逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

十戒は愛のしるし

2023-01-23 11:59:55 | 説教要旨
2023年1月22日 主日礼拝宣教
「十戒は愛のしるし」出エジプト記20章1-17節
 「十戒」と聞くと、我々年配者は、すぐチャールトン・ヘストン主演の映画『十戒』を思い起こす。あの映画の主人公は旧約聖書の「出エジプト記」に登場する人物、モーセ。そのモーセが神さまから受け取った「10のルール」が十戒である。聖書には、特に旧約聖書には神さまが人々に命じた様々な律法、すなわちルールが登場する。そのルールである律法の基礎になっているのがこの十戒である。これは現在でもクリスチャンの生き方における土台として、大切なものとされている。だから、この十戒の本質をよく理解しておくと、聖書のいう思想や考え方の基本がより深く理解できる。
 今日は一つ一つの律法について詳しく見ていくことはできないが、そもそもどうして神さまはモーセを通して人間にこの10のルールを与えたかを考えてみたいと思う。ルールというのは約束とも言い換えられるが、この地球上で「約束」という概念を持っている生き物は人間だけ。これは人間が神さまにとって特別な存在であることを示している。
 約束というものは、私たちだって信用できる相手としかしない。神さまが私たち人間に10のルール、約束を与えられたというのは、人間を信用しているということでもある。
 しかし、一方で人間はこの約束を往々にして破ってしまう。アダムとイブは「あの実だけは食べてはいけない」というたった一つの約束さえ守ることはできなかった。聖書は、これによって人類は堕落した生活を生きる存在としてとらえている。この人類最初の罪がいわゆる「原罪」。確かに聖書に書かれているように人間はあまりにも約束を破る存在である。新約聖書の時代の伝道者パウロも次のように書いている。「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(ローマ7:15)。さらに次のように言っている。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(ローマ7:19-20)。パウロはこのように罪を理解している。
 にもかかわらず、私たち人間をどこまでも信用して約束をしてくださる神さま。その神さまとはどういうお方なのだろうか。
2節に「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。」とある。10の約束をする前にこう宣言されている。そして、第1の戒め、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」と続く。この「あなたには、……ならない」と禁止の命令にように訳されているが、これは他の神々の存在そのものを否定する発言ではなく、奴隷の家から解放されたという恩恵を歴史において経験したイスラエルが、ヤハウェ以外の神と関係を持つことはありえないという意味を含んでいる。どこまでもイスラエルの民を愛し、期待し、信頼を置いているがゆえに約束された言葉なのである。「信用」しているがゆえにされた約束なのである。あなた方がエジプトで奴隷として過酷な労働、生活を強いられて、悲痛な叫びをあげ、訴えるのを見て、聞いて、知って、そして深く憐み、救いの手を差し出したのはこの私であり、その私はあなたの主、あなたの神ではないかということである。だから、この十戒というルールは、神さまが人間を縛りつけるためにつくったルールではなく、むしろ解放するためにつくったルールなのである。解放って何から?それは罪、すなわち「的外れ」な生き方から。この第一戒に限らず十戒すべて、いや聖書に記されているルールすべてに言えることだが、神さまが与えるルールは決して人間を縛りつけるためのものではなく、的外れな生き方、それに伴う悩みや苦しみから人間を解放するためのものなのである。
 罪のゆえに自分でも背負いきれない重荷を負って生きている私たちに、主イエスは言われた。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)。慈しみに富む、愛のお方であるということ。その愛の神があなた方を救い出したのだから、あなた方はもう私以外の神々を礼拝することはないよね、と言って、どこまでも私たちを信用しようとされる神なのである。相手に対して愛がなければできない約束である。愛するがゆえに約束されるのである。それに対して私たちになすべきことは、精いっぱいその愛に応えた生き方をすることなのではないだろうか。

天に宝を蓄えよ

2023-01-17 15:37:10 | 説教要旨
2023年1月15日 主日礼拝宣教
「天に宝を蓄えよ」 マタイによる福音書6章19ー21節
 人生は勘定の合わないことが多い。三浦綾子さんの『小さな郵便車』(角川文庫1991年)という本がある。人生相談の回答を14篇、まとめたもの。 その中に「継母ゆえに子にそむかれた」方からの相談があり、三浦さんは次のように励ましている。「いつかわかってくれます。その日を待ってください」と書かれていて、続けて「結果的にはどうであっても、わたしたちは、人のために為し得たことを、感謝すべきではないでしょうか。人に喜ばれると思ってしたことが、裏目に出るのが、とかく人生なのですから。」と感謝の気持ちの大切さを伝えておられる。
 その回答に「人生は勘定の合わないことが多い」と書かれていて、「でも、わたしたちは、自分に返ってくるものが少ないからといって、それなら、不真実に生きればいい、と思うでしょうか。もっとでたらめに生きればよかったと思うでしょうか。……多分そうではありますまい。」と、要は生き方の問題だと言われている。確かに私たちはそろばん勘定だけで判断し行動しているわけではない。良心や善意といった性質も合わせ持っている。
 さらに三浦さんは自分の体験を語りながら次のようにキリスト者らしい感想を述べておられる。「わたしは小さな者で、それほど人様のために生きている者ではありませんが、それでも自分なりに精一杯に、他の人に尽くしたことが幾度かあります。しかし、して上げたことで、かえって相手から誤解され、恨まれたり、他の人から笑われたり、……いわばさんざんな目に遭ったことが幾度かあります。……しかしそんな時、十のことをして、十の返しがあるとすれば、それは人にして上げたことにならないような気がするのです。充分なお返しがあれば、勘定だけはきっちり合いますが、それだけ神さまにほめていただく分がなくなるような気がするのです。むろんほめられるためにするわけではありませんけれど。」このように書かれている。
 今日の聖書個所に「富は、天に積みなさい」とある。口語訳聖書では「天に宝を蓄えなさい」(マタイ6:20口語訳)と訳されている。天国銀行では、勘定が合うどころかたくさんの利子(恵み、祝福)がついていることだろう。
さて、この「天に宝を蓄えなさい」だが、これはユダヤ教でもこの地上ではなく、天に宝を蓄えるような生き方をせよと説かれている。ただし、イエスがここで説いている宝とは比喩的な表現であり、信仰上のもので、財産のみを指すものではない。
 人に見せるための行為は、それがどのような善行であっても、地上の宝に過ぎない。宝が他者からの評価によって成立するのと同じように、他者からの評価を基準にして生きることはむなしいとイエスは考える。人間の評価は不安定で、相対的で、また後に、より優れた業績をあげる人が現れると、以前の人たちは忘れ去られてしまうだろう。
 むしろ他人にどう評価されるかなどということについては考えずに、神による絶対的な評価を気にかけて生きることをイエスは説いている。天に宝を蓄えるというのは、神中心に、神第一に生きるということである。この世の中で正義を行うことも、世間から賞賛を受けるためではなく、天に宝を蓄えるためなのである。だから、私たちはいつも神と向き合って、神は何を私たちに望んでおられるだろうか、どんなことを喜んでくださるだろうか、と考えながら生きていくことが求められている。神中心、神第一の生き方。まず神の国と神の義を求めなさいに通じる生き方である。
 そして、最後に「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」(21節)とイエスは言われる。私はこれを読むたびに、私の心を見透かされているように思う。あなたの富のあるところはこの地上ですか、天上ですか、と問われているように思われるからである。そして、そこにあなたの心、本心があるのだとズバリ言われるのが胸に突き刺さる。要するに、なんだかんだ言っても、結局はこの地上の富、宝に目がくらみ、心奪われているのではないか、と問われている気がするのである。
 「富は、天に積みなさい」「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」。このみ言葉を神からのチャレンジだと受け止めている。だから、神中心、神第一の信仰生活を精いっぱい生きていこうと、いつも励まされるのだ。

気づき・感謝・証し

2023-01-11 17:26:01 | 説教要旨
2023年1月8日 主日礼拝宣教
「気づき・感謝・証し」 ルカによる福音書17章11ー19節
 私たちは、意識するとしないとに関わらず、往々にして、「その宗教がどれだけ役に立つのか」、「礼拝に行けばどれだけ役に立つのか」という基準によって判断したり選択したりすることがある。すなわち「神と取引し、自分のニーズに応じて教会や礼拝に関わる」ような意識や行動が、知らず知らずのうちに侵入してきている、ということ。だからこそ、私たちはそうした危険に取り囲まれながら、信仰生活を送っていることを常に意識し続けていなければと思う。
 礼拝は人間と神が「取り引き」する商売ではなく、教会もそのための商店ではない。聖書は、あらゆる私たちの人間的な思いに先立って、神ご自身が私たちに本当に必要なものをご存知であると告げている。マタイ福音書6章25節以下を読むと、「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」とある。
 私たちを創造し、私たちを恵み、私たちを見守ってくださる神は、全て必要なものを私たちに与えてくださるお方である。私たちが必要とするものを全て喜んで与えてくださるお方に対して、どうして「取り引き」する必要があるだろうか。礼拝とは、何かを獲得するために人々が集まる場ではなく、私たちに本当に必要なものがすでに与えられていることを知って感謝する人々の集いなのである。もちろん結果的に、大きな恵みや励ましや慰めが与えられることがある。それらも含めて、神はすべて私たちのことをご存じで、大きな愛を与えてくださっているのである。
 このことを今日与えられた聖書の箇所、ルカ福音書17章11節以下に記されている「重い皮膚病を患っている十人の人の癒し」から教えられたいと思う。この話は、当時のユダヤ社会で大変嫌悪された「重い皮膚病」にかかっていた十人の人が、主エスによって癒され、それぞれ社会復帰を遂げることができたことを語っている。十人は全員が健康になった。しかし、聖書によれば、この癒された十人のうちで主イエスのもとに戻ってきて感謝し、神を賛美した人はたった一人しかいなかったという。宗教改革者ルターはこの物語について、礼拝とは「癒されるための条件」ではなく、「癒された者の感謝の表現」なのだと説いている。
 特にここで注目したいのは、十人すべてが癒されたという事実である。感謝した者もしなかった者も、全員その願い通りに癒されたのだ。マタイ福音書5章45節にも次のようにある。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」。神の愛は等しく与えられているのである。それにもかかわらず、神をほめたたえるために戻ってきたのは、たった一人だったというのだ。ここには、神と人間との関係を理解する上で、また礼拝とは何かということを理解する上で、とても重要なカギがあるように思う。キリスト教は、旧約聖書以来の伝統に沿って、次のことを主張する。「すべての人間は神の恵みによって創造され、すべての人間は神の恵みの中に置かれています」。しかし、すべての人間がこの恵みに気づいているわけではない。この恵みに気づいた者は感謝する。しかし、気づかない者は感謝しない。気づいた者は礼拝をする。気づかない者は礼拝をしない。 
 私たちの時代は礼拝しない人間の時代であるようだ。人間が自分の力に頼ることしか知らず、「神の愛」を信じることのできない時代ともいえるだろう。「自分に役に立つか立たないか」を基準にしてすべてを決定し、お互いがお互いを利用する「利己主義の分かち合い」によって生きているような時代である。しかし、そのような世界の中では、人間は本当に人間らしく、安心して生きていくことは出来ないのではないだろうか。
 キリスト者が礼拝に参加するのは、神から何かを獲得したり、神と取り引きしたりするためではない。私たちが礼拝に参加するのは、神がすでに私たちを愛してくださっていることに気づき、それに感謝するためである。そしてさらに言えば、このような気づきと感謝の中で礼拝することを通して、私たちはこの世に向けて、神に感謝する生き方があること、人間は神の恵みによって生きるということを証しするのである。私たちの礼拝とは、そのような広がりの中で行われる「神の民」の喜びの告白であり、同時に宣教の業であることを忘れないようにしたい。


「同感」から「共感」

2023-01-02 10:27:45 | コラム
 「特技は人の話を聞くこと」と「聞く力」をアピールして首相に就任した岸田さんだが、あっという間に化けの皮がはがれて国民を失望させた。岸田さんに限らず、聞くことは意外と難しい。人のことは言えない。私なんかも、教師の習性で、聞くことよりもつい教えるほうに力が入ってしまう。
 傾聴とは相手について「そのままを受け止め、支える」ことだという。では、「聴く力」を身に着けるために重要な要素はなにか。それは「共感」である。「その気持ち私にもわかります」と、相手に合わせるのは「同感」。これだと相手の同意できない時、無理に合わせて苦しくなってくる。そういう時は「今、あなたはそういう気持ちなのね」とオウム返しに言うだけでいい。必要なのは共感です。相手の話に善悪の判断をせず、気持ちをそのまま受け止める。これができると聞き手自身も楽になります。
 さらに相手に話を合わせて「聴く」ということだけではなく、相手の気持ちに耳だけでなく心を傾け「聴く」ということができれば、もう立派な「傾聴」です。共感する心はともに生きることの第一歩です。

キリストにおいて一つとなろう

2023-01-02 10:23:58 | 説教要旨
2023年1月1日 新年礼拝宣教
「キリストにおいて一つとなろう」マタイによる福音書16章13ー20節
 私たち人間はいろいろな問題に悩まされる。悩みの中で疑問や迷いを抱き、問いを持つ。しかし今朝、聖書を読むと、人間は問うだけではなく、問いかけられてもいるということがわかる。誰に問いかけられているのか。神が私たちに問われるのである。主イエスを通して神が私たちに問うている。そしてこの神の問いかけに答えることが、人間のいろいろな悩みや問題の根本的な答えになるのである。神のその問いかけとは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」という問いである。主イエスはそう問いかけられた。ここに実は人間にとっての「最大の問いかけ」があると言ってよい。聖書はその問いかけのために書かれているといってもよいだろう。神は聖書のみ言葉を通して、我々に問いかける。神とは何か。あなたは神をどう受け止め、どのように理解するのか。そしてその問いは、今度は逆転して、ではあなたは何者か、どんな存在か、と問うてもくるのである。人間とは何か。人間とはどんな存在なのか。
 人生には確かにいろいろな問題がある。トラブルがあり、悩ませられることが様々起こる。そして私たちは自分を見失い、進むべき方向を失い、他者ともうまくやっていけなくなる。しかしその時にも、この最大の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いかけを聞き、この問いかけに答えながら生きるとき、人間は真実に生きることが出来るのである。絶対者を前に、相対的な存在である我々はどう生きるべきか示されるのである。
 主イエスの「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」という、この問いに弟子のシモンは答えた。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、ペテロだと叫んで、「その上に私の教会を建てる」と言われた。
 今朝、皆さんは教会の礼拝に集まって来られた。それは、実は「岩の上」に来たのである。教会はその岩の上に立っている。それはまたどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生を真実に生きることの出来る「岩」である。その岩とは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という、主イエスに対する信仰告白である。これが教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのである。
 主イエスは言われた、その岩の上に「私の教会を建てる」。教会(エクレシア)という言葉は、呼び集められた者の集会、あるいは群れ、という意味。主イエスは弟子たちをご自分の周りに呼び集められた。十二弟子を選んだということは、神の民であるイスラエル十二部族を象徴して、選んだのである。神の民が新しく建てられ、集められるために主イエスは来られ、十字架にかけられた。 
 「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする時、私たちはそのメシアの民とされる。新しい神の民とされる。「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする中で、私たちは罪を赦され、愛の破れを癒される。死んだような生き方から、生き生きとした人生へと、変えられていく。そうお答えする中で、私たちは真のクリスチャンにされていく。キリストに結ばれ、死と罪から解放され、天の国へと通じる存在にされていく。私たちも答えようではないか。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」と。そう答えることができる。天の父がそれをできるようにしてくださる (17節)。神は私たちがそう答えることを喜んでくださる。
 逗子第一教会は今までもそうであったように、これからも「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と、大胆に信仰告白していく群れとして、今年も祈りをあわせ、キリストにあって一つになって歩みを進めていこう。