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創価ブログ「創価の森の小さな家通信」を破折、善導する

2023年12月05日 08時14分02秒 | 邪教創価学会・邪政治団体公明党・邪顕正会・邪正信会、の邪義を構える異流義共
 インターネットで、創価学会のブログを検索すると、その代表格として、いくつかの創価系ブログが散見される。
 その内で、私が創価時代から、時々見ていたブログが、「創価の森通信」とかいう、欺瞞に満ちたブログであった。
 このブログ、私は、同信者の為、文句は言えずに、その矛盾点を突く事は無かった。
 しかし、我が家では、創価系新聞、「聖教新聞」を取らなくなって、十年以上の、隠れ、未活動の、その代わり同中、同時衛星中継にはその券がうちには人数集めの為、いつも配られていたので、同中には必ず参加した。
 その、創価の我が家の微々たる活動の中で、私の、創価教義に対する疑問点が噴き出すキッカケは、いつの間にか、それが決まった半年か、一、二年の間の後に私は気付いたのだが、とっくに、五座の勤行から、一座、のみの、しかも、長行の如来寿量品が省かれた、方便品と寿量品自我偈のみに限定された、簡略化された代物のお経典に決められ変わっていた点だった。私は新聞も取らず座談会にも出ていなかったので、それを知ったのが今言った通りの事であった。
 それで、私はおかしいと思いつつ、その、創価を代表とするブログ数件に、アクセスしてみた。
 大抵は皆、自画自賛に終始していた。スッキリした、あれだけ長い勤行とおさらばできて、本当に良かった、と。(これには私は不満で、そんな権限が、我々創価という団体には本当にあるのかな、幾ら仏意仏勅の団体、などと名乗ったって、その証拠はどこ?本当に、創価は仏意仏勅の団体なのか?自称に過ぎず、詐称ではないのか?自分で名乗っているだけの、はすっぱな、宗門に破門された強がりを言い募った、新興宗教教団団体に過ぎないのでは?と自分なりに疑問に思っていた。)
 その、「創価の森通信」も、今回の決定は、良かった、とこれも、虎の威を借るキツネの類であり、諸天善神への祈りを無くしたりしたのも良かった。
 長行を無くしたのは、世界広布への布石となる、三師供養で、日目上人がいなくなったのは、これもむしろスッキリして、前よりもより拝み甲斐がある。(そんな事やって、罰が出ないの?幾ら宗門と別れてから、十年以上経ったからって。教義や本尊がコロコロ変わるのは、昭和の頃、それに類した、「立正佼成会」を非難していたのが、自身にブーメランで帰ってこないのかなあ?)
 そうして何より、三師供養よりも、創価にとって大事な、三代会長、牧口・戸田・池田、の歴代会長並びに、創価の万代の繁栄を祈る、などと自己満足、自分勝手、手前味噌、自画自賛の狂態には、この男、「創価の森通信」の男は、諸手を挙げて賛成していた。(大体、三代会長、歴代の内の、池田センセーをも祈願の対象として迎え加え入れるということは、その当時から、池田はその創価版勤行要典では祈っていないのではないのか?自分の名前の記入された経本などに頭を下げて自ら毎日祈りを捧げる池田の姿を想像するだけで、虫酸が走り、笑われるだけの、噴飯ものであり、この時には既に、池田は完全にこの新しい経本の観念文では祈っていないと軽く当時から思っていた。不可能だ。いくら池田神格化を自分が中心になって進めていても、祈りの対象が初代牧口、二代戸田までが関の山であり、池田も当時、私の名前など載せなくても良いと事前に学会内で語り言っていた位だった。私の想像では、誰もが薄々思っただろうが、おそらく植物人間状態か、存命ではないな、と。要するに、創価は泥船だったんだよ。)
 私は、そんな、一応、我が家には、日蓮正宗宗門のお寺から御下附頂き御貸し下げし頂いた、昭和三十年代の日寛上人の御本尊様と、創価のニセ本尊とがうちにはあったが、そんなにいとも簡単に、創価の教義がコロコロコロコロと代わるのを目の当たりにして、何か身が千枚通しで切り刻まれるような痛み、心許なさ、気色の悪さを感じざるを得なかった。何か心がざわめき、落ち着かず、おかしい、という念慮をまずは抱(いだ)いた。
 「創価の森通信」とは、ただの創価幹部のイエスマン、言いなりの部下、配下としか見受けられず、人気取りをそのブログでしていて、今までの「創価マンセー(万歳)!」の記事からも、そうやって、自身の心ない事、矛盾点を指摘されても、言い訳も出来ない程、思考が停止しているのであろう。 
 それも或る一面、可哀想な、ここにも、創価の大なる被害者がいる。救ってやる必要性が、緊急度が増して余りある。
 現世にいる内に、早く、創価の謗法に、気付かせてやらねばならぬ。どんなに本人が、創価の池田や幹部に洗脳されて、御宗門、日蓮正宗を毛嫌いして、大嫌いなのは百も承知。
 その、独善的な態度を、動執生疑を起こして、帰伏させねばなるまい。諌暁して、その非を悟り、判らせるには、これだけのブログ記事を書いて来た手前、かなりの困難を、彼自身、抱えているだろうが、間違っているものは、間違っている。これは、鉄則である。
 その間違いを、その人の人格は護りつつ、その頭の考え方、教義、信ずる心情を、その間違いを指摘して、変えさせる。それを、これこそが正に、日蓮正宗が説く、「折伏」という。
 結局、創価は、昭和の頃の生まれの仇花(あだばな)、新興宗教教団の一団体に過ぎなかったんだ、と気付き思ったのは、それから、又、何年も掛かって、私が自殺未遂という、人生の根本を考えるキッカケが訪れない限りは、私自身、在り得なかった。これが、最終決断に至る、自身の極み、創価を切り捨て、辞めにしたいと切に思い望む、よすがとなった。
 要するに、創価など、その「創価の森通信」なる、愚者の集まりで、ただ、一緒になって同じ傷をなめ合う、今という時を一緒に群れていたいだけの、弱虫共の集まりなんだと思った。こんな時代に、池田という、師匠にするのもはばかられる、実には張りぼての、極悪人間がその、イケダ本人だったとは、後世に、私の場合は、気付くのを譲らねばならなかった。
 しかし、自分でキチンと、自己自身を反省して、見直して、日蓮正宗の御宗門の軍門に帰し伏し、還って来られただけでも、天晴(あっぱ)れ、見事であった、と自分で自分を褒めたくもある。小さな、否、大なる幸せがここにある。
 とにかく、不信謗法、懈怠謗法、慢心謗法、折伏しないのも、これも何かの謗法なんだろう。
 世の不正、世の邪師による、邪義邪説邪道邪法邪教邪宗邪行邪淫を貪り耽り構えた、己心の魔にも、それら邪宗教団(凶弾)にもそれらに、加担するがあまり、塗炭の苦しみに喘いでいる人々の助けとも充分なり得る、法華経の良薬、詰まりは、日蓮正宗の御本尊様が、我らのバックには付いている。
 それには無論、これは全てを代表とする、大御本尊様、御本仏宗祖日蓮大聖人様、歴代上人様方、現御法主上人猊下様、末寺の御住職様、と幾重にも、我ら正宗信徒には、後ろ盾がかなりある。
 それら邪宗邪教の方々にとっても、これこそ、まさしく、日蓮正宗こそが救いの道なのである。これを知っているのと知らないのとでは、天地雲泥の差がある。御利益・功徳が必ずある。それを言い切っても良い。必ずあり、必ずまします。
 それに比べて、創価など、今は亡き、イケダの亡霊の他は、頼るすべもない。全くない。
 今後は集団指導体制に移行するのか、全く五里霧中で、先が見えないが、今後も、大聖人様の仏法僧の三宝観の、仏宝から、僧宝への格下げ、これは、創価が身延化する事を意味する。それだけ、今の創価は、危ない橋を渡ろうとしているのだ。
 これは、創価が、創価大学教授の、とある人間に(名前も忘れた、たしか宮田とか言ったか?)最高幹部たちが、今後の参考に、として、「仏法僧」という、創価が現時に於いて最も悩ましている問題についての考察を、大聖人様を僧の代表とする考え方に立ち、持とうと呼びかけていた、それら代表幹部たちが有難がって講義を受けていた事実は、今後の万人が知る所である。
 創価側も、臆面もなく、それらを公表している。詰まりは、近い将来、御本仏は日蓮大聖人ではなくなり、仏の位は、釈尊、釈迦が占める事を意味し、これからの創価のトレンドとして、その創価大学教授の肝いりで、成し遂げて、教義を、出来るだけ、日蓮正宗色を薄めて行こうとしているのだ。
 そうして、日蓮宗身延派と、結託し、手を結ぶのか。「身延問答」という、私は「人間革命」の中でその事実を学び、戦後の学会の壮大な金字塔ともなった、昭和の頃の創価が日蓮宗身延派にディベート、論争で勝利した、その場の一司会者が、「池田大作」氏その人であった。
 この、自ら打ち負かした、一度は創価の勝利により身延をひれ伏せさせた、その軍門に、果たして今度はどの面下げて、創価は身延に近づき降(くだ)ろうとするのか。
 それに、この時の勝利は、「三大秘法の戒壇の大御本尊」の存在の有る無しが論争の勝利の行方を決定し左右した事実。
 三宝論でも、創価は日蓮正宗の教義を最大限に利用して行使したから、結果勝てた。
 その勝利の現実に泥を塗る。現在の学会の教学等ではたかが知れていて、今、現代で、日蓮正宗と法論を交えても負ける運命であり、日蓮宗身延派とも同じく負けるかひれ伏す運命であろう。
 むしろ、仲良しこよしで、持ちつ持たれつ、迎合に迎合を重ねて、処世術を身に着けた積りの、自己矛盾、自家撞着、自語相違の、最たる、日本を代表する、サギ集団、ウソツキ集団として名を為し残すのが、創価の最期の末路だろう。
 それ位の事、今の創価ならば、思い切って、やったっておかしくはない。充分今から考えられる事だ。
 こうなったら、何でもありの様相を呈してきて、創価自身の自滅化、自らの身を滅ぼす結果となる事は、火を見るよりも明らかであり、その教義の変遷に戸惑う者達は、特別に中央の幹部としてお金をもらっている甘い汁を吸う官僚的職業職員の者だとか、余程の凝り固まったバカでもない限りにおいて、その教団から大量脱会へと向かう道が、それしか学会には残ってはいない事だとは、想像には難(かた)くない。
 すぐさま見通せる、想像、イマジネーション、イマジンに於いても。
 その時、もしも、日蓮大聖人が、仏の地位から、一介の僧侶の地位まで貶められたとしても、それだけ、大聖人様がバカにされても、創価のバカ共は、果たしてそんな傲慢で矛盾に満ち満ちた教義や組織にいつまでも、どこまでも、自語相違なのを納得づくで付いていく積もりなのだろうか。今の創価には大義などは何も何処にもない。公明という、一政治団体も、池田センセー亡き後大義名分を失い制度疲労して確実に壊死し政治寿命が来ているのでは?
 今言った、「創価の森通信」の愚劣者も、創価の寄らば大樹の陰で、日蓮正宗とも、誰の言うことも聞かずに、ただ闇雲に創価上層部のイエスマン、言いなりになり、無駄な人生を過ごしてゆくのが、目に浮かぶようだ。そこには、人生の破滅が待っているだけだ。
 「日蓮を悪しくうやまはゞ、国亡ぶべし」(新編御書一0六六頁、「種々御振舞御書」)との、大聖人様の御金言、御聖訓を反故(ほご)にして、今の日本の、世界の災厄をもたらすのかが、現在の、今後の創価の動向に帰趨して、全てはその双肩に掛かっている事は、言うまでもない。
 それらは、同じ異流義の、顕正会、正信会にも言えるのだが、今日は、創価の事のみの問題提起にして、まずは、筆を、キータッチを止めて、とどめ置く事にする。
以上。よしなに。長文、非常に詫びいるが如く失礼。wainai


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