本日も、おおつきふれあいセンター(大槻公民館)にて、月に一度の、短歌の会、歌会が催された。
家にして結ひてし紐を解き放(と)けず思ふ心を誰(たれ)か知らむも(万葉集 大伴家持)
にして、=「で」~において。
家持が地方出張の時の歌。奥さんが下着の帯を結んでくれた。=浮気をしない決意。
旅にして物思ふ時にほととぎすもとなな鳴きそ吾が恋まさる(万葉集 一、読み人知らず)
にして=で、にあって。
物思ふ=これも、奥さんを思う。
もとなな、の、「もとな」=しきりに、やたらに。
「な~そ」~してくれるな。
ここにして蔵王の山は見えねども鳥海の山真白くもあるか(斎藤茂吉)
大石田の蔵王の山を望みつつ。蔵王を前にすると、鳥海山は斜めうしろに見えるのではないだろうか?(先生)
「にして」場所を表す時。~で、~にあって、~において。
にして、は一言ではない。
に・して=にて。
にして、は非常に意味深。(大伴家持の歌も)
ここまで、私の先月の問題の歌をモチーフにした、先生なりの解説。解釈。
前例として、今回も私の前回の一首を挙げると。「にして」の言い出しっぺの、問いを立てた、私の一首。
大槻は風吹く強き町にして屋根飛ばされし人我は知るなり
車にて通ふクラブに自転車を漕ぐ人のありスーパーのとなり
にて=にして、で、~において。場所「位置」。
「通ふクラブに」現代語と同じ使い方。~で(これもある。余り使わないが)
先生の歌。福島のスーパー、ベニマルのフィットネスクラブにて。
現代の世相を表す。わざわざ車でクラブに行って、自転車を漕ぐという、矛盾。おかしみ。
倒置する。フィットネスクラブは長すぎるので、「クラブ」とした。
(「倶楽部」漢字もダメかも知れない)。
短歌の場合は人それぞれ。これ、という答えはない。漢字で表したい人はそうしていい。
締め方の問題。
友はけふ右の乳房を全摘す癌告知より半年が経つ(生徒さんの作)
経つよりも「経(へ)し」(古典・古語)が良いのでは(先生)。経しの「し」=強調の「し」。
「半年」作者が最も強調したかった。
格助詞「の」=主語になる体言につく。これが主語ですよと。
「が」ー格下。親しい。親愛の情を感じる。
「の」ー位が上。敬意の対象。心理的距離がある。
「が」と「の」でこういう傾向、違いがある。
(歌の感想)余りに重い感じで、言葉がない。何と言ったらいいのか、やさしさがなく、厳しい歌のような。(生徒さん)
(先生)今は何でも告知しちゃうのか。私の母も告知された(片側全摘)ので。
斎藤茂吉も口語で強調して作歌した事もある。(生徒さん)「半年が経つ」で出して下さい。(短歌雑誌「群山」に)。
私の歌。
大槻のひなびた町を行きければホーホケキョとうぐひす鳴くなり
「単純化」=絶対にこれは入れとかないと困る=短歌は引き算=本当に必要なものだけを入れる。
主題は一つ。主題を絞る。
ひねらない方が良い=単純に。
言葉自体の単純化。
文の単純化。
(生徒さんのアドヴァイス=お母さんの想い、イメージを出したらもっと良くなりそう)。
古い言葉をこねくり回して使う⇒わかりづらい。余り良くない。
「歌」の語源は「訴ふ」。歌とは訴える事!
「答」は要らない。ない。
形容詞・修飾語もない方が良い。
ex)「ひなびた」=説明的である、それに過ぎる、本当に必要なのか。
改作。私の自分なりの努力と、先生の御力を借りて。
母の居るホームの帰りうぐひすの声をきくなり母の愛せし
(この場合、母が二つでも構わない)。
きく=「聞く」「聴く」漢字にしちゃうと限定されちゃう。平仮名の方が、やわらかく、想像できる。
「愛せし」の「し」私は初め、過去の助動詞「き・し・しか」だと思ったが、その場合、過去の助動詞「き」の連体形であり、前に「し」連用形となる。
あとの別の場合の「し」は、「す」動詞の連用形。
そして、先生が目論見、ここで一番に提示したのが、強調(未然形)。強調の場合は何でも付いてくる。
「愛す」サ行変格活用。
愛せず・愛して・愛す・愛する(時・人)・愛すれ(ば)・愛せよ(命令)
ex)「愛せる」の「る」を受け身の「る」がある。(受け身・可能・自発・尊敬、、)
よもぎ摘む余命幾歳知らねども餅を供えて達者であれと(生徒さん作歌)
餅を供えて=仏壇へ供えたという。
「達者であれと」息災で有れと。今年もよもぎ餅を作った。自分でもあるし、他へでもある。家族皆を願った。
「供えて」を「供ふる」で止めた方が良い。
口語、文語、どちらでも良い歌。まとまっている歌。
(先生)説明的じゃなくてもいい、と言ったが、説明があっても良い。
(先生)倒置した方が良いだろう。その方がハッキリする。
白梅(しらうめ)のにほひにさそはれ我が庭にはじめてききたりうぐひすの声(生徒さん作)
おじいちゃんの育てた梅。老木。
「白梅(はくばい)」よりも、この生徒さんの言う通り、「白梅(しらうめ)」の方が一般的で良い。
(先生)「さそはれ」=誰が誘われたのかが判らない。うぐいすの説明になってしまう。作者の解釈、これ作者かな、と。(一般読者が)。
感動をドーンと出す。自分がうぐいすだと思えばそれで良い。疑いを持たなくて良い(生徒さん自信なさげ)。
(本人が要らなければ不要=「祖父」)
推敲する前に、どう思ったか(本人、ない)。
うぐいすの姿はなかった。本物だ。本当にここに居るんだ。
改作。
白梅(しらうめ)の花にほひたる我が庭にはじめてきけりうぐひすの声
(生徒さん=「我が庭」が説明的だから「老木」にしたいと。先生は、「我が庭」は説明的ではない。感動が「老木」じゃ出ない。自分の家の「庭」で出る)
自分の庭にうぐいすが鳴いたのが感動。
今日は、午後十二時を大きく過ぎて、だいぶ時間をかけて、我々、歌会、短歌の会の学徒は、熱中して、研究に時間をかけて、一首一首に全魂を傾けて、一生懸命になって学んだ。この熱意は、次第に自分の血や肉となって、実生活上にも現れて来る事だろう。
先生も言われる通り、自分だけで作っていると本質が判らない。
研究会だから。来年の郡山市文学の森資料館でも、短歌の提出テーマがある。去年は先生が一人で出した。
今年から、来年にかけて、「群山」からも出そうと。五、六人出すと言ったら、郡山市でも喜んでいたと。
帰りに先生に、新たな生徒さんが、この歌会は、いつ頃から開いているのか?との質問に、先生は、やっと一年数か月が経つか、どうか、という所。今までは、先生のご両親が中心になって、特に近年は、先生のお母さんが執り行っていたという。
とにかく、私は、来月は一日午前十時に、この歌会がまたあるので、私は又また、参戦参加致して、より歌の世界を学んでいきたいと考えに考え、思う。
以上。よしなに。wainai、長時間(二時間余)にわたる私が取った授業のノートより。長文失礼。