスから恵みを受けていく。それを分け与えていく、その循環だ。これが主が私という器を用いて、愛の業をなさっているということ。あくまで、主の働きなのだ。
 では、奉仕する力はどこから受けるのだろうか?それは何をおいても礼拝からだろう。礼拝で私たちのために仕えきって下さった主イエスと出会い、そこから奉仕へと派遣されていくのだ。そう言えば礼拝のこともサービスという。サービスからサービスへ、礼拝から奉仕ということ。そして奉仕する時にこそ、私たちに仕えて下さった主と出会うことになる。
 最後にもう一つ奉仕について考えてみたい。それは、奉仕はあるものを捧げていけばよいのか?ということ。それは一面しか語っていない。ないものを捧げる心も大切。捧げるために○○をお与え下さいと真剣に祈ることもある。あるものを捧げるだけだと、余ったものを捧げることになりかねないので気をつけたい。「主がお入り用なのです」(ルカ福音書19章31節)という言葉がある。主が求めて用いて下さるから奉仕になる。自分がしたいからではない。自分が持っているから、自分ができるからでもない。「主がお入り用」だからである。あくまで、私たちは主のために仕える僕。それが他者に奉仕することに繋がる。