逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

こういうのなんて言うの?きれいなんだけど。

2020-01-28 11:58:04 | 写真
南町田に昨秋、オープンした「グランべりモール」にあるもの。
映画館が入っている建物の入り口の広場に設置してある。
こういうのなんて言うの?? 電飾?ネオン?野外彫刻の一種? 
見上げるほどの大きさ。
デザイン、色がいろいろ変わる。これは夕方に撮ったもの。
とにかく最新の技術を駆使した創作物ではある。 

深い淵から主を呼ぶ

2020-01-28 11:14:57 | 説教要旨

<先週の説教要旨>2020年1月26日 主日礼拝 杉野省治牧師
「深い淵から主を呼ぶ」 詩編130編1~8節

 信仰をもって分かったのだが、クリスチャンになる前の私は(私だけでなく、無宗教の多くの日本人は)、試練の時、悲しみにある時、絶望的な状況に置かれた時に、この詩人のように「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます」と呼び掛ける対象を持っていない。この詩人は呼びかける対象を持っている(それは同時に応答があると信じていることを意味する)。この詩人は、深い淵から主を呼ぶ。呼びかけられる対象があるのだ。それは答えてくださる神だ。だから「あなたを呼びます」ということができる。祈ることができるのだ。

 この詩は苦難、苦悩の奥底から神に助けを呼び求める言葉をもってその歌を始めている。この詩人はそういう中から神に呼ばわっている。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら/主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり/人はあなたを畏れ敬うのです。わたしは主に望みをおき/わたしの魂は望みをおき/御言葉を待ち望みます。わたしの魂は主を待ち望みます」(3~6節)。罪という問題から深淵というものを感じ、その所から神に呼ばわって、神のゆるしを待ち望んでいるのである。

 言うまでもなく旧約の神は義の神であり、もろもろの人の罪を処罰せずにはおられない厳しさを持っている。しかしそれ以上に憐れみの神であり、赦しの神である。神の義は常に神の愛に包まれている。神学者で牧師であった浅野順一先生は、次のようにある本で書いておられる。「義は義によって義であるのではなく、義は愛によって始めて、真に義であることができる。そうでなければ義はしばしば憎しみに変わる。主イエスの教えるごとく敵をも愛する愛、そこに神の義が成り立つ」。

 詩人の今ある状況は深淵にたとえられているほどに厳しく暗くあった。しかし暁は近いのである。詩人が主を待つと言っているのは、主の「いつくしみ」「あがない」を期待するからであり、そこに赦され難き不義なる罪も赦される根拠があり、救われる理由があるのである。そのためには人間の側において何の保証も努力も必要としないのである。使徒パウロが神の憐れみと慈しみについて、ロマ書9:15-16で「神はモーセに、/『わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、/慈しもうと思う者を慈しむ』と言っておられます。従って、これは、人の意志や努力ではなく、神の憐れみによるものです」と言っていることに通ずるであろう。

 神のゆるしを待ち望むことを新約への預言とするならば、それはイエス・キリストを待ち望むことであり、本当に神に赦されるよりほかに私たちの新しい人生はあり得ないのだということをこの詩人は知らされ、待ち望んでいたのである。そしてその神の御言葉が肉体を持って宿ったのがイエス・キリストであり、十字架の上から「あなたの罪はゆるされた」と宣言してくださるのである。ゆるしを感謝して受け取ろう。そして信じて新しい希望の世界に生かされていこう。「主に望みを置いて待つ」という信仰である。

主にある平安

2020-01-21 16:49:19 | 説教要旨

2020年1月19日 主日礼拝宣教 杉野省治牧師
「主にある平安」  ヨハネの黙示録21章1-4節

日本は高齢社会となり、最近テレビや新聞などで高齢社会に関するものを多く目にするようになった。以前、NHKの「クローズアップ現代」で遺品整理の話題を取り上げていた。お金を払って遺品整理業者に任せて片が付くようなことでもなさそうだ。形見分けだの、もったいないから売ろうとか、親しい人に使ってもらえたらとか、何かと大変そうだ。

一方、当事者の高齢者の側からは、今、終活ということが話題になっている。どのように死を迎えるか。俳優の樹木希林さんが一昨年に亡くなられたが、彼女がその2年前に広告で「終活宣言」をして「死ぬ時ぐらいは好きにさせてよ」というフレーズで話題になった。実際の彼女の終活は自分で事前に用意周到に準備して置いたそうだ。もちろん家族にも伝えて同意を得ていた。そうして、最後の最後まで、立派に仕事をやり通したのだった。見事、というほかない。

 かなり前だが新聞でも「最期は好きにさせてよ」という特集が載っていた。三人の識者の意見が載っていた。「おひとりさま」で有名な社会学者の上野千鶴子さんは「おうちで死ねる社会に」と言い、介護者メンタルケア協会代表の橋中今日子さんは「自宅が幸せ」幻想では、と言うし、在宅医療に取り組む医師,遠矢純一郎さんは、死に場所、家族で話そう、と言っていて、「最期は好きにさせてよ」と言ってもそれぞれに言い分があり、なかなか難しい問題だと思った次第。

 その家族に同意を得る、または話し合っておくのに、カードで楽しくゲームをしながらやるというのがある。「もしバナゲーム」というカードだ。新聞で紹介されていて、すぐカードを購入した。最近、全国の介護施設などで広がっているカードゲームだそうだ。「余命半年」と宣告されたら何を優先して生きるか。トランプのような36枚のカードでゲームをしながら考えるのだ。自分らしい最期を迎えるため、早いうちから終末期について家族らと話し合っておくことは大切。でも、なんとなく「縁起でもない」という理由で避ける傾向がある。このカードゲームのいいところは、ゲーム感覚でそんな難しい話題を家族や友人と考えたり話し合うことができることである。

 このゲームは、カードに「誰かの役に立つ」「痛みがない」「家族と一緒に過ごす」などと書かれているので、自分にとって大事なこと、希望するカードを選ぶ。そしてなぜそれを選んだか理由を考え、家族や友人に説明し、話し合う。自分と他人との死生観や価値観の違いが分かり、大変面白いゲームだ。私たち夫婦もやってみた。まず私が自分にとってとても重要、ある程度重要、重要でないと36枚のカードを分ける。同時に連れ合いは「私がどう思っているか」を想像して、同様にカードを分ける。そして、互いの選んだ「とても重要」を比べる。私たちの場合、とても重要の10枚のうち5枚が一致した。多いと思うか少ないと思うか微妙なところ。一致したカードは、確かに日ごろ私が連れ合いに言っていたことだった。その後、なぜそれを選んだの?そんなことはあまり重要ではないよ、などと話が弾んだ。確かに楽しい。今度は子どもたちと親子の関係でやってみたい。 

その36枚のカードの中には「祈る」「宗教家やチャプレンと会って話せる」「神が共にいて平安である」といったカードも入っている。私はもちろん3枚とも重要なことだと選んだ。その中でも特に望むのは「神が共にいて平安である」というカード。しかし、人生は自分が考えているようにはなかなかうまくいかない。クリスチャンだって同様。クリスチャンになっても、私たちの中で最高の信仰生活をしていると思っている人は一人もいないと思う。むしろこれではだめだと自分にむち打つような思いを皆持っていると思う。

今日の聖書箇所、ヨハネの黙示録21章4節には、時の流れの終わりを「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」という言葉で締めくくられている。私たちの人生には、最後に死が待ち受けている。しかも死は、これでよしとする答えをもたらしてくれない。物事の推移に伴うあいまいさと不確実さ、そして未解決の問題は、人生につきものだ。それらをよしとする答えを持ち得ないまま終わりの幕を閉じる。それをどのように取り繕っても、肉の存在としての私たちの現実から取り去ったり、解決することはできない。だから、死を迎えるとき自分の努力で平安を得るなどということは大変難しいと言わざるを得ない。

けれども聖書は、死が終わりを告げる時、向こう側からやっておいでになるキリストを指し示す(2~4節)。向こうからやってこられるのだ。そして、このキリストは死が残した問いのすべてを引き受けてくださるというのである。だから、そのお方にゆだねることを知る者、信頼する者は死が残す問いがあったとしても恐れない。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」世界をキリストに見るからである。だから平安なのだ。平安が与えられるのである。そのような平安が得られる信仰をしっかり持ち続けたいと願っている。すべてを主にゆだね、従っていく人生を全うしたいと願っている。主にゆだねよう。そして残りの人生、精一杯生きていこう。

すべてのものを良しとされた神

2020-01-14 13:49:13 | 説教要旨

2020年1月12日 主日礼拝宣教
「すべてのものを良しとされた神」マルコによる福音書10章13-16節

 キリスト教は「愛の宗教」であるとよく言われる。では、キリスト教の「愛」とは何か。それは「神の愛」。それはどんな愛なのか?まず、「神の愛」とは、愛の対象はすべての人であること。そして無条件で一方的で、無限、永遠であるもの。それは神の本質そのものであり、神とはそういうお方であるということである。「神は愛なり」である(第一ヨハネ4:16)。そのことを聖書は最初から宣言して、私たちに示している。創世記の最初の天地創造のところに、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とある。「良しとされた」。この言葉は繰り返し語られ、31節で「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と締めくくる。神はすべてのものを良しとされた。これが究極の愛。愛の表現である。

 卑近な例で話そう。赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すり、あやして言う。「おお、よし、よし」。優しい、なんと愛情のこもった言葉だろうか。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思う。この「よし、よし」はもちろん「良い」という意味だから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、この時、赤ちゃんは「良い存在」として全肯定されている。先ほどの天地創造の時、神が宣言された「よし」と同じである。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」とか「眠い」とか、理由があって泣いているのだから、ちっとも「良く」ないのだけれど、母親はにっこり笑って、「おお、よしよし。すぐに良くなる、すべて良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ、今良くしてあげるからね。何も心配しなくてもいいのよ。おお、よし、よし。おまえは良い子だ。良い子だね」と言葉がけしながら対応する。この言葉がけにはもう一つの思いが込められているだろう。それは全面的に存在を受け入れているということ。わかりやすく言うと「今そこに生きていること」自体が「よし」とされていること。「いいよ、いいよ」ということだ。

 私たち大人はそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きているが、誰もが赤ちゃんの時にそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して今日まで生きてこられたのではないか。生きる力を与えられてきたのではないか。「おお、よし、よし」はその人の最も深いところで、いつまでも響き続けているのである。

 その意味では、生まれて最初の「よし、よし」は、生きる上での原点ともいえるのではないか。何しろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖である。それまでの母体内での天国から突然放り出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げる。「産声」である。この世で最初の悲鳴である。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っているではないか。そして母親はわが子を抱き上げて、微笑んで語りかける。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉、「おお、よし、よし」。

 今日の聖書箇所もそうである。弟子たちは幼子の存在を否定的に見ている。受け入れていない。だから、叱ったのだ。「女、子どもの来るところではない」という差別と偏見。しかし、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができると言われ、子どもを抱き上げ、祝福される。このように私たちは神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして生かされているのである。このことは何も子どもだけのことではない。女、子どもをはじめ、罪人、障害や重い病にある人、奴隷、異邦人など、いわゆる社会で小さくされた者、弱くされた者、周辺に追いやられた者などに対して、主イエスは正面から向き合い、教え、宣べ伝え、癒され、共に歩まれたのだ。

 存在の孤独に、生きていることの孤独に胸が締め付けられるような夜は、親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみよう。きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「おお、よし、よし」が聞こえてくるだろう。そして、その言葉の背後に、すべてのものに微笑んで呼びかける、宇宙最初の神の「よし、よし」も聞こえてくるだろう。そして、主イエスが「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」その祝福を私たちにも今日、同じように招いて祝福してくださる主イエスの声が聞こえてくるだろう。そこに私たちは生きる力を感じ、喜びがわいてくる。それが神の愛のすごいところ、すばらしいところである。