

十方山に着きました。ご覧の好天ですが、山頂には誰もいません。まさに「貸し切り状態」です。
さっそく昼飯の準備、と言っても結びを食べる場所を探すだけです。

昼食を始めるころ内黒峠へのコースから夫婦らしい登山者がやって来ました。「内黒峠からですか?」と問いかけると、「その先の論所まで行っただけです」との返事。
吉和側から登って、山頂の少し先まで足を延ばしてみた、と言うことでした。高齢登山者ですが、なかなかの健脚とみました。
そうこうしているうちに二人組、三人組の登山者が登って来て、やっと十方山の山頂らしくなりました。
それらの写真を順不同で並べます。




ご覧のように展望の良い山です。十方山と言う山名については、、、、、、、
十方とは、言うまでもなく東西南北の四方向と、乾坤良撰の四偶と上下の二方向合わせた方向を言い、〈十方山〉という山名は〈十方の展望をよくすることのできる山〉という意からでたものと思われる。この平坦な山頂からの展望がよかったということは、山名がつけられた頃から、山頂は現在と同じようにササ原であったということなのだろう。
と言う、「西中国山地」(桑原良敏著)の一節を紹介した記憶があります。


この山頂での思い出は色々ありますが、その一つを紹介します。
青春のころですが、ゴールデンウイークのころやって来ると南側の谷すじには雪が残っていました。そのザラメ雪をとって、持ってきた小豆の缶詰と砂糖で「氷金時」の出来上がり。
この氷金時は女性には人気で、タカ長も点数をかせいだものです。

1時間のランチタイムのあと下山開始。またまた一人だけの山歩きになりました。

間もなく最高地点を通過。その手前にある獅子ヶ谷コース分岐点で様子を見ましたが、今は獅子ヶ谷コースを利用する人はほとんどいないようで、笹が茂り始めていました。

しばらく行くとこのように岩を抱いたような木があります。


これは登りの時に撮ったものです。この岩を見て、40年も前に行った「二艘船岩」「四艘船岩」を思い出したのです。
1980年発行の「リュックかついで 広島の山歩き」(中国新聞社刊)に、、、、、
見に行った人の話によると、岩が四つ並び、その岩の上に杉が生えていて、ちょうど四艘の船が帆をかけて走っているように見えるのだそうだ。二艘岩も同じように帆を立てているという。
その表現にひかれて探索に行ったのですが、その場所は広島島根県境の、有名な山など無いマイナーなところ。その岩を見て、近くの千両山に登ったと思っているのですが、その確信が持てないでいる探索行でした。
その本に「あの岩が本当にそうだったのだろうか」とメモ書きしています。タカ長の山歴の中にそのような1ページがあったことをこの岩が思い出してくれたわけです。


周りは裸木状態。秋の陽が射して明るい森になっていました。この森を歩き、、、、、、、


時々はふり返って、傾いて行く秋の陽を感じながら山を下りました。
二軒小屋から山頂への単純往復。登りも下りもコースタイムより3~4分早いだけでした。たくさんの写真を撮りながらコースタイム通り歩ける、そのようなことにチョッピリ自信が持てた山行でした。

ご覧のような記録です。たいした数字ではありません。
ぶらりと独りで出かける山としてはこの程度で十分です。山頂で最初に会った登山者から、90歳を過ぎても山歩きしている人がいる、と聞かされたので、タカ長も「とりあえず90歳まで山歩きを続けると公言としています」と返事しました。
その公言がウソにならないよう頑張ることにします。