◇私の体験談(大悟後から解脱の悟りまで)(2)◇
今回の記事では、私の大悟後の無我へのダイブの実践や、その実践から分かったことなどについて書きたいと思います。
私の無我に落ちる体験を書く上で、三十代のころの体験についても書いておいた方がいいように思いますので、まずはその体験について書きたいと思います。
以前の記事にも書いたのですが、私は31、2歳のころに1年くらいの間、毎晩寝る前に瞑想をすることを日課としていました。
当時私は、気功に興味があってカルチャーセンターの気功教室に通っていて、瞑想はそこで教わりました。やっていた瞑想は、呼吸に意識を向ける呼吸瞑想の一種で、数を数えながら吸う、止める、吐くを繰り返すものでした。
具体的には、1から順番に自分の決めた数(例えば、10)まで数えながらゆっくりと息を鼻から吸い、次にその同じ数だけ数えながら息を止め(このときは丹田を意識します)、さらにその同じ数だけ数えながらゆっくりと息を口から吐くという三つの行程をただ繰り返すものでした。
私は、この瞑想を毎日30分から1時間くらいやっていました。
そうやって瞑想を始めて何ヶ月かが経ったころ、瞑想中に不思議な現象が起きるようになったのです。
どういう現象かと言いますと、瞑想中に自分の呼吸が止まっていることに気がついたのです。
呼吸が止まらないようにいくら気を付けていても、いつの間にか止まっているのです。
そして、その現象について観察しているうち、呼吸が止まっているとき、自分の意識が完全に無くなっていることに気がついたのです。
それに気づいたとき、最初は自分が一時的に眠ってしまっているんだと思いました。
最初はそう思って納得しかけたのですが、その意識が無くなるときの様子を繰り返し観察するうち、眠っているのとはどうも違うということが分かりました。
なぜ眠りとは違うと分かったかと言いますと、呼吸瞑想ではなく普通の瞑想をやっているときに瞑想中に眠くなって本当に眠ってしまったことがあり、そのときに違いが分かったのです。
その瞑想中に起きる気絶状態が眠りではないと分かってから、私はそれが何なのかさらに観察しようとしました。
その当時、その気絶状態は毎日のように、日によっては2度、3度と起こってましたから、観察のチャンスは沢山ありました。
あるときは、気絶状態の時間的長さがどれくらいなのかと思い、何とかそれを測定できなかと試行錯誤したりもしていました。
しかし、当時の私にはそれが何なのかは分からずじまいでした。
気功教室の先生に質問したりもしたのですが、先生から有効な答えはもらえませんでした。
そうしているうち、自分でも不思議なほど、気功も瞑想も興味が無くなってしまい、全くやらなくなり、忘れ去ってしまいました。
その当時のことを思い出したのは、それから約15年が経った解脱の悟りを得た後のことでした。
この31、2歳ころの完全な無我の体験が私の悟りの道のりにどういう影響や意味があったのか、はたまた影響も意味もまったく無かったのか、私にはよく分かりません。
でももしかすると、何か関係があるのかも知れないと思い書いてみました。
次回は、大悟後の無我の実践等について書きます。
<補足です>
完全な無我の体験と悟りとの間には直接的な関係はありません。
そのような体験が無くても、解脱の悟りまで到達できます。
この点については断言できます。
なぜなら、解脱の悟りは一切の考えを掴まなくなることであり、ただそれだけのことですから、そこに完全な無我の体験の有無が関係し得るはずがないのです。
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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今回の記事では、私の大悟後の無我へのダイブの実践や、その実践から分かったことなどについて書きたいと思います。
私の無我に落ちる体験を書く上で、三十代のころの体験についても書いておいた方がいいように思いますので、まずはその体験について書きたいと思います。
以前の記事にも書いたのですが、私は31、2歳のころに1年くらいの間、毎晩寝る前に瞑想をすることを日課としていました。
当時私は、気功に興味があってカルチャーセンターの気功教室に通っていて、瞑想はそこで教わりました。やっていた瞑想は、呼吸に意識を向ける呼吸瞑想の一種で、数を数えながら吸う、止める、吐くを繰り返すものでした。
具体的には、1から順番に自分の決めた数(例えば、10)まで数えながらゆっくりと息を鼻から吸い、次にその同じ数だけ数えながら息を止め(このときは丹田を意識します)、さらにその同じ数だけ数えながらゆっくりと息を口から吐くという三つの行程をただ繰り返すものでした。
私は、この瞑想を毎日30分から1時間くらいやっていました。
そうやって瞑想を始めて何ヶ月かが経ったころ、瞑想中に不思議な現象が起きるようになったのです。
どういう現象かと言いますと、瞑想中に自分の呼吸が止まっていることに気がついたのです。
呼吸が止まらないようにいくら気を付けていても、いつの間にか止まっているのです。
そして、その現象について観察しているうち、呼吸が止まっているとき、自分の意識が完全に無くなっていることに気がついたのです。
それに気づいたとき、最初は自分が一時的に眠ってしまっているんだと思いました。
最初はそう思って納得しかけたのですが、その意識が無くなるときの様子を繰り返し観察するうち、眠っているのとはどうも違うということが分かりました。
なぜ眠りとは違うと分かったかと言いますと、呼吸瞑想ではなく普通の瞑想をやっているときに瞑想中に眠くなって本当に眠ってしまったことがあり、そのときに違いが分かったのです。
その瞑想中に起きる気絶状態が眠りではないと分かってから、私はそれが何なのかさらに観察しようとしました。
その当時、その気絶状態は毎日のように、日によっては2度、3度と起こってましたから、観察のチャンスは沢山ありました。
あるときは、気絶状態の時間的長さがどれくらいなのかと思い、何とかそれを測定できなかと試行錯誤したりもしていました。
しかし、当時の私にはそれが何なのかは分からずじまいでした。
気功教室の先生に質問したりもしたのですが、先生から有効な答えはもらえませんでした。
そうしているうち、自分でも不思議なほど、気功も瞑想も興味が無くなってしまい、全くやらなくなり、忘れ去ってしまいました。
その当時のことを思い出したのは、それから約15年が経った解脱の悟りを得た後のことでした。
この31、2歳ころの完全な無我の体験が私の悟りの道のりにどういう影響や意味があったのか、はたまた影響も意味もまったく無かったのか、私にはよく分かりません。
でももしかすると、何か関係があるのかも知れないと思い書いてみました。
次回は、大悟後の無我の実践等について書きます。
<補足です>
完全な無我の体験と悟りとの間には直接的な関係はありません。
そのような体験が無くても、解脱の悟りまで到達できます。
この点については断言できます。
なぜなら、解脱の悟りは一切の考えを掴まなくなることであり、ただそれだけのことですから、そこに完全な無我の体験の有無が関係し得るはずがないのです。
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読んで頂いてありがとうございました。
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お気づきのように、それは既に瞑想状態です。(^^)
そのように、瞑想の方から自然とやってくるようになります。(^^)
瞑想には興味がないと、上述しましたが、
昨日の掲示板に記載されている、
>「全ては考えである」という考えも手放していくことになります。
というご回答を読ませて頂きまして、
「わたし」という考えを初めて持つ前の、
ハッとした意識をイメージしていたら、呼吸を吐き切って吸うということが自然に始まりました。
集中すると思考が出てこないので、これは、瞑想状態に近いものなのではないかと思いました。
因みに、ハートのコアが出てきたことが一度だけあるのですが、その時は、「わたし」と初めて認識した時のことをイメージしてみましたら、深く吐く呼吸が始まり、集中しかできなかったので、これも瞑想状態に近いものなのではないかと思いました。
おそらくですが、瞑想が必要な方は、意図してそれをやろうとしなくても、私のように勝手に瞑想が起きてくるようになるのではないかと思っています。
悟りの道中とは本当によく出来ていると我ながら関心しています。(^^)
補足ありがとうございます。
今のところ、瞑想に興味がないのでよかったです^ ^