Kaettekita 私が思う あのこと このことReturn(Get Back Part2)

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母の出身母校、東京都立戸山高校。(※後日、記事付け足し、画像付き、私なりの、自身の、高校受験に於ける感慨含む。)

2022年10月13日 15時59分43秒 | 学校・教育特集・学生生徒時代の想い出
 母の出身校は、東京新宿にある、東京都立戸山高等学校である。
 これも、先に書いた私の出身校、安積高校同様、難読文字、難読地名高校である。
 何より、「とやま」という響きが、何故か、富山県の「とやま」と近く同じく、東京都出身者以外には、全く知られていない。これも無名校、難読高校である。
 しかし、聴く人よ、驚く事なかれ。この、東京都立戸山高校は、凄い高校なのである。
 東京都の人は、大体は話が分かる。「戸山、へえ、すごいねえ」と。
 この戸山高校は、昔の都立高校の中でも、当時、御三家、三大都立と呼ばれ、それが、「日比谷」「戸山」「西」の三高校の一角を占め、遠距離入学、越境入学して、日本全国から受験生が押し寄せ押しかけて来ていた時代があった。
 戦前戦中の、昔の戸山高校は、確か府立四中であり、これが新宿区の大都会に占める、昔から難関進学校だった。
 その卒業生は、陸軍大臣、後の首相を務めた東条英樹など、大秀才、天才ばかりを生み出し、世界の中で活動する者も数多く、各界で広く活躍した。
 母は今、八十台だが、その頃の戸山は、最も難関を極めた、極めて入りにくい、それも母は女子であり、元々戸山は私の母校安積と同じ男子高であり、戦後、特別に、母の時代から、女子も入学を許された。
 母は、その女子入学が許されてから、日もまだ浅い、周りは男子ばかりの、その頃の共学校としては、女子などは、高校も行く人もかなり少ない、男子がかなり幅を利かせていた。
 そこを割って入った母はすごいと言える。そこで、母は、成績は常に優秀であり、クラスメイトからは、母が「お茶の水女子大」を目指していた事などから、母のあだ名が「お湯の水」という名前だったそうな。
 しかし、母の実家の、弁護士一家の母の父、私の祖父が、祖母、私のおばあちゃんを嫌になり追い出し、後家、後妻(ごさい)をもらった。
 その後妻に、母はいじめ抜かれ、まるで、童話の「シンデレラ」の如く、いじめられっ放しの、何も反抗できぬ、自身の高校時代を苦悶苦労の内に過ごした。その心労は、如何ばかりであったろう。
 結局、大学にはゆかず、弁護士の自身の父の家の下を、母愛用の算盤と家の自分名義の印鑑だけを持ち出し逃げ出し、おばあちゃんの家に隠れ逃げ込み、おばあちゃんの経営する看護婦事務所を手伝い母は平安に過ごした。
 (後に、母の父の兄から、その時の母の勇気と、算盤と印鑑だけを持ち出し逃げた事実を聞いた祖父の兄は、高く母を評価した。その忠光伯父さんも、私の祖父と同じ、皆弁護士一家の、そもそも弁護士の祖父の兄弟だった)。
 後に各種学校を自身のアルバイト、会社員事務員で稼いだお金で学び卒業し、全く畑違いの、マックス美容学校卒業後(美容化粧品メーカー、マックスファクターが経営する美容学校)、国家資格の美容師免許を、神奈川県の県知事名にて、昭和の頃、母名義で拝命された賞状証書が額縁入りで、まだうちにはある。
 とにかく、母は苦労人である。その苦労が、今の母からは全然感じられないのが不思議である。年を重ね、角が取れて来たのかは、私自身、全く分からず、私は論を譲りたいと思う。

 以上。

(続き。―その後の、真相。母の真実の御話。美容学校卒業。国家資格の美容師免許取得。美容店経営、父との出会い、私の誕生、他、についての御話。)
母の、第二第三の出身校、「マックス美容学校」の卒業証書の写真画像。皆、難しい英語で横文字でオシャレに書かれている。

その後、母は、今言った、神奈川県の美容師免許を取る。

一般にその当時は、関東地方首都、東京都の美容師免許試験は、オーソドックスと言うか、基本に忠実な、言わば簡単な、誰でも受かる様な、受け甲斐の無い、美容免許であった。

それを嫌った母は、わざわざ応用力・職人技を試され、試験も難関を極めていた、受かる人も本当に少ない、「神奈川県美容師免許」を、難しい美容師試験を受けた。何故かこの当時、神奈川は、非常に試験が難しかった。

 ※話の、中断。閑話休題。それはさておき。私自身の事共。
 同じく、試験の話。神奈川と福島の違い、等。

 とにかく、神奈川県の試験制度は、受験生泣かせばかりである。私も、自身が高校受験生時代、神奈川の受験制度で、実際に大変だな、と思ったのは、神奈川の高校受験は、悪名高い「アチーブメントテスト」と言うのがあった。
 それは、中学時代の、言わば内申点の、試験版というのか、中学時代の早期か中期か後期か、忘れたが、とにかく、中学の時代に、高校受験の大半の大勢が決まる。

 極めて複雑で、受験生泣かせの、独自システムを誇って(?)いた。
 それであったら、そんな試験制度ならば、私の様な、中学二年から、猛烈に勉強に血道を上げるようになった者共、途中から、優等生になった私の様な者は行き場が無い。(かなり、神奈川県でも、そんな例は考慮に入れずに、珍しい、考慮には入れられない、私は生徒扱いなんだろう)

 だから、神奈川では、私の様な、中途で成績が上がったもの向けの私立高校、桐蔭学園高校や、フェリス女学院、他、多数の、私立進学校、県立じゃなく、私立高校が隆盛を極めたのではないか、と私は個人的には思う。
 そのアチーブ何とかが悪い原因となって。神奈川はやり方がバカだ。

 私は、神奈川県の地域では、箸にも棒にも掛からぬ、どこの進学校にも行けない、最悪、最底辺校に行く他無かったのではないか。と、私は、一応、神奈川出身者ではあったので、首一枚、繋がり、福島県に居るお陰様で、福島県、様様であり、何とも、福島県立安積高校などと言う、およそ、一流校(自分で言うのも誠に不遜、不躾で済みません)に入学できたんだなあ、と、ラッキーだったと、住む地域で大分、人生が変わる。

 逆に、底辺校に行ったとしたら、今よりも私自身、人並みに、もっと幸せだったんじゃないのか。この辺のさじ加減が今の私にはさっぱり判らない。

 こんなに日頃から、進学校の高校に行ったお陰で、その後の人生が、良く変わったのか、悪く変わったのか、さっぱり判らない。

 私は、余計な事、複雑に物事を、心配し過ぎたり、考えすぎたり、思い過ぎたりしなくて、良かったのに、と、自身、思う所が多々、ある。

 人生は、誰が、何が、どこで、どこに住む地域かでも、どう変わるか、そこの、(試験制度でも、の)決まり次第、人物評価の仕方次第で、で人生も、大きく代わってくると深く自分自身、思っている昨今。

話しは、また、元に戻る。母の話の、続き。

母もくせ者、へそ曲がりであり、これは、父、母、私、の三人にとっても共通した性格・性質である。

試験会場は、横浜市の開港記念館(確か。これも、今、母に聞かないと判らないが)。

見事、昭和四十五年六月二十九日、神奈川県知事・津田文吾、名にて、一発で受かり、美容師免許状を、拝命頂いた。

他にも、(群馬県)、確か栃木県と茨城県も受け、皆、美容師免許を受かったか、これも母に聞かないと分からないが、とにかく、その当時、(群馬か)栃木も茨城も行ったとは聞き、言っていた。

その後、新宿駅前にて、自分の美容店を出し、美容師として何人も美容師を他にも雇い、美容店経営者となるが、父と巡り合い、結婚。その後は、私が生まれてしまい、私の子育てに追われ、母が二度と、美容師を務めた事は、神奈川県足柄上郡開成町の、近所の美容店で、雇われたとか雇われないとか、噂の域を出ず、多分やってはおらず。うちの母が今、施設にいるので(コロナ禍でもあり)、聞かないとこれも判らず、真相は闇の中で、読者の方々に、真実を申せなくて、誠に申し訳ない限りであるが、話はこれにて、惜しい所だが、お開きとする。長文失礼。

以上。よしなに。wainai


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