逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

祈りの法則

2021-02-09 15:04:34 | コラム
<コラム> 祈りの法則
 英国の神学者・牧師のウィリアム・バークレ―は祈りには法則があると書いている(『希望と信仰に生きる』)。
 ①「祈りは神が我々のために何かをなさることではなく、我々が自分でやれるように助けてくださることである」という。神は私たちが自分でやれることを私たちに代わってやるようなことはなさらない。神は簡単な逃げ道ではない。祈りは私たちのなすべきことを神に押しつけることではない。神頼みはダメということ。祈りは神が私たちに自分でできるようにさせてくださる、そのための手段である。
 ②「祈りは状況を変えず、我々を変える」という。状況は前と変わらない。だが、私たちは新しい勇気と新しい力とそれに取り組む新しい能力を持って、その状況に対応できるのである。祈りは、私たちが人生の困難に新しい仕方で対処できるように、助けてくれるのである。
 時に、自分の祈りを吟味してみよう。祈りが変われば信仰が変わる。信仰が変われば人生が変わる。     

悲しみと赦し

2021-02-09 11:35:14 | 説教要旨
2021年2月7日 主日礼拝宣教
「悲しみと赦し」 コリントの信徒への手紙二2章5-11節
 5節に「悲しむ」という言葉が使われているが、何か不祥事があったようだ。教会の誰かがということだろう。詳しいことは書いてないのでわからない。それはパウロ自身にとって大きな悲しみであった。同時にそれはあなたがたすべての悲しみでもある、というふうにパウロは言っている。
 パウロはここで、不祥事を起こしたその人に対する自分の思いを「悲しみ」という言葉で表現している。そして、その悲しみの感情をあなたがたも持ってほしい、というのだ。ひどいことをしてくれた、おかげで自分たちは恥をかいた、そういう意味での怒りや憎しみではない。あるいは、もうあきれ果てて突き放してしまう、という思いでもない。「悲しみ」である。パウロ自身が深く悲しんだ。自分たちの仲間の犯したそういう罪悪、あるいはスキャンダルであったかもしれないが、それをパウロは「悲しむ」という表現で言っている。
 人は、自分のしたことに関して、怒りや憎しみを人々から受けて、そこで反省をして自分の非を認める、ということはあまりない。自分自身の非というものはわかっている。わかってはいるけれども、素直に認められない。人から責められて、そして「ああ、そうか」というふうに素直に認めることはなかなかできない。非はわかっていても反発をしてしまう。自分だけではないのではないか、というふうに考える。相手がそんなことを言ったり、やったりするから、そうなったんだと、人のせいにする。そういう形で自分に向けられている怒りや憎しみに対しては、人間はどこかで反発をする。しかし、自分のしたことに対して悲しまれるとき、人は苦しくなる。あるいは、そうやって自分のしたことについてほかの人が悲しんでいるということを知ったときに、自分の非、つまり間違いを知らされる、認めさせられるという経験をする。
 ルカ福音書に、イエス・キリストが捕らえられて裁判を受ける場面が出てくる。弟子のペテロはその裁判のことを遠くから見守りながら、人々の中に混ざっていたのだが、あなたはあの人の弟子ではないか、あの人と一緒にいたのではないのかと言われて、彼は「知らない」と三度否認したと書かれている。その時のことがこう書かれている。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ22:61)。
 これは有名な讃美歌にも取り上げられている。「新生讃美歌」486番の「ああ主のひとみ」の2節にこうある。「ああ主のひとみ/まなざしよ 三たびわが主を/否みたる 弱きペテロを/かえりみて ゆるすは誰ぞ/主ならずや」。これは否認したペテロ、あるいは裏切ったペテロを見た悲しみのイエス・キリストの眼差しである。その眼差しの中で、ペテロ自身は自分のやったことを本当に心底知らされたのである。だからペテロは「外に出て、激しく泣いた」のである(ルカ22:62)。自分のしたことに対して周りの者が悲しむ、あるいは肉親が悲しむということは、誰にでも何かの経験があると思うのだが、悲しまれて初めて自分の罪悪を知り、あるいは自分のやったことに対する自分自身の痛みを経験するのだ。その悲しみによって、人は自分の罪悪を認めさせられるのだ。 
 パウロはさらに6-7節でこう言っている。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」。「多数の者から受けたあの罰」というのは、これもまた聖書に書いてないのでよくわからない。ただ、おそらく人々から何らかのことを言われたのだろう。あるいは注意、𠮟責をされただろうと想像される。
 しかし、それで十分だとパウロは言う。もうそれ以上追い詰めてはいけないと言う。そうでなくて、「赦して、力づけるべき」と勧めるのだ。そして、「愛するようにしてください」とも書かれている。赦すということは、痛みを自分も負うということを意味している。自分が痛むことも苦しむこともなく人を赦すなんてことは普通にはできない。赦すということは、自分も痛い思いをし、苦しい思いをすることである。特に、自分にかかわる出来事、自分が赦さなくてはならないときには、何らかの傷を自分も受ける。
 無償で赦すということはない。人々からの責めをそのそばに立って一緒に受ける。赦すということは、たぶんそういうことだと思う。そして「力づける」というのは、ただ「がんばれ、しっかりやれ」と言っているのではない。痛みを共有している、一緒に苦しんでいる、その罪のために、そのやったことのために、一緒に苦しんでいる者として力づけるのだ。
 なぜパウロがこういうことを言っているのかというと、これはイエス・キリストの私たちに対する関わり方であるからだ。イエス・キリストは私たちの罪をご自分の痛みとして、身に負い、そうして一緒に悩む方として、私たちを励ましてくださる、あるいは力づけてくださる方だった。向こう側から、離れたところから、「がんばれ」と言っているのではない。あるいは、上のほうから「しっかりしろ」と声をかけているのでもない。私たちの悩みのただ中で、一緒に罪を担いながら、共にいて、そして励ましてくださる。これこそ、イエス・キリストが私たちの救い主であるということの意味。かつて私たちを救ってくださったという、そんなことではない。今も私たちの救い主でいてくださる、私たちの罪を担っていてくださる、今も一緒にこの道を歩いてくださる。そういう中での励ましをいただきながら、私たちは生きているのである。

古くて新しい教え

2021-02-01 12:33:59 | 説教要旨
2021年1月31日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「古くて新しい教え」 ヨハネの手紙一2章7-11節
 ヨハネは7節で「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です」と記している。ヨハネの手紙とヨハネ福音書の間には信仰的に深い関係があると言われている。だから、この「古い掟」とは、ヨハネ福音書の「イエスの告別説教」といわれている箇所で主イエスが言われた「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と考えられる。「古い掟」とはこの「互いに愛し合いなさい」という教えだといえる。
 ここで、ヨハネがあえて「古い掟」と記しているのは、教会に混乱をもたらした異端者たちが、教会に伝えられてきた教えを「古いもの」と言っていたからだ。つまり、異端者たちは「互いに愛し合いなさい」という教えはすでに古くなった過去のものだからもう捨てても構わないと教えたのだ。そしてそれは、キリストの弟子たちが互いに愛し合うことを否定することだった。
 異端者たちはイエスの教えを古くなったと退け、自分たちの教えを新しいものであり価値のあるものだと教えた。そしてその教えによって教会の中に対立が起こり、教会の交わりが壊れ憎しみが起こった。その教えは「愛」を欠くものだった。
 パウロはコリントの教会を悩ませた異端者たちを「自分で自分を推薦する人」(第二コリント10:17)と指摘しているが、ヨハネの教会に現れた異端者たちにも同じ傾向にあったようだ。彼らの関心は、自分を推薦すること、自分自身で光り輝くことだった。私たちも「光り輝きたい」「認められたい」「愛されたい」という思いを持っている。しかし、自分自身が光り輝くために他者を否定するということは許されない。異端者たちは「兄弟を憎む」、つまり他者を人格的に否定した。ここには愛が欠けている。
 ヨハネは9節で、「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」と言う。異端者たちは「私たちは光の中にいる」と主張していたのだ。そして異端者たちは「(私たちは)神を知っている」(4節)と言い、「(私たちは)神の内にいつもいる」(6節)と言っていた。この神とは主イエスのこと。異端者たちは自分たちこそイエスのことを知っている者であり、イエスに属していると主張した。これに対してヨハネは4節で、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」と記す。また、6節では、「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」とも記している。
 ヨハネは、この世に肉の体を持ってこられたイエスの歩みに目を向けることの大切さを示している。ヨハネ福音書によればイエスは最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗い、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13:14)と言われた。イエスは行いによって御心を示し、ご自身の行いに倣うことを弟子に求められたのだ。
 異端者たちは歴史の中を歩まれた主イエスの姿を見ようとしなかった。もし、主イエスの地上の生涯に目を向けるなら、イエスが愛を第一にして行動していたことがわかるだろう。主イエスのようには歩めない人間の現実、しかし、主イエスに倣って歩もうとする者は、私たちに注がれた神の愛の尊さを知る者となるだろう。
 ヨハネの教会のメンバーの中には、新しいものを求めた人がいた。そして、彼らは異端の教えを受け入れてしまった。ヨハネはそのような人たちを「自分ではどこに行くのかわからない」人々であると言う。10節、11節で次のように言っている。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」。原点、ここでいう「古い掟」だが、それを見失った時、人は自分がどこにいるのかも、どこに向かっているのかもわからなくなってしまうということだ。
 「互いに愛し合いなさい」という教えは、古くて新しい教え、常に変わることのない主イエスの教えである。私たちも愛の業に励み、光の中を歩んでいこう。