逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

教会は祈りの共同体

2023-07-24 15:51:03 | 説教要旨
2023年7月23日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「教会は祈りの共同体」 民数記14章11-19節
 モーセを先頭に、やっとのことで約束の地カナンの入口までたどり着いたイスラエルの民は、その地を偵察して帰って来た人たちの暗い知らせを聞くと、皆声を上げて叫び、その夜を泣き明かした、という(14:1)。カナンの地はとてもじゃないが、我々の侵入する余地などどこにもない、という事実の前に立った時、彼らはただ絶望するよりほか仕方がなかった。それでもなお、そこは神が約束された地であるから、恐れず突き進もうという提案をしたヨシュアとカレブという若者がいた(14章7節以下)。しかし、イスラエルの民たちは彼らを石で打ち殺そうとした。それほど危険な思想はないと思えたからである。
 それを知った神の怒りは、頂点に達した。民の神への侮りのゆえに、モーセに「イスラエルの民を捨て、モーセを彼らよりも強大な国民としよう」(12節)と提案する。アブラハムとの契約を捨て、モーセを契約の礎にするというものである。この神からの提案は、モーセにとって決して悪いものではなかったはずだ。しかし、モーセはイスラエルの民のとりなし手として神の怒りの前に立ちはだかる。
 モーセは、「どうか、あなたの大きな慈しみのゆえに、また、エジプトからここに至るまで、この民を赦してこられたように、この民の罪を赦してください。」(19節)と祈ったのだ。この祈りこそ、今も聖霊が言い難き嘆きをもって、私たちのために捧げている祈りである。パウロは、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ローマ8:26)と書いている。このようなモーセのとりなしの祈りに神は、イスラエルの民を慈しむ者であることを認め、約束を思い起こされ、彼らの不信を赦されたのだった。
 ある牧師が祈りについて次のように書いている。病気になった者は医師のところに行く。診察を受け、検査をしてもらい、薬を処方してもらう。そのように医学的な処置を受けるのは当然のことだろう。しかし、信じる者にとってはそれだけではない。祈ることをも必要とする。自分が祈るだけではない。祈ってもらうのである。つまり病んでいる者は、自分のために祈って欲しいと要求する権利があると言うのだ。権利などと言うと、少し厚かましい言い方になるかもしれないが、この牧師が言いたいことは、病んでいる者は祈りを求めていいのだ、ということだ。肉体の病の時だけではない。心が病んだ時にも、苦しみにある時にも、悲しみの中にある時にも、私のために祈ってくださいと求めてよいのである。いや、そういう時だけではない。喜んでいるときにも、しあわせだと思っている時にも、信仰の兄弟たちよ、私のために祈って欲しいと言ってよいのである。
 祈って欲しいと言えるのは、教会に生きる者の特権でもある。もちろん、自分のための祈りを求めるだけではない。自分のために祈ってほしいという願いは、自分も仲間のために祈り続けることとひとつである。表裏一体である。祈り合うのだ。教会はそのようにして形作られる祈りの交わり、祈りの共同体である。その意味では、私一人でする祈りが孤独であるということはない。自分のためだけに祈るような祈りもない。初めから他者を思い起こさないわけにはいかない。そこでは、初めにまず自分のために祈り、心に余裕があったら他者のために祈るということでもない。自分のために祈ることと、他者のために祈ることと簡単に分けることは出来ない。自分が他者の祈りの中に包み込まれるように、自分もまた他者を包み込むような祈りに生きるのである。ここに祈る者の知るさいわいがある。とりなしの祈りに励もう。教会は祈りの共同体。祈り祈り合う共同体。そのような教会として成長していきたいと思う。祈りに励もう。

闇から光に向かって叫ぶ

2023-07-17 11:59:32 | 説教要旨
2023年7月16日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「闇から光に向かって叫ぶ」 マルコによる福音書10章46-52節
 イエスの生涯とその教えを記した「福音書」の中には、人がイエス(神)を信じて救われるための、いわば求道・信仰のモデルのような物語がある。その一つは盲人バルティマイの奇蹟物語である。
 イエスと弟子たちが伝道の途次、エルサレムからエリコという町に行き、町から出ようとした時のこと。道行く人々の情けにすがり物乞いしながら生きていたバルティマイという盲人が、イエスが来られることを聞きつけ、「ダビデの子のイエスよ。わたしを憐れんでください」と叫んで出てきたのだ。彼はすでにイエスの噂を聞いていたのだろう。この時を逃してはと言わんばかりに、必死に「叫び続けた」わけだ。
 周りの者たちは、黙らせようとたしなめるのだが、彼は叫び続ける。これを見たイエスが、人を介して「安心しなさい」とバルティマイを呼び寄せられると、彼は「上着を脱ぎ捨て」イエスのところに来たと書かれているので、もうなりふり構わずの行動である。真剣そのもの。
 これに対してイエスが、「何をしてほしいのか」と、あえて抱えている問題と願望の提示を求められると、彼は直ちに「目が見えるようになりたいのです」と必死の嘆願をする。イエスは彼の信仰に応えて、「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言って彼の目を癒されたのである。
 さて、この物語、よく読むと、そこにはイエスを信じて救われるための基本的なプロセス・信仰態度のようなものがよく表されている。まず機会を逃さないこと、そして障害があっても求め続けること、さらに邪魔なものは脱ぎ捨てること、そして、はっきり「見えるようになることです」と伝えることである。この必要条件がバルティマイの中に見られるのである。
 ところで、ここで考えてみたいことは、こういうバルティマイの信仰、つまり「あなたの信仰があなたを救った。」と言われるような信仰は、いったいどこから出てきたのか、ということだ。いったいその恵みに至る信仰は何に起因しているのだろうか。
 バルティマイについて詳しい情報がないので、その点について込み入った分析はできないが、彼が盲人であり、道端で物乞いをして生きていたという背景なしに考えるわけにはいかない。一言で言えば、彼の人生は個人的にも社会的にも絶望的な状況に置かれ、精神的には見捨てられ同然で押しつぶされていたのではないだろうか。極端に言えば、自分が自分を見捨てざるを得ないような悲惨な状態だった、と言ってよいだろう。
 こういう状態というのは叫ぶことしかできないわけだから、心は神に向かう可能性が大きい。そこしか希望がない。むしろ、神だけしか頼れないという意味において、幸いなことでもあると言ってよいかもしれない。この逆説について、イエスはマタイの福音書の中で、「悲しむ者は幸いです」(5:4)と言っている。悲しみ叫ぶということは、闇から光に向かう道程であり、それを通して人の心の目は「開眼」に至るのである。
 この開眼をめぐって留意したいことが一つある。それは私たちがもし「道端」にいながら自分の姿に気づかずにいるなら、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(ヨハネの黙示録3:17)と言われるような生活を送っているということである。そこには自分の惨憺たる状態に対する認識はなく、叫びもないのだ。そのことを考えると、バルティマイが叫ぶことができたということは、素晴らしい恵みだったと言える。こうも言えるのではないか。神に向かって「叫ぶこと」は信仰の表明でもある、と。それがイエスから「あなたの信仰があなたを救った」と言われる「信仰(信頼)」ではないだろうか。

慰められるイエスの愛

2023-07-10 16:44:55 | 説教要旨
2023年7月9日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「慰められるイエスの愛」 ルカによる福音書7章11-17節
 この世はどうしてこんなに悲しいことが多いのだろう。常にではないにしても、時にそう強く感じることがある。それは死別を経験したような時。身内はもちろんだが、親しい間柄にある人たちの死は特に心身にこたえる。
 聖書には、この死別による悲嘆について深く考えさせられる物語がいくつもある。その一つは今日の聖書個所、ルカによる福音書に出てくる「ナインのやもめ」の話。その死別の物語というのは、イエスがガリラヤの小さな町ナインに行かれた時のことだ。イエスは、ひとり息子を失った母親と、棺を担ぎ出して葬りに行く人々に出会われたのだ。
 パレスチナの風習から想像して、おそらく泣くために雇われた人たちが頭を振り、甲高い声を出しながら歩いていたのではないだろうか。悲哀が漂うなんとも物悲しく寒々しい風景が浮かんでくる。12節に「ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。」書かれているが、淡々とした描写だけに、今更ながら生を飲み込んでいく死の恐れというものを感じてしまう。
 このような母親の悲しみは、その身になってみなければ分かるようなものではない。ここは逗子なので、この地に関係した昔あった悲劇の事故を取り上げてみる。それは皆さんもよくご存じの、ボートの転覆で逗子開成中学の十二人の生徒が亡くなった事故を歌にした「真白き富士の嶺」だが、その4節に、「神よ、早く、我も召せよ」という母親の悲しみを綴ったくだりの歌詞がある。おそらく、ナインのやもめもこの世のすべてに希望を失い、自分も息子と一緒に死んでしまいたいような気持だったのではないだろうか。それが親の気持ちであろう。ちなみにこの歌はアメリカの賛美歌を原曲に用いて、今の鎌倉女学院の先生が歌詞をつけた鎮魂歌だと言われている。
 しかし物語は一転する。イエスはその哀れな母親を見て「憐れに思い、『もう泣かなくともよい』」と慰め、棺に手をかけ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われると、彼は起き上がって話し出したというのだ。群衆は驚きの域を超え、「恐れ」を抱き、神を崇めたという奇跡物語である。狂喜せんばかりの母親の顔が浮かんでくる。
 私たちは、このような物語を読むと、すぐ奇跡の出来事の方に関心が行くが、少し丁寧に読んでみると、この物語にとって大事な言葉があることに気づく。それは「憐れに思い」という言葉。ギリシア語では「スプランクニゾマイ」と言い、「内臓が揺さぶられる」「深い同情心に突き動かされる」というような意味を持っている。岩波訳では「腸がちぎれる想い」と訳している。いわゆる「断腸の思い」。相手の苦しみを見て、こちらのはらわたも痛んでくるという意味。英語では「コンパッション」という言葉が当てられているが、これは共感というより、痛みを共にするという意味で「共苦」と言ってよいかもしれない。
 さて、イエスはこのように、ご自分の内臓が引きちぎられるような憐れみをもって、ひとり息子を亡くした母親に「もう泣かなくともよい」と言われたのである。悲嘆のどん底にあった彼女はどんなに慰められたことだろうか。これまた、この母親の立場になってみなければ分からないことだが、こちらの悲しみを自分の悲しみであるかのごとく、内臓が揺さぶられるような思いをもって接してくれる人がいるというのは、どんなに大きな支えだろうと思う。人はこのような愛に触れる時、心は動きだし、生きていけるようになるのである。
 ちなみに、聖書に出てくるたとえ話の中でも有名な「放蕩息子」の物語の中に、放蕩に身を持ち崩し、落ちぶれ果てて故郷に帰ってきた息子を見て、父が走り寄る場面があるが、実はそこにも、同じ意味を持つ「憐れに思い」が出てくる。息子はそれこそ、内臓を揺さぶられるような愛をもって迎えられたのである。その他にもマルコ1:40以下の「重い皮膚病の男の癒し」、マタイ14:14の「五千人の給食」なども「憐れに思い」が出てくる。
 さて、これらのことから聞き取りたいメッセージは、神は私たちにそのような深い愛をもっておられるということである。神の愛のなんと深く、そして慰めに満ちたものであるかということである。

出会いは人生を変える

2023-07-03 11:00:30 | 説教要旨
2023年7月2日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
 「出会いは人生を変える」 ルカによる福音書19章1-10節
 かなり前の新聞のインタビュー記事だが、京セラの創業者である稲盛和夫さんは次のように語っている。「『稲盛さんはいい人と出会えて運がよかったからだ』と思うかもしれないけれど、決してそうではありません。誰でも、親戚、家族、先生、友人、色んなところで美しい心でアドバイスしてくれた人に出会っているはずです。それをどう受け止め、反応するかで、人生は変わってくる。しみじみ、そう思います。」と語っておられる。確かに「人生は出会い」だ。その出会いに対して、稲盛さんが強調して言いたいのは、その出会いをどう受け止めるか、反応するかだということだ。それを徴税人の頭ザアカイと主イエスとの出会いで見ていきたいと思う。
 エリコの町は当時、交通と通商の要路であり、古代イスラエルの中では最も繁栄した町であった。ザアカイは徴税人の頭であり金持ちだった。この世的には恵まれた成功者。普段は大いばりの生活をしていただろう。人々は少なくとも表面的には彼に一目置いていたことだろう。しかし、徴税人は、人々から嫌われていた。その理由はいくつかある。一つは、異邦人でかつ支配者であるローマ帝国の手先となって重い税金を取り立てていたこと。イスラエルの人たちにとっては、自分たちを苦しめ、ローマの権威を笠に着て威張り散らす存在だったのだ。また、定められた以上のお金を取り立てて私腹を肥やしている者もいたからだ。さらに仕事上、異邦人と接する機会が多く、けがれているとみなされて避けられていた。
 そのザアカイがイエスを見ようと町へ出て行ったのだが、「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」と書かれている。ザアカイは人々から場所をゆずって前に出してもらえなかった程に嫌われ、無視されていた。前に出ようとするザアカイを邪魔して出させなかったのかもしれない。
 そこで、先回りしていちじく桑の木に登り、そこでイエスを見ようとした。常軌を逸する行動というほかない。それ程までしてザアカイはイエスに会いたかったのだ。そのためには、文字通り恥も外聞も捨てて、躍起になってイエスを追いかけている様子が目に浮かぶ。何故だろうか。町に出てザアカイが何とかイエスを見ようとしたにもかかわらず、地位も金もありながら、人々からは受け入れられず、孤独な、寂しい日々を過ごしていたザアカイだった。ザアカイは「失われた者」。ザアカイは誰からものけ者にされ、数えられていない、覚えられていない、無視された存在だったのだ。だからこそ、そのザアカイが何としてもイエスに会いたかったという気持ちがわかるような気がする。
 「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』」(5節)。イエスは、極めて自由な人だった。律法学者や長老たちのように自分の立場や周囲の目を恐れて、自分を狭い枠の中に閉じ込めることなく、誰とでも話し、求めに応じて助けられる方であった。イエスはいちじく桑の木に登っているザアカイに声をかけられた。ザアカイはどんなにか驚いたことだろう。そしてまたどんなにか嬉しかったことだろう。その様子を「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた」と書かれている。
 先ほどの稲盛さんの話に照らしてみると、ザアカイはイエスとの出会いに対して、「喜んで…迎えた」のである。「イエスを迎えた」、そのことによってイエスと出会う体験をしたのだ。信仰における出会いは、自分がよく理解し納得したから起きるのではなく、自分の不確かさにもかかわらず、主の言葉に身をゆだねてこそ起きるのである。だから信仰は決断であり、自分を賭ける行為でもある。
 精神科の医師であり、作家でもある加賀乙彦さんが、洗礼を受ける決心をしたのは、友人であった北森嘉蔵先生から「あなたはキリスト教信仰については充分な知識と理解をもっている。しかし山のふもとをいくら回ってみても、一歩足を山に向かって歩み出さなければ山に登れない」と言われたからであると、彼自身が本に書いている。
 ザアカイはイエスの呼びかけ、招きに応えて一歩足を山に向かって歩み出したのだ。そこに信仰による出会い、イエスと出会う体験をすることができたのである。それこそ「究極の出会い」である。人生において何ものにも代えがたい、喜ばしい出会いである。今朝もイエスは私たちに呼びかけておられる。招いておられる。それに積極的に応えようではないか。イエスは様々なチャレンジに招いておられる。