逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

天からの力を受けよ

2023-05-29 16:12:16 | 説教要旨
2023年5月28日 逗子第一教会 ペンテコステ礼拝宣教
「天からの力を受けよ」 使徒言行録2章1-13節
 今日はペンテコステの礼拝。ペンテコステという言葉は、ギリシア語の50日目という意味。何から数えて50日目なのだろうか。旧約聖書ではユダヤ教の三大祭りの一つである過越しの祭りから数えて50日目である。だから「五旬節」とも言う。この日、モーセがシナイ山で十戒を中心とした律法を与えられたので五旬節をユダヤ教の誕生の日としている。
 では、新約聖書でいう50日目というのは何を指しているのだろうか。言うまでもなくイエス・キリストの復活した日から数えて50日目となる。この日に何か特別なことが起こったのだろうか。その日のことが今日の聖書個所、使徒言行録2章に書かれている。簡単に要約して説明すると、聖霊、すなわち目には見えない神の愛としての力が弟子たちに降って、彼らが復活の証人として立てられ、キリスト教会が誕生したのだ。教会が誕生し、キリスト教が生まれた日である。だから、ペンテコステは教会の創立記念日と言っていいだろう。キリスト教会では、ペンテコステをクリスマス、イースターと並んで記念すべき喜びの日として感謝して大切にして礼拝を守る。
 では、その聖霊の降った場面を詳しく見ていこう。1節に「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まって」と書かれている。炭火もばらばらではうまく燃えない。呼び集められ、心を一つにし、共に祈る時、主は私たちの信仰を燃え立たせてくださる。弟子たちは「あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる」(1:5)という主の約束の言葉を信じ、この日も集まって、一緒に祈っていたのだ。
 この時、突然激しい風のような音があたりに響き渡り、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とある。これは、聖霊が彼らに臨んだ様子を具象的に、目に見えるようにイメージして描き出した表現である。「風」は、聖霊の自由な働きを示し、「炎」はその力を表す。灯油はそのままでは単なる液体だが、火がつくと勢いよく燃え始める。人間もそのままでは弱く心もとない存在だが、ひとたび「聖霊の炎」に燃やされると、エネルギー、力が与えられ、大きく用いられていくのである。この「霊」は、十把一からげの集団ではなく、「一人ひとりの上」に注がれる。真の「霊」は人それぞれの特質、個性を大事にし、豊かに用いられるのである。こうして、復活のイエスが約束された聖霊は、主の約束を心から信じ、熱心に待つ人たちに与えられた。このように教会のいっさいのわざは「待つ」ということから始まった。寝て待つのではない。祈りつつ、信頼して待つのである。その信仰がなければ待てないだろう。
 聖霊は神の力そのものであり、「霊」として私たちの中に働く神ご自身であり、私たちを内側から動かす力として働く。イエスは、十字架につけられる前夜、弟子たちに語られた別れの説教(ヨハネ14-16章)において、地上から去られるご自分の代わりに、「助け主、慰め主」としての「聖霊」を遣わすことを約束された。その「聖霊」がこの時、この場に下ったのである。
 「突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こって」とある。聖霊が下るのは突然であり、地上からではなく天からである。このことが示していることは、聖霊の働きは、神ご自身の働きであって、人間的な努力や考えで起こることではないということ。だから、そこに当然、私たち人間の側からすると、戸惑いや驚きが起こるということになる。
 ルターは次のように書いている。「私が来たのは、平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためであると主が言われるように十字架の福音が説かれると世の中が騒然となる。もし私たちがキリストの福音を聞いて疑ったり、驚いたりするようなことがあれば、それこそキリストがそこで働いていてくださる証しである。もし私たちがキリストの福音を聞いて、その通りだと思い、何の疑念も残さないなら、私の知恵は働いているかもしれないが、キリストは働いておいでにならない」(『ガラテヤ大講解』聖文舎)。神の起こされる出来事に人間が驚くのは当然であって、驚きがないなら福音ではないということである。その出来事は我が身にも起こる。天からの力を受けよ、である。祈りつつ、信頼して待つのである。

義とされたのは誰か

2023-05-22 12:28:17 | 説教要旨
2023年5月21日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「義とされたのは誰か」ルカによる福音書18章9~14節
 今日の聖書箇所で、主イエスは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」(18:9)、対照的な二人の祈りのたとえを話される。ここで主イエスは対照的な二人の祈りのたとえを通して、何を教えようとされたのだろうか。
このたとえの眼目は、義とされる者は誰か、ということ。義とされるとは、神に「よし」とされること。神に罪赦され、神に受け入れられることである。それはまず、神の方から、神と私たちとの間に、欠けや不安のまったくない十全な交わりを結んでくださるのである。神との和解である。そして、共に生きてくださるのである。そのようにして共におられる神は、決してその関係を閉ざされない。赦すために神はいつも私たちの祈りを待っておられるのである。
 では、対照的な二人の祈りを見てみよう。ファリサイ派の人の祈りは、「わたしはほかの人たちのように、……でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します」とあるように、人と比べて見下している傲慢さに問題がある。それは、祈りながら、彼の目は、神さまにではなく、人に向いていることにある。神の前に立ちながら、心は人に向いている。人と見比べて自分を誇っている。そこに、生活態度としては申し分のないこの人の祈りに隠された偽善が見え隠れしているのである。
 もう一人の登場人物、徴税人の態度は正反対である。彼の祈りは、「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(13節)。人は、無意識の内に過ちの言い訳を探して生きている。そしてその言い訳はいつでも、いくらでもある。自分の生きている現実を誤りなく、ごまかしなく見ることは本当に難しい。人間の本性は、人には厳しく、自分には甘い。しかし、この徴税人は「罪人のわたし」と告白している。それは、神の前に出てはじめて明らかになる生の現実である。「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず」とあるように、徴税人はとても神の前に出られるようの者ではないという意識があるが、心は神に向かっている。だから神に向かって「憐れんでください」と祈ったのである。
 では、神の前に出るとはどういうことだろうか。それは神はどのように見ておられるか考えてみることではないだろうか。もっとわかりやすく具体的に言うならば、神の言葉である聖書に照らして自分を返り見ることである。
 ファリサイ派の人の顔はおそらく堂々と天に向けられていただろうが、心は神にではなく、人に向いていた。しかし、顔を天に上げようともせず、うつむいて胸を打つばかりの徴税人の心は、すべてを知っておられる神の前に一人立っている。もし、ファリサイ派の人がこの徴税人と同じように神のみ前に立っていたら、人を見下して自分を誇る偽善が暴かれ、徴税人と同じ告白をせざるを得なかっただろう。
関係性が人間を形成するように、神との関係がその人の信仰の姿を作り、その信仰の姿が祈りに現れる、というわけである。さらに言うならば、神との関係が他者との関係に現れるということでもある。
 対照的な二人の祈りのたとえを話された後、イエスは言われた。「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)。聞いていた人々は、この言葉に言いようのない衝撃を受けたことと思う。だれもがファリサイ派の人が義とされ、徴税人は捨てられると思っていた。恐らく徴税人自身もそうだろう。このイエスの言葉は、その世間的常識を根底からひっくり返す、驚くべき宣言である。
 イエスに「義とされて家に帰ったのは」と言われた徴税人は、その後、神と共に、それまでの生活を清算して新しく出直したことだろう。彼は、目の前に開かれた、まだ一度も歩いたことのないこの新しい道に踏み出していったことだろう。
 主イエスは、このたとえを通して、この出発点にすべての罪人を招いておられる。神の前に出て神と向き合って、己の罪の現実を認め、御前に告白しようとする者を神は丸ごと受け止めてくださる。そのようにして、義としてくださる神の前に神は私たちを招いておられる。そこから、神が私たちの全存在を担ってともに歩いてくださる神との新しい生活が始まるのである。義に生きる生活が始まるのである。神は今日も、「罪人のわたし」を招いてくださっている。「わたしを憐れんでください」と主の前で告白し祈りましょう。

感謝して祈りなさい

2023-05-15 11:36:03 | 説教要旨
2023年5月14日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「感謝して祈りなさい」 フィリピの信徒への手紙4章6-7節
 祈りについて書かれている御言葉は聖書の中にたくさんある。詩篇などの多くは祈りの言葉と言っていいだろう。また、主イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」は特に大事にされている。パウロも手紙の中で多く祈りについて書いている。今日の聖書個所もその一つで、比較的よく知られた、印象深い個所である。
 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(4章6-7節)
 何も思い煩うことはないではないか。あなたがたは祈ることができるではないか。そうです、祈りは人間に与えられた神さまからの贈り物である。信仰があるなしを問わない。どんな宗教を信じるかも関係ない。人間だけが祈ることを知っている。そこで、パウロは、思い煩いを振り切ってこそ、初めてなしうるかと思われる祈りを勧めている。そのような祈りは、事ごとに感謝をもって、祈りと願いとをささげればよいのだと言うのである。ここでも私たちの求めるところを何でも申し上げたらよいではないかと勧められている。ただし、よく読んでいくと、すぐ分かることだが、いかなることについても、「感謝を込めて」祈りと願いをせよと言っている。パウロは、あらゆる求めが、常に感謝を伴うものであるはずだと言っているのだ。
 感謝を伴うと言ったが、常識では、祈りや願いが満たされて初めて感謝することになるのではないか。しかし、ここでは、求める祈りが先にあって、その後に感謝がくるというのではない。感謝が先だっている。感謝に始まる。何を祈り求めても、それに感謝を添えるのだ。そして、もちろん感謝に終わるのだ。昔、経堂教会の中村三郎先生は、よく言われた。キリスト者の生活は、何事も感謝に始まり感謝で終わる。祈りに始まり祈りで終わる。よく言ってましたね。耳タコです。その頃のことだが、夜の祈祷会で名前は忘れたが、アメリカの女性クリスチャンの書いた『いつも感謝』という本を紹介しながら、先ほどの何事も感謝で始まり感謝で終わることをよく言われた。その頃の私は信仰が未熟だったのだろう、すべて感謝と言われてもなあ、とその教えに実感が伴わなかった。しかし、段々とすべてのことに感謝することの意味やその恵みに気づかされてきた。そういう祈りこそ、私たちに深い、人の知恵では測ることのできないほどの平安が与えられ、祈る私たちの心を守るのであるということを少しずつ実感するようになった。そしてさらにパウロが「キリスト・イエスによって」とはっきり言っていることを忘れてはならないと思う。祈りの終わりに「イエス・キリストのみ名によって祈ります」の「イエスによって」ですね。何事も主によってなされるということである。
 祈りについてのパウロの言葉と言えば、もう一つ、すぐに思い起こすものがある。第一テサロニケ5章の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(16-18節)。ここでパウロは、「絶えず祈りなさい」と言う。祈りを絶やすなと訴えている。そして、その祈りを勧める言葉を、サンドイッチにように挟んでいるのは、一つは、「いつも喜んでいなさい」という勧めであり、もう一つは、「どんなことにも感謝しなさい」という勧めである。いつも、絶えず、すべてのことについて、喜び、祈り、感謝する。ここにパウロの信仰の理想が語られているとも言えるだろう。いやむしろ、ここにパウロ自身の信仰の生活、祈りの生活が反映しているのではないか。パウロの言葉に即して言うならば、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」なのだ。ここでも、「キリスト・イエスにおいて」と、はっきり語られているのを心に刻みたいと思う。
 私たちの人生には、様々なことが起こる。思わず感謝の叫びを呼び起こすようなことも起こる。しかしまた、私たちを不安にさせること、恐れさせること、苦しめること、悲しませることも起こる。心の表面には絶えず波乱が起こる。私たちはそのたびに揺れ動く。しかし、そのような時にも、私たちの心の深いところには、存在の深いところにと言った方がよいかもしれない、そのところで揺るがない平安がある。それは、いつどんなところにおいても、主が共にいてくださるからである。インマヌエルの主である。これこそ感謝すべき第一のこと。感謝することによって、私たちはこのことを繰り返し、神のみ前で承認する。繰り返し新しく、この信仰の事実に立ち返る。そこから祈りが始まる。そこからこそ、どんなことでも祈れる祈りが始まるのである。だからこそ、感謝がなければ祈りは始まらず、祈りは続かないのである。何事も感謝をもって祈ろう。主が共にいてくださる。

「医・食・住・友・労」って何?

2023-05-08 14:30:30 | コラム
 高齢者の生活で常に確認しておきたいことは「医・食・住・友・労」だそうです。新聞記事から。「医」は医療、「食」は食事、「住」は住まい、「友」は友人関係、「労」は役割です。病院にかかっているのか、1日3回の食事はどう確保しているのか、安心できる住まいはあるか、頼れる友人や知人はいるか、ボランティアや地域活動など社会の中でどのような役割を担っているのか、といったことです。これらは高齢者の生活がうまくいっているかどうかの目安になるそうです。
 さて、そこで高齢になると、車を手放し、次は自転車にも乗れなくなり、もっぱら徒歩となる。近所の用足しや活動は歩いて済ませられるが、遠出となるとバス・電車かタクシー。「車がないから病院に行くのも面倒で、最近はかかってない」とか「スーパーが遠いので、近くのコンビニの弁当やパンばかり食べている」などなど。移動手段が変化することで「医・食・住・友・労」がどう変化するのか、考えておく必要があると記事は伝えています。皆さんはどのように備えられていますか。いや、もうすでにクリアしておられますね。 

恐れることはない

2023-05-08 12:26:20 | 説教要旨
2023年5月7日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「恐れることはない」 ルカによる福音書8章40-56節
 イエスが帰って来られると、会堂長のヤイロはイエスのところに行って、会堂長としてのプライドを捨て、イエスの足元にひれ伏し、死にかけている一人娘のために懇願する。ここに切実な命の叫びがある。
 しかし、ここにもう一人、切実な命の叫びをもった女性がいた。押し迫る群衆にまぎれて「後ろから」イエスの服にふれた女性である。「十二年このかた出血が止まらず、医者に全財産を使い果たしたが、だれからも治してもらえなかった」(43節)女性だ。律法では出血が止まらない女性は「けがれた存在」として(レビ記15:19-30)、人にふれるような場所に出ることを禁じられ、社会的な交わりから断たれていた。女性として子どもを産むことのできない苦しみも負わされて生きていた。二重三重の苦しみが彼女を絶望へと追いやっていた。
 その彼女がこのイエスならと律法を犯すことを承知で「後ろから」イエスにそっと近づき、その衣に触れたのだ。触れた時、不思議にもその病は癒された。ところがイエスは「わたしに触れたのはだれか」と言われる。そばにいたペテロが「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」といぶかしがるほど、イエスのこだわりは人々に奇異なものに映ったことだろう。
 このイエスのこだわりとは何だろうか。イエスにとって、彼女は群衆の中の一人ではないのだ。「わたしから力が出ていったのを感じた」イエスは、その相手が、他の人には分かってもらえない「命の叫び」を抱えた者であることを感じ取られたのだ。それゆえイエスは、女性が 「後ろから」触って癒された時、「大勢の中の誰か」で終わってしまうのではなく、そこで彼女と言葉を交わして人格的に出会いたいと「こだわられ」たのである。そして彼女にとってもこの出会いは単に「病気がいやされた」だけではなく、それ以上のあるものを受け取ることになったのだ。それは信仰。自分の病気のみならず、精神的な苦しみを含め、自分の生のすべてを受け止めてくださったイエスとの出会いが彼女に真の信仰に目覚めさせたのだ。怒られるわけでもなく、イエスはさげすまれるわけでもなく、正面から一人の人間として向き合ってくださったのだ。彼女はすべての恐れから解放され、信仰を得た。だからイエスは宣言される。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」。すべてを受け入れてくださる方がおられる。これほどの安心はない。だから彼女はすべてを告白した。震えながらではあったが、怖さを乗り越えることができたのだ。
 そこに娘が亡くなったという最悪の知らせが届く。ヤイロは深い失意のうちに落とされたことだろう。ところが、人間の希望のついえたところで、イエスによって「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」という、神における希望が宣言される。それぞれが抱えている切実な命の叫びを受け止め、それぞれにふさわしい形で救いを現わしてくださる神と出会うために、ヤイロは絶望を味わわなければならなかったのだ。しかし、その時のヤイロの切実な命の叫びは神に届いていなかったのではない。確かに神はその叫びを受け止め、彼が絶望を味わっているその時にこそ共に歩んでくださったのである。
 このように絶望の淵にある長血を患っている女も会堂長のヤイロもともに、切実な命の叫びをイエスのところに持っていく。それに対してイエスは切実な命の叫びを受け止め、人格的に出会われるのだ。そこに救いはあり、癒しがある。私たちも、真剣にイエスに向かって祈りたいもの。必ずイエスはそれぞれにふさわしい形で応えてくださる。イエスは人格的にそれぞれにふさわしく向き合って出会ってくださる。信じて祈りましょう。