◇確信と囚われ◇
悟りの道を歩んでいると、いくつかの特徴的な理解(気づき)やそれに伴う確信が生じることがあります。
例えば、言葉で言うと、神、根源、真我、全体、不二、ニュートラル、無、空などです。
感覚的なもので言えば、幸福感、無我や観照の感覚、見るものは見られるものという主客の統合感などです。
この「確信」という感触、これは悟りの行程において気づきに伴って生じる極めて当たり前の感触ですが、これがとてもやっかいなのです。
それが起こった瞬間、そのとき得た気づき等の理解や感覚を、「これだ!」と握り締めてしまうのです。
そして、握り締めた人はそれの握り締めた考えを外に向かって主張したりします(そういう私も散々やってきましたが、笑)。
「確信」とは、その文字の通り、何かをしっかりと信じてる訳なんです。
つまり、何かをしっかりと握り締めている訳です。
そのままでは、それまで握り締めていた考えを、その何か別の考えに握り替えただけです。
ですから、悟りの道を歩んでおられる方で、自分に何か確信がある方は、その確信についてまずは疑って頂きたいと思います。
あなたは考えである幻を後生大事に抱え込んでいる可能性があります。
誰がそれを確信しているのですか?
誰がそれを絶対に間違いないと考えているのですか?
あなたでしょ?
そもそも、この世界に絶対に間違いないなんて断言できることなどあるのでしょうか?
ご自分の口から確信を持って放たれているその言葉について、一度振り返ってみて頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※次回の講話セッション、個人セッションは6月28日(日)です(上のリンクを参照ください)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
哲学・思想 ブログランキングへ
悟りの道を歩んでいると、いくつかの特徴的な理解(気づき)やそれに伴う確信が生じることがあります。
例えば、言葉で言うと、神、根源、真我、全体、不二、ニュートラル、無、空などです。
感覚的なもので言えば、幸福感、無我や観照の感覚、見るものは見られるものという主客の統合感などです。
この「確信」という感触、これは悟りの行程において気づきに伴って生じる極めて当たり前の感触ですが、これがとてもやっかいなのです。
それが起こった瞬間、そのとき得た気づき等の理解や感覚を、「これだ!」と握り締めてしまうのです。
そして、握り締めた人はそれの握り締めた考えを外に向かって主張したりします(そういう私も散々やってきましたが、笑)。
「確信」とは、その文字の通り、何かをしっかりと信じてる訳なんです。
つまり、何かをしっかりと握り締めている訳です。
そのままでは、それまで握り締めていた考えを、その何か別の考えに握り替えただけです。
ですから、悟りの道を歩んでおられる方で、自分に何か確信がある方は、その確信についてまずは疑って頂きたいと思います。
あなたは考えである幻を後生大事に抱え込んでいる可能性があります。
誰がそれを確信しているのですか?
誰がそれを絶対に間違いないと考えているのですか?
あなたでしょ?
そもそも、この世界に絶対に間違いないなんて断言できることなどあるのでしょうか?
ご自分の口から確信を持って放たれているその言葉について、一度振り返ってみて頂きたいと思います。
◇「私」に意識を向ける自覚についてのご紹介は、例えばこの文章をお読みください(「自覚を始められる方へ」)。
◇セッションのご案内はこちらです。
※次回の講話セッション、個人セッションは6月28日(日)です(上のリンクを参照ください)
コメント大歓迎です。気軽にお書きください。
読んで頂いてありがとうございました。
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私はそのブログ主と違いますから、分かるはずがないですよ。
気になられるのでしたら、直接おのブログ主に聞いてみてくださいな。
上で挙げた囚われの例の中には、「不二」は入ってなかったのですが、Unknownさんからのご指摘を受けまして、追加しました。
>遠回しでは、あれの論理的な矛盾点は見いだせない!
遠回しでも伝わる人には伝わります。
いくら直接的に強く指摘しても、伝わらない人にはいくらやっても伝わりません。
ただ、不二の矛盾点はそこら中にあるのです。
しかし、分からない人には分からないのです。
遠回しでは、あれの論理的な矛盾点は見いだせない!