逗子にあるキリスト教会の逗子第一バプテスト教会です。

牧師のつれづれ日記、地域情報、教会の様子を紹介します。

愛は降りていく行為

2024-03-01 15:40:24 | 説教要旨
2024年2月25日 横浜戸塚教会 主日礼拝宣教   杉野省治
「愛は降りていく行為」 マルコによる福音書1章1ー13節
 マルコ福音書の書き出しは「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれている。これは、父なる神様からの一方的な恵みによって、神の子であるイエスがこの世に来られて、その生涯にわたって御言葉と御業、とりわけ十字架と復活の出来事においてなされた救いのメッセージをこれから書きますよ、ということだ。だから、この1章1節は、マルコ福音書の表題、あるいは題名だといってもよいだろう。
 筆者であるマルコはこの1章1節を書いたのち、2節からいきなりイエスの公生涯の記述から始めている。他の福音書にある誕生物語はない。その2節から13節だが、ここには主イエスを救い主、キリストということを確証する三つの出来事が記されている。
 一つは2節から8節。「先駆者としてのバプテスマのヨハネの出現、登場」である。当時の人々は救い主が現れるときには、その備えをするために、かつての預言者エリアが再び現れると考えていた。そこで、そのエリアがあのバプテスマのヨハネだというわけである。ヨハネの服装は、6節に「ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め」と書かれていて、旧約聖書に出てくる(列王紀下1・8「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」)エリアの姿を当時のユダヤ人たちに思い起こさせる。そして、その後すぐにイエスが登場する。だから、このイエスこそ「あの救い主」だということを示唆しているのである。
 二つ目は9節から11節。バプテスマの時の神の声である。10節・11節に「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」とある。「天」とは神の住まわれる所、その天から父なる神がご自分と地上のイエスが一つであることを示されたわけである。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という御言葉は、イエスが誰であるか、どんな方であるかをよく表している。同時に、父なる神ご自身がイエスのバプテスマを喜んでおられる。さらに、そのことが神のご意志であることを宣言なさっておられるのである。天が開かれること、神の声、聖霊の降ることはイエスが終末の時の救いをもたらす者であることを示している。特に天からの声は「神の子」としてのイエスの身分を宣言する。イエスは終末の時の救いをもたらすキリスト(救い主)、神の子にほかならないと宣言している。
 三つ目は12節、13節。「荒野でのサタンに対する勝利」。13節に「サタンの試みにあわれた」とある。そして、すぐその後に「そして獣もそこにいたが、み使いたちはイエスに仕えていた」とある。この御言葉はサタンに勝利したことを示している。獣たちとの平和的な同居は、来るべき終末の時には獣は人間に害を加えず、従うであろうということを意味する。さらに、当時のユダヤの人々は「荒野」は終末の救いが現れる場所とも考えていたので、今や、イエスの到来とともに、この終末の救いの時に対する待望が荒野において実現すると言いたいわけである。このようにここでもイエスが救い主として到来し、サタンに勝利する者として描かれている。
 以上三つの出来事をみてきたが、マルコはこの三つの出来事だけを書いて、イエスが神の子、キリスト、救い主であるということをイエスの全生涯の序曲、プロローグとして、この箇所を書いたわけである。
 私たちは今朝、この序曲、プロローグを通して、私たち人間が天に昇るのではなくて、神様の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということを教えられたいと思う。さらに、神様が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられた、そのイエスが神の子・キリストであるというマルコの信仰告白が私たちに何を一番物語っているかを知りたいと思う。それは、神様がまず私たち罪ある人間を受け入れ、愛して下さっているということ。そして、そのことをご自身の愛するひとり子、イエス様を私たちに、この歴史のただ中においてお遣わしになったということ、神様の方から、それも一方的にイエス・キリストを通して、私たち人間の所に降りてこられたということである。このメッセージこそ福音、よい知らせなのではないだろうか。「愛することは、降りてゆく行為」と言ってもいいだろう。   
 この「愛するとは、降りていく行為である」という言葉は、20世紀の神学者、思想家のP・ティリッヒが著した『ソーシャルワークの哲学』という書物に書かれている。この言葉に学生時代に触発された人がいた。北海道医療大学教授の向(むかい)谷(や)地(ち)生(いく)良(よし)さんです。彼はソーシャルワーカーでもある。彼はもちろんクリスチャンだが、この向(むかい)谷(や)地(ち)さんがリーダーとなって立て上げた精神障がいを持つ人々が共同生活する「べてるの家」という施設が北海道浦河にある。この「べてるの家」の理念の一つが「降りてゆく生き方」である。この理念のもと向谷地さんは今日までソーシャルワーカーとして、「降りてゆく実践」をされている。 
 「あなたは私の愛する子」。このメッセージに込められている私たちに対する神様の愛に応えて、「愛することは降りてゆく行為」「降りてゆく生き方」に励みたいと思う。あなたにとって「降りていく行為」「降りてゆく生き方」とは何だろうか。思いをめぐらしてほしい。祈りつつ考えてみてほしい。きっと神さまから、具体的にこうすることだよ、とそれぞれにふさわしい「降りていく行為」「降りてゆく生き方」が示されると思う。その示された愛の行為に励んでいこう。

皆に仕える者となる

2024-03-01 12:21:24 | 説教要旨
2024年2月18日 逗子第一教会 主日礼拝宣教
「皆に仕える者となる」 マルコによる福音書10章35-45節
 ゼベダイの子ヤコブとヨハネは、主イエスに、やがて力あるメシアとして王座に着く時は、一人を王に次ぐ第二位の地位の右に、もう一人を第三位の地位の左につけてくださいと願った。それに対して、主イエスは、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか」と言われた。「杯」は旧約聖書において苦しみの運命を表す。たとえば、詩篇11:6に次のように書かれている。「逆らう者に災いの火を降らせ、熱風を送り、燃える硫黄をその杯に注がれる」。また、「洗礼(バプテスマ)」も、本来「(水の中に)沈める」を意味し、苦難の運命を表す。ルカ12:50に、主イエスは、「わたしには受けねばならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」と言われている。しかし、弟子たちは、主イエスの栄光が苦難を通し、また苦難の中でのみ現われることを理解できなかった。
 だから、彼らが「できます」と答えると、主イエスは続けて「確かにあなたがたはわたしのために苦難を味わうことになるだろう。しかし、だからといって、そのことが功績として認められて私の右と左に座れるということではないのだ」と言われた。このやりとりを聞いていた他の10人の弟子たちは、「あの二人は自分たちだけ抜け駆けしようとしてけしからん。自分だって、イエスさまの弟子として負けず劣らずがんばってきたんだ。右と左に座る資格は自分にだって十分あるはずだ」と内心思って、憤慨した。弟子たちは、完全にこの世の価値観に立って議論をしている。すべてが人との力関係の比較によって優劣がつけられる世界では、人よりも上、人よりも先に行かなければ負けということになってしまう。だから、人は他の人を蹴落としてでも優位に立とうとする。そして、強い者が力をふるうのだ。弟子たちは皆、負けたくないのだ。
 そして、このような価値観は知らないうちに私たちキリスト者の中にも忍び込んでくる可能性がある。教会内での奉仕や献金を熱心にするからといって、神の前で大きくされるわけではない。奉仕や献金はあくまでも、神の愛に対する感謝と献身の応答である。それなのに、もし私たちが自分の業を誇るとしたら、もはや感謝と献身の応答ではなくなり、神との愛の関係が壊れてしまうだろう。
 主イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「この世では、力のある者が権力を持って人々を支配しているが、神の国では価値が逆転する。すなわち、仕えられることが偉いのではなく、仕える生き方こそが尊いのだ」と言われるのである。主イエスの共同体、神の国でのあり方が、支配するとか支配されるという関係ではなく、またみんな同じで仲良しの関係だよ、と言っているわけでもなく、それをさらに超えたものとして提示されている。それは主体的な応答を促すもので、「仕える者」「奴隷」の立場に徹して、意志的に「仕えきる」ことが求められているのである。
 人の上に立って、人を支配したいという誘惑に勝つために忘れてならないのが、「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」という45節の言葉である。主イエスは仕えることの極みとして、十字架で文字通り命を捧げて下さった。十字架の意味はそこにある。だから、自分が主イエスの十字架によって仕えていただいたということを本当に知った者が、高慢や打算から自由にされ、喜びと感謝と献身の思いをもって、他の人に仕えることができるのではないだろうか。仕える者となろう。