逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

安息日の意義

2023-04-24 14:51:28 | 説教要旨
2023年4月23日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「安息日の意義」出エジプト記20章8-11節
 旧約聖書の出エジプト記には、神が預言者モーセに与えた約束、すなわち十戒がある。十戒という字面から、一般的には厳しい律法の掟として敬遠されるかもしれないが、イスラエルの民にとっては命がけで守るべき神との約束だった。というのも、彼らはかつてエジプトで奴隷として過酷な労働を強いられて、そこから神によって奇跡的に助けられる経験をしたからである。自分たちを救い出してくれた神との契約を結び、そのしるしとして、十戒を守る約束をしたのだ。だから、十戒というのは掟ではなく、むしろ救いの神に対する信頼の表明、あるいは応答と言ってもよい。
 十戒の冒頭では、「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である」と神による救済が宣言されている。これに応答して、イスラエルの民は十戒を守ることを約束する。私たちだって、例えば本当に苦しい時、いろいろと助け励ましてくれた方がいたとしたら、「あの人に対して足を向けては寝られない」とか「一生かけて、あの人に恩返しをする」とか言いますね。いくらでもある話だ。
 この十戒の中に、安息日についての戒めがある。第四の戒め。「安息日を覚えて、これを聖別しなさい。」で始まる戒めである。安息日にすべての仕事を休み、神を礼拝しなければならない。ユダヤ教では土曜日とされている。キリスト教では主の復活された日曜日を主の日として再解釈して、教会で礼拝をしている。  
 さて、安息日について、「これを聖別しなさい」と命じられている。「安息日を聖別する」とは、言い換えると「時間の聖別」である。ヘッシュルというユダヤ教の学者がこのことを強調している。「安息日は自分の時間ではなく、創造主なる神のための時間です。人間は神によって創造され、命を与えられた存在だからです。だから6日間働いて、7日目の安息日には日常の仕事をやめ、神にお返しをする」。時間に追われ疲れ果て、時間を自分のものだと思い込んでいる現代人にとっても襟を正される思想ではないだろうか。
 安息日のことをヘブライ語で「シャバート」と言う。これはもともと「止めること」「放棄すること」を意味する。だから、安息日は文字通り仕事を「止めて、休む日」。「7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」のである。つまり、安息日は人間の行動を制限し、労働を中断させることを意味する。目まぐるしく変化していく現代の社会において、休むことの意義は大きいものがある。疲弊して倒れこむ前に休む。一度立ち止まって、来し方を見つめ直す。休むことは心身のリフレッシュになり、英気を養うことにもなる。そのように休むことを積極的にとらえ直したいと思う。
 私たちはふだん時間は自分のものだと考えている。自分の時間を支配するのは自分自身だと。けれども、人間は時間を支配することはできない。自分で支配しているように見えながら、実はそうではない。神から与えられた時間を管理しているだけである。私たちは時間を止めることはできない。寿命を延ばすこともできない。どうあがいても、人生にはいつか必ず終わりが来る。だから、時間はもともと神に属するものだというほかない。
 安息日が来るごとに、神から時間をお借りしていることを思い出し、時間を神にささげる。安息日はそのように自分の時間を神に返す日だ。そういう意味で、安息日を聖別することは神の創造の秩序に属する事柄だと言えるだろう。
 「目標達成」「生産拡大」「経済効率」……。そういう言葉が無条件で肯定される現代において、安息日を守ることは、社会に背を向ける態度を私たちに迫るが、時にはあえて仕事を止める、中断する、断念するということも必要なのではないだろうか。
 こうして聖書は経済至上主義にも疑問を投げかける。仕事を中断することで不利益を被ったり、まわりに理解されないこともあるかもしれない。けれども、そういう経験もまた大事なことではないだろうか。こうして労働に疲れた私たちに、十戒の第四戒は慰めを与えてくれるだろう。
 旧約聖書では安息日のほかに、「安息年」と呼ばれるものもある。七年目に畑を休耕し、奴隷を解放するのだ。これは畑を一度自然に戻すことになり、生態学的にも重要なことであって、現代の地球環境保全の思想にもつながる。
 さらに、旧約聖書では50年目は「ヨベルの年」と呼ばれて、すべての債務が帳消しにされる。債権者が債権を永久に放棄するのだ。ありそうもない理想的なきれい事のように思われるかもしれないが、この破格の、そして一方的な赦しがキリストの十字架の愛を想起させる。
 キリストは「受けるより与える方が幸い」であると言われた。これにならって、ただ何かを得ることだけを目指して生きるより、何かを放棄する、与える生き方の方を考えてみたいと思う。そのことをすべて神からのチャレンジだと感謝して受け止め、祈りつつ励もう。

逃れの町

2023-04-16 18:06:01 | 説教要旨
2023年4月16日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「逃れの町」  申命記19章1-13節
 古代オリエントの社会においては、相手を傷つけた者に対する処罰としては、「目には目を歯には歯を」という同害報復が常識だった。「ハムラビ法典」にある規定から来ている。これは現代の私たちには非常に厳しい掟と映るが、当時においては必要以上の復讐がなされないようにするための知恵でもあった。倍返しはダメだということ。しかし今日の聖書は、そのような常識と異なる対処の仕方を教える。すなわち、故意ではなく殺人を犯した者が逃れることができるように「逃れの町」を設けよというのだ。 
 復讐が常識であった当時の社会は、裁き合う社会だと言えるだろう。私たちの社会でも、勝手に人を裁き、排除することが多くある。たとえば理不尽ないじめや仲間はずれ、そしてそれが容認される、または見て見ぬふりをする雰囲気がある。新型コロナでもマスクをつけていない人を激しく罵倒する,他県ナンバーの自動車を傷つけるなどといった,「自粛警察」と呼ばれる過激な言動が話題になった。ヘイトスピーチも同じ。ヘイトスピーチは,「○○人は祖国へ帰れ」,「○○人は殺せ」などと,特定の民族や国籍の人々について,一律に排除・排斥することをあおり立てたり,危害を加えるとする言動をしたりするもの。また、大きな事件ともなれば、過ちを犯した本人以外の家族や関係者までもが冷たい社会的制裁を受けることが常識のようになっている。       
 そのような当時や現代の社会の常識に欠けていることを、申命記はしっかりと見据えて、「罪のない者の血を流してはならない」と戒めている。逃れの町は、いつ過ちを犯して裁かれる立場におかれるかも分からない「あなた」のためであり、また人を勝手に裁いて追い詰めてしまいがちな「あなた」のためでもあるのだ。
 実際、私たちは相手の過ちを責め立てて、相手に逃げ場すら与えないことがある。しかし主はそんな私たちの罪を取り上げて私たちを追い込むようなことはなさらない。まったく逆に、私たちの罪を独り子イエス・キリストに背負わせることによって、私たちを受け入れてくださったのである。だから、新約聖書の光に照らせば、十字架の主イエスこそが逃れの町だと言えるのではないか。こうして主は、裁き裁かれる世界の中で、逃れの町を備え、私たちが生きることのできる隙間、場所を作ってくださっているのである。
 たとい故意ではなくても、殺人を犯したことは加害者にとっても、被害者の身内にとってもつらいことである。互いに顔を合わせることがあるともっとつらくなる。それに対して主は、頭ごなしに「赦しなさい」とは言わず、「逃れの町」によって互いに距離を置き、祈りつつ関係が癒される時を待つことができるようにしてくださっている。
 現代の日本の社会は逃れの町の存在しにくい社会である。逃れの町の少ない社会だ。少し前までは、都会で失敗をしたり挫折しても田舎に帰れば優しく迎え入れてくれて、何とか傷が癒されて、再スタートができたりしたものだ。確かに最近では、逃れの町のような機能を果たすシェルターや駆け込み寺もあちこちにできたが、とても足らない。
 そのような生きづらい現代の日本の社会にあって、その中で私たちは何か問題を起こしたり、弱みを見せたら大変だとひっきりなしに人の視線を気にしているのではないだろうか。それがストレスを生み出して、さらにギスギスした世の中を作り出しているように思う。ゆとりがない。文字通りの「適当」がない。「いい加減」がない。だからこそ、私たちの教会こそが逃れの町でありたいと思う。教会のメンバーも新しく来た人も、互いに過去や罪の重荷を抱えている。教会こそ、互いに罪をごまかすのでも、裁くのでもなく、互いに主の前に同じ罪人として、また同じように愛されている者として、共に十字架の主を仰ぎつつ、共に歩むことが許されていく所ではないだろうか。そこに赦しがあり、癒しがあり、平安があり、慰めがあり、励ましがある。そして助け合いが生まれ、祈り合いが起こる。
 教会とはそのようなところであると、もっともっと知ってほしいと思う。そのためには、具体的に地域の方々に働きかけていく活動が求められるだろう。最近よく言われる「見える化」である。教会って何をしているのだろうでは、伝道できない。是非皆さんで知恵を出して、できることからでいいので具体化していきたいもの。お祈りしていこう。

驚きから出会いへ

2023-04-10 15:16:21 | 説教要旨
2023年4月9日 逗子第一教会 イースター礼拝宣教
「驚きから出会いへ」 マルコによる福音書16章1-8節
 イースターの出来事は闇から始まる。日が沈んで、安息日が終った時、ただちに女性たちは香料を買いに行く。安息日は買い物ができなかったからである。夜が来て、闇が深くなる時。それは心の闇、絶望の闇が覆いつくしている時でもあった。愛する者を失い、生きる支えをなくしたのだ。敗北感と悲壮感と絶望の中で、まんじりともせずに夜の明けるのを待ったことだろう。そして「朝ごく早く」墓に行った。そこで、復活の出来事に出会うのである。ある神学者が言った言葉。「私たちは日没に向かって旅する者ではなく、イエス・キリストによって日の出に向かって旅する者である」(W.バークレー)。復活の出来事は絶望から希望の出来事である。 
 この世は悪い知らせ、悲しい暗いニュースであふれている。しかし今、暗闇と絶望が支配する墓の中で、福音が告げられる。しかしそれは女性たちにとっては、大きな驚きであった。身も心も縮こまるような恐れであり、驚きであったのだ。確かに考えてみるに、人生は驚きの連続であるように思える。しかし驚きにもさまざまな驚きがある。日常の生活において経験する驚きは、未知のものや新しいものを見聞きする時に感じる感情である。人は未知の世界に踏み込む時、さまざまな驚きを経験する。たとえば異質な自然や風土、宗教や文化や社会に接すると大きな驚きを経験する。海外旅行に行くとカルチャーショックに陥ったりする。しかし時間の経過と共に、新鮮であったものも古くなってゆくものだ(コヘレト1:9)。しかし、女性たちの驚きは時間と共に慣れていくようなものではなく、人生の根源的な驚きとなったのである。
 だから、この大きな驚きに対して、天の使者である若者は「驚くことはない」と言ったのだ。そして「ひどく驚いた」女性たちの心を静めるようにして、良い知らせを告げるのである。告知の内容はまず「あなたがたより先にガリラヤへ行かれる」であった。「ガリラヤ」は主イエスが宣教のために労苦された場所である。弟子たちと出会われ、弟子たちと日常生活を送った場所でもある。その「ガリラヤへ行かれる」という約束が示される。弟子たちが挫折したエルサレムで失望し、落胆している時に、主イエスがガリラヤに先回りするのである。ここに主イエスの先回りの愛がある。愛の先行である。「お目にかかれる」。ペテロたちが見る前に、主イエスが先回りの愛を持って出会ってくださるのである。この真実な出会いこそがペテロたちを立ち上がらせ、主イエスの御跡に従うことを新しく可能としたのである。
 だれも復活についてよく理解し、それを十分に証明することもできない。しかし、神学者のE・シュヴァイツァーは次のように書いている。「空虚な墓の発見という不可解な出来事が信仰を生み出すのではなく、信仰は生ける主がその弟子たちと出会われることによって、生まれるのである」。「出会いです」。この出会いが復活信仰の基盤であり、このような出会いを経験した者が、不可解に思われる出来事を理解するだけでなく、絶望のどん底から立ち上がる力を受けることができるのである。出会いから始まるのである。
 私たちは自分が知り経験しているよりも、比較にならないほど大きな救いの中に置かれている。生ける復活のイエスは弟子たちに約束されたように、私たちのガリラヤである苦悩や悲哀、矛盾や不条理に満ちた日常生活、罪と死の定めにある人生の極みの中で、イエスが復活者として出会ってくださるという約束を与えられているのである。私たちはただそれを聞き、承認し、感謝しつつ、受け入れるだけである。

イエスの赦しの眼差しの中に

2023-04-03 16:01:19 | 説教要旨
2023年4月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「イエスの赦しの眼差しの中に」ルカによる福音書22章54~62節
 イエス・キリストの十二人の弟子の中で、誰よりも主イエスに信頼されたのがペテロだった。彼については、福音書などにたくさんの逸話があり、人間的な魅力にあふれた愛すべき人物でもある。ペテロとはギリシア語では「岩」という意味。主イエスはこのペテロに対して「私はこの岩の上に私の教会を建てよう」(マタイ16:18)と告げた。岩の上に教会を建てるというのは、ペテロに「天の国の鍵を授ける」(マタイ16:19)、つまり地上で最大の権威を与えることを意味する。それほどまでに主イエスはペテロに信頼を寄せていた。
 ペテロはもともとガリラヤ湖で魚を獲る漁師だった。特別教養があるとか信仰熱心だったというようなことは何も書かれていない。そのペテロが主イエスに「あなたは人間を取る漁師になる」と招かれて、すぐさま網を捨てて、主イエスの最初の弟子となった。その後、ペテロは他の弟子たちと共に主イエスの宣教に同行していく。
 主イエスの一番弟子で、信頼も厚いペテロは、にもかかわらず私淑する主イエスを裏切ってしまう。しかも、一度のみならず、二度も三度も。主イエスが弟子たちと最後の晩餐を共にした後、ペテロは「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と主イエスに言ったが、主イエスは「ペテロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(22:34)と予告した。
 その後、主イエスをめぐる動きが急展開する。主イエスが捕らえられ、大祭司の家に連行される。それを知った弟子たちは恐ろしくなり、イエスを残して逃げてしまう。しかし、ペテロはイエスを追いかけて密かに大祭司の家の庭に入り、イエスに近づく機会をうかがった。
 ところが、その庭で、お前はイエスの仲間ではないかと疑われ、ペテロはそれを否定してしまう。その後、別の人からも怪しいとにらまれ、二度目の否定をする。さらにしばらくして、また別の人が「確かにこの人も一緒だった。」と証言した時、ペテロは「あなたの言うことは分からない」と強く否定してしまうのだ。その言葉をまだ言い終えないうちに、たちまち鶏が鳴いた。この時のペテロについて、聖書はこのように記録している。「主は振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた。」(22:61-62)
 まるでペテロ自身が証言しているような、彼の感情がほとばしる場面である。イエスの眼差しが注がれたにもかかわらず、顔を背けて立ち去り、一人でおいおい泣いたペテロの姿が書き記されている。
 そもそも「裏切り」という言葉は、聖書ではギリシア語もヘブライ語も「引き渡す」ことを意味する。もちろん、ペテロは直接イエスを引き渡したわけではない。しかし、この場面で無関係を装うことは、イエスを十字架に「引き渡す」ことと同じだった。
 ペテロの裏切りは、人間的挫折の物語である。ペテロは「主の言葉を思い出し」、生涯その思い出が消え去らなかっただろう。しかし、だからこそペテロはその後、キリストに従う人生を選んだ。自らの裏切りを悔いながらも、彼は前に進む。かつて、自分は決して裏切ったりはしないと啖呵を切ったペテロに、イエスがかけた言葉がある。ルカ22:32「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 イエスはペテロの痛恨の裏切りをあらかじめ知っていたのみならず、ペテロがそこから立ち直り、彼が同じように苦しむ者たちを励ます人間に成長することを見通していたのだ。自らの裏切りに立ちすくむペテロは、すでにイエスの赦しの眼差しの中にいたのである。
 立ち直れ、立ち直ったら同じ苦しみの中にいる仲間を助けよ。それがイエスの弟子ペテロに委ねられた使命だった。人生最大の挫折をしたペテロはこのようにして挫折を乗り越えていくのである。そこにはいつもイエスの眼差しがあった。この同じイエスの赦しの眼差し、イエスの励ましの眼差しが今も私たちに注がれている。私たちはそのような愛の眼差しの中に生かされている。そのことを覚えて感謝して、イースターを迎えましょう。