食事の後は国道16号の『鑓水(やりみず)』の信号を左折して柚木街道を行きました。
『絹の道資料館』に行きたかったのです。
幕末から明治の初めにかけて生糸産業が盛んだった頃、生糸や絹織物を運ぶための『絹の道』が八王子から横浜港まで続いていたそうです。
生糸は多摩地域や埼玉、群馬などの農家が蚕を飼って産出したわけですが、中継地である鑓水には『鑓水商人』と呼ばれた豪商も存在したそうです。
その一人が八木下要右衛門という人物で、私が持っている1986年発行の多摩の案内本には、『絹の道に屋敷あとの石垣が残っている』
と書かれているのですが、今はそこに資料館が建っています。
所在地 八王子市鑓水989-2
開館時間 9:00~17:00
入館料 無料
休館日 月曜
駐車場 7台
絹の道に関する資料がたくさん展示されていますが、じっくり読む気力が必要です。(笑)
私の心に残ったのは、この『鑓水の由来』
ここから北に向かうと道は左右に分かれ、右の細い道が昔の『絹の道』です。
細い道の先に『道了堂』というお堂があったのですが、以前この付近で新聞ネタにもなるような事件が起き、一時期心霊スポットなどと言われたりもしました。
すっかり古くなった建物は取り壊されたそうですが、多摩の案内本が発行された1986年にはまだ存在していたようで、お堂の絵が差し込まれています。
私たちは資料館から引き返しましたが、資料館の裏庭では梅が満開でした。
白梅の下、赤丸の中には蝶がいます。
蝶の姿のまま冬を越すルリタテハ(瑠璃立羽)です。
帰り道、『野猿峠』を通りました。
マンションの壁に素敵な言葉が書いてありました。
高校生の時から『野猿(やえん)街道』と『野猿(やえん)峠』は日常的に会話に登場していたので、
『のざる』と読む発想すら無かった私にとっては、このべからずは不思議な感激でした。(笑)
『絹の道資料館』に行きたかったのです。
幕末から明治の初めにかけて生糸産業が盛んだった頃、生糸や絹織物を運ぶための『絹の道』が八王子から横浜港まで続いていたそうです。
生糸は多摩地域や埼玉、群馬などの農家が蚕を飼って産出したわけですが、中継地である鑓水には『鑓水商人』と呼ばれた豪商も存在したそうです。
その一人が八木下要右衛門という人物で、私が持っている1986年発行の多摩の案内本には、『絹の道に屋敷あとの石垣が残っている』
と書かれているのですが、今はそこに資料館が建っています。
所在地 八王子市鑓水989-2
開館時間 9:00~17:00
入館料 無料
休館日 月曜
駐車場 7台
絹の道に関する資料がたくさん展示されていますが、じっくり読む気力が必要です。(笑)
私の心に残ったのは、この『鑓水の由来』
ここから北に向かうと道は左右に分かれ、右の細い道が昔の『絹の道』です。
細い道の先に『道了堂』というお堂があったのですが、以前この付近で新聞ネタにもなるような事件が起き、一時期心霊スポットなどと言われたりもしました。
すっかり古くなった建物は取り壊されたそうですが、多摩の案内本が発行された1986年にはまだ存在していたようで、お堂の絵が差し込まれています。
私たちは資料館から引き返しましたが、資料館の裏庭では梅が満開でした。
白梅の下、赤丸の中には蝶がいます。
蝶の姿のまま冬を越すルリタテハ(瑠璃立羽)です。
帰り道、『野猿峠』を通りました。
マンションの壁に素敵な言葉が書いてありました。
高校生の時から『野猿(やえん)街道』と『野猿(やえん)峠』は日常的に会話に登場していたので、
『のざる』と読む発想すら無かった私にとっては、このべからずは不思議な感激でした。(笑)