残念にも昨年2月亡くなり一周忌でもコロナ禍ではお線香をあげに行くこともできない。
最後に会ったのは3年前、名古屋小牧市での大会の時でそれなりに元気であったが、
奥さんより喪中につき新年の挨拶は、、、のはがきを頂く迄は信じることも出来なかった。
藤丸君とは同年輩、出会ったのは最初にできた玄制流本部道場(代々木)で、彼は早稲田大学生でまだ茶帯、
太い体だったが動きは素早く大勢の中で目立った。
私は陸上自衛隊練馬駐屯地から参加し時々顔を合し稽古も一緒、最高師範祝嶺先生と総師範山田晴康先生に教わる。
後期教育終了後、練馬駐屯地から静岡県富士学校須走駐屯地へ配属になった、早速部隊の上層部に話し空手部を
発足し50名の会員で稽古に打込む。設立当時の写真、黒のスーツは山田晴康先生、右は当時20歳の私、中央は橋本中隊長
会員の中には松濤館流、和道流、剛柔流等空手4代流派を稽古して来た者も多く、我が玄制流は知名度も少なく理解させるには時間を要したが、各流派の利点、弱点等が得られたことが体技を創作する基ともなった。
藤丸君と次に会えたのは5年後、中野区新井薬師に移った本部道場、玄制流本部道場としては最後になった道場。
2人道場で寝泊まりし道場生の指導に当たる、彼は2段、私は3段、日中から晩まで稽古、互いに怖いもの知らず藤丸君23歳私は24歳、道場生も多かったが各大学の空手部の学生も良く稽古にやって来た。福島医科大学空手部に思い出が多い、日本躰道協会会長となった小関迪君達である。
しかし、内情は知る由も無いが2年後には道場を閉鎖しなければならなくなった。多くの道場生の稽古場が無くなり藤丸君と話合い2つに分け近くの神社の境内等で指導することにした。
2つの道場は技を競う様になって行く、後屈立からの動きや戦いには利点もあるが不利な場合もある、克服するには運足であり体技であった。この事柄が躰技の想像あり躰道の創造に繋がりに至る。
彼の功績を讃えたい、躰道創立前夜に於いて躰技の創作に関わる数少ない1人です、彼の弟子達により二松学舎大学躰道部、東京城西地区躰道協会、小牧市躰道協会、東京大学躰道等に設立された。
長年に及ぶ友とし又ライバルとして苦楽を共有した仲間であった。脊柱管狭窄症の手術まで付き合うことになったのは何かの縁だろう。