逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

神の愛の業に生きる

2019-08-26 16:45:14 | 説教要旨

2019年8月25日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「神の愛の業に生きる」 ヨハネによる福音書9章1~12節

 「生まれつき目の見えない人」は主イエスの言葉に素直に従って、治療を受ける。そして、この男は自分の身に起こったことは否定できないから、その事実をそのまま受け入れている。しかし、この男は12節にあるように近所の人々が「その人はどこにいるのか」と質問をすると「知りません」と答えるのである。この男は自分を癒してくれた、その恩人に対して「知りません」というのである。これが癒してくれた人に対する態度だろうか。この男は自分の救いに有頂天になっていて、彼を癒してくれた人の方へは視点がいってない。さらに、主イエスに興味・関心がないばかりか、この男は多分この自分を癒してくれたイエスという人物がどんな人であるのか理解できていないようである。しかし、あとになって(38節)、この男は「主よ、信じます」といってひざまずいて主を礼拝するが、この時点では分かっていない。
 
このことは次のことを意味しているのではないか。それは、この男が主イエスを信じたから癒されたのではないということ。自分の罪を悔い改めて、主イエスを主と信じたから癒されたということではないということ。逆の言い方をすると、この男は癒されたから、主イエスを信じるようになったというのでもない。信じたら癒される、癒されたら信じる。こういう信仰を御利益信仰というが、少なくとも、この男はそのような御利益信仰は持ち合わせていなかった。幸いなことに御利益信仰は持ち合わせていなかったけれども、主イエスが何者であるか分からなかった。いや、癒されたことに関心がいって、癒してくれた主イエスのほうに関心がいってない。自分のことでいっぱい、自己中心。
 
では、この出来事、癒しの業は何を意味しているのか。それは、主イエスの無償の愛の業が一方的に起こるということだ。私たち人間の側の努力、善い行い、反省、悔い改め、徳を積むといったこととはまったく関係なしに、また罪を起こしたからとか身体的に弱いからとか、とにかくまったく関係なしに、無条件にそのことは起こるのである。
 
そのことを主イエスは3節で宣言されている。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」。これは驚くべき宣言である。弟子たちが律法を前提としたような因果応報の考えを否定する。そして新しい教えを示される。ここで問われていることは原因ではなくて目的である。目的へと向かう神の意志である。この意志が表された行為が愛の業であり、赦しであり、共に重荷を負ってくださる神の働きである。このような業のしるしとして癒しがあるのである。そして、そのことは、すでに神の起こされる一方的な出来事の内に私たちはいる、入れられているということを意味しないか。この男と同じように。
 
しかし、残念ながら私たち罪ある人間にはそのことがよく見えない、受け入れがたい、理解しがたいということをも言い表しているのではないか。この癒された男と同じように。この後、出てくるファリサイ派に人々と同じように。このことに気づかされたのは次の4節を読んだ時である。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」。「私たちは」とある。「わたしたち」?これでは前後の文脈からいって、すーと入ってこない。これは主イエスの言葉ではないか。だから、主イエスが「わたしは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る」と言ってもらわないと困るし、次の5節「わたしは、世にいる間、世の光である」ともつながらないではないかと考えたのである。でも「私たちは」である。
 
これをどう考えたらよいのだろうか。私は、これは招きの言葉ではないかと解釈した。弟子たちや近所の人たちのように、他人事のようにして失礼な質問をし、理解できないことは疑い、疑うばかりか排除してしまう私を主イエスは「私を遣わして下さった神様のわざの中に、あなたも加わったらいいではないか。」と招いて下さっている。あなたはこの弟子たちや近所の人々や癒された男を非難めいて言っているけれど、因果関係が何だ、御利益信仰が何だ。問題はそういうことではないだろう。この男に神のわざが起こり、ともに喜びの輪の中に入ったらいいではないか。そのわざのためにともに働こうではないか。そう呼びかけられているのではないかと解釈したのである。
 
そして、その時その招きに応じようとしない自分を見たのである。私はまだ闇の中にいることを知らされたのである。闇の中にいるから、見えない。いや、見えると思っているが、光の中にいないから見えないのである。しかし、主イエスは「私は世の光である」と言われる。世の光である主イエスの呼びかけに応ずるとき、初めて私たちは見えてくるのではないだろうか。私たちがいまだ闇の中にいるのに、目が見えていないのに、すでに主イエスは私たちを呼びだして下さっている。
 
闇から光の中へ立たして下さるということ、見えない者から見える者へと変えて下さるということが、あの男のいやしのわざだったのだ。「神の業が現れるため」だったのだ。私たちはこの主イエスの愛の業に生きるようにとの招きに答えつつ歩む者になりたいと願う者である。

すでにといまだの緊張感

2019-08-20 11:33:25 | 説教要旨

2019年8月18日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「すでにといまだの緊張感」フィリピの信徒への手紙3章7~12節

 今日の聖書箇所を「既にといまだ」という観点からみてみたいと思う。
 
 パウロはこの3章7-8節で、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」と書いている。これは「既に」である。「いまだ」ではない。
 
 次に、8節の終わりから9節にかけて、「キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」とあるが、「認められるため」とあるから、「いまだ」である。このように、パウロは既に得たのではない、いまだ私は途上にある存在なのだということを語っている。しかし、さらに次を読んでいくと、同じ9節に「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」と語っている。これは「既に」である。つまり、私たちは信仰によって義とされているという「既に」ということを「いまだ」ということとの緊張の中で、パウロは語るわけである。
 
 さらに次を見ていくと、10-11節に「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」とある。これは「いまだ」である。

 次の12節はどうか。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」と書いている。ここでは、「既にといまだ」の二つのことが語られている。「既に」にあたるところは後半の部分「自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです」というところ。私たちが自分で捉えていくようであるけれども、実際には神によって既に捉えられているというその事実、神の業、神の救いのみ業がまずあるのである。すなわち、パウロにとっては、それはダマスコ途上での、過去のある時点での一回的な出来事であったわけである。一方、「何とかして捕らえようと努めているのです」と言っている。ここは「いまだ」である。この言葉は、明らかに来るべき時を目指す意味を持っている。終末待望の姿勢である。「いまだ」である。
 
 さて今、7節から見てきたように、パウロはここでキリストの死と復活による救いの出来事が「既に」開始された「救済の時」と、キリストの再臨によって来るべき「いまだ」の「完成の時」と、この二つの時の間に今の自分は生きているのだとここで明らかにしている。
 
 このようにパウロも言っているように「救済の時」、言い換えて「救いの業」は既に始まっているのである。神の赦し、神の愛は既に現実のものとして、私たちのもとにある。しかし、一方で現実的にある、その既にそうであるものに私たちがなっていくという、そのようなプロセスがある。それこそが私たちキリスト者の歩んでいくプロセスではないかと思う。
 
 信仰生活はその二つの間の緊張の中にあるものではないか。神の赦し、神の愛は既に現実のものとして、私たちのもとにある。だから手応えがあるし、「そうか、分かった」となるわけである。これを一言で言うと「救われた」であろう。一方、現実的にある、その既にそうであるものに私たちがなっていく途上の生、プロセスはいまだである。だから、分からないところも多くある。「救われた者になっていく」途上。だから、この「すでにといまだの間」の深い緊張の上に立って、私たちの信仰生活がなされていくことはけっして矛盾でもなければ、混乱でもない。むしろ、この緊張関係こそキリスト信仰の持っている本質ではないパルロか。
 
 だからこそ、私たちの信仰生活も、このすでにといまだの間の深い緊張をおさえないととんでもないことになる性質を持っていると思う。なぜなら、既にとらえたと思っていると私たちは傲慢になっていく。また、いまだ、いまだということであると、深い懐疑(疑い、不信仰)に陥ってしまう。すでにといって傲慢になるか確信を持つか、いまだといって懐疑的になるか謙遜になるか。パウロの場合は、謙遜と確信の姿勢で神の国を待ち望む、待望の信仰に励むことを宣言している。
 
 パウロだけではない。私たちにも「既に」という確固たる約束が与えられている。いや、現実的に与えられている。だから、確信があり、喜びがあり、感謝があり平安があるある。しかし、同時にそれは「いまだ」とらえきってはいないという謙遜の姿勢でひたすら神の国を待ち望む、待望の信仰が一方であるわけである。
 
 だから、私たちは、この神の赦し、神の愛は既に現実のものとして、私たちのもとにある、与えられているという確信を持ちつつ、謙遜な姿勢で神の国を待ち望む者でありたいと切に願うものである。

神に向かう沈黙

2019-08-13 10:21:24 | 説教要旨

2019年8月11日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治
「神に向かう沈黙」 詩篇62篇2-13節 

 詩篇62篇は「個人の信頼の歌」として類別される。「神への信頼」がこの詩の主題である。その「神への信頼」とはどのようなものか。
 
 この詩人は「私の魂は沈黙して、ただ神に向かう」と言っている。そして、「神に私の救いはある」、6節では「神にのみ、私は希望をおいている」と言って、希望と救いの確信を告白している。それ故に「神こそ、私の岩、私の救い、砦の塔」であり、「私は決して動揺しない」と神を讃美している。
 
 では、なぜこのようにこの詩人は、神の救いと希望を確信し、神を讃美することが出来たのか。このことを考えるにあたって、この詩人のおかれていた立場、状況はどのようであったかを見てみたいと思う。4節以下を見ると、彼は敵とする者たちに取り囲まれているようだ。敵は彼に「襲いかかり」、「亡きものにしようと」たくらみ、そして、「押し倒そう」としている。大変厳しい状況に置かれている。詩人にとって敵は「常に欺こうとして、口先で祝福をし、腹の底で呪う」存在であった。敵である彼らは虚偽の世界に住む者であり、虚偽は真実を憎む、と詩人は言うのである。このように人間はみな虚偽の固まりのようであり、その口で言うところと心の中に思うことはしばしば裏腹なのだというのである。
 
 そのような虚偽の世界にあって、この詩人の魂は神へと向かうのである。それも「沈黙して」。いや、それしか方法がなかったのではないか。このようなことは、この詩人だけのことではない。だれだって、だれにも相談できず、信頼すべき人間もいない状況の中では沈黙するしかないのではないか。この詩人の場合は「沈黙」は神に向かっている。それは、神こそ信頼できるお方であるからである。
 
 その沈黙は神へと向かう。神への沈黙とは、神への信頼と神の言葉を聞こうとする、あるいは受け入れようとする姿勢が前提にある。「魂の神への沈黙」とは「絶対者なる神から与えられるものを平静に、忍耐強く、そして充分に受け入れる、受け入れよう」、そのような姿勢ではないだろうか。
 
 敵に囲まれ、今にも押し倒されようとし、亡きものにされようとしている。そして、虚偽の世界に住む彼らに向かって、この詩人は何をいい、何をすることが出来ただろうか。その時、この詩人は沈黙する。そして、その沈黙は、虚偽に満ち満ちたこの世ではなく、神へと向かうのである。
 
 この詩人はそのような沈黙の中で、神の言葉を聞く。二度までも。神はその沈黙の中で語られる、神は力であり、慈しみの方であることを(12-13節)。この「慈しみ」(ヘセド)は神の愛を意味する言葉であるが、それは情緒的、感情的なものではない。この「慈しみ」はむしろ意志的なものであり、聖書の基本である契約における「神の愛」を意味している。したがって、それは愛と真実を一つとしたもの、もしくは真実によって貫かれた愛であるということができる。この慈しみにより頼むかぎりは裏切られることはないのである。
 
 このように「沈黙」ということに思いめぐらしていると、どうしても主イエスの沈黙されたところを思い出さずにはおられない。十字架にかかられる直前のところ。一切の業を終えられて十字架の死を待つのみであった主イエスは、ローマの総督ピラトの裁判において、主イエスが「それでも、どんな訴えにもお答えにならなかったので、総督は非常に不思議に思った。」というところである(マタイ27:14)。一切を神に委ねることを決意された主イエスにはピラトの法廷においてただ沈黙あるのみであった。この沈黙の中に、主イエスの父なる神への絶対的な信頼が見られる。その信頼の中身は「神の力」であり「慈しみ」である。さらに「ひとりひとりに、その業に従って、あなたは人間に報いをお与えになる」という神の公平な裁き、取り扱いに信頼していることがうかがえる。だから沈黙されていたのではないか。いや、沈黙することができたのではないか。
 
 この詩人は、虚偽の世界にあって、神に向かってただ沈黙する中で、神を待ち、そこから確かな希望、救いの確信を得ている。沈黙、それは受動、絶対者から与えられるものを平静に、忍耐強く充分に受け入れて、そして、そこからいかなる大敵にも立ち向かう確かな姿勢と豊かな力とをいただくことである(イザヤ30:15参照)。

 こうしてみると、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」ということは、「祈り」であることがわかる。神への祈りである。「どのような時にも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ」(9節)とあるように、神に向かって祈ることが勧められている。そこから、救い、希望の確信が生まれる。祈りこそ信仰の原点であり、中心。日々、沈黙して祈りに努めたい。

環境から考える

2019-08-06 11:16:09 | コラム

環境から考える
 
 「環境は人をつくる。その環境は人がつくる」。これはかつて校内暴力で荒れた中学校に勤めていた時、立て直そうとして掲げたスローガンである。学校はまさに荒れていた。生徒の心だけでなく環境も。校舎内外はゴミやたばこの吸い殻が散らかり、落書きや破られた壁、窓もあちこちに。土足で上がる生徒のため校内は泥だらけ。一部の生徒の仕業とはいえ、多くの生徒は見て見ぬふり、無関心を装う。そこに無力感が漂う。そこで一部の教師と保護者が立ち上がり、最初に始めたのが荒れた校内外をひたすら掃除、修理・修復であった。
 礼拝をするにふさわしい環境を考える。そこには建物、備品・調度類、庭だけではなく、集まる人たちの言動、姿勢も含まれるだろう。人は環境によってよくも悪くも影響を受ける。その環境をよくすることは私たち一人ひとりの努力と心がけでできる。そのことをかつての荒れた学校で学んだ。