歌人・辰巳泰子の公式ブログ

2019年4月1日以降、こちらが公式ページとなります。旧の公式ホームページはプロバイダのサービスが終了します。

鬼さんノートその10

2023-03-15 12:07:06 | 月鞠の会
太陽光の横領事件について言えば、もろもろこうなってしまっているからには、非常に現代的な鬼さん事案なのですが、ここに、古代から中世にかけての「鬼」の逸話に扱われないファクターが、一つあります。それは、巨悪とも呼ぶべきこの種の犯罪の事案が貨幣をめぐる事案だということです。現物をまのあたりにしない数字上の取引、あらゆるものと交換可能な貨幣の抽象性。これこそ、現代的に特徴的なファクターではないか。

古代や中古の「鬼」の逸話に、このような、抽象的な貨幣をめぐる犯行は見当たるはずもありません。その一方で、「舌切雀」に見られるような、具体的な物欲を戒める説話は至るところにあります。ですので、貨幣をめぐると言わず、物欲と表現すれば、古代中古の逸話からでも、ある程度、現代のそれに比定できる素材を引き出せるのではないかと思いもするのですが……。

まず、物欲の線で、似た逸話に当たろうとしても、多分、富貴をめがけた鬼の話は、一つも見当たらないのではないか。「舌切雀」は、鬼の話ではなかったし、『日本霊異記』には、上昇志向と物欲が過ぎて、鬼に喰われる女の話があります。つまり、富貴に目が眩むのは、断然、鬼にやられるほうなのではないか。説話の「鬼」は、しばしば強盗殺人を犯しますが、私の、子ども時代の記憶の限り、富貴を求めてそうするのではありませんでした。金持ちの娘をさらって、逸脱自体を欲望し、反逆のためにそうするのでした。物欲は、鬼に喰われる側の、はかない人間だけがもったのではないか。なぜなら、古代の「鬼」は、霊性をもち、生命の超越者であったから。

馬場あき子『鬼の研究』を踏まえるとするならば、「鬼」とは、逸脱者であり、異端者であり、超越者であります。

この定義を、なかでも「超越者」である要件を、ゆるぎないものと捉えるならば、それは具体を凌駕して、オニ、カミと同様の抽象性をもつものでなければなりません。

現代の「鬼」もまた、人間や生命を超越した存在ではないか。人間がそれによって踊らされることはあっても、欲得から引き起こされる事件は、いずれも極端な逸脱であり、何ひとつ超越などしてはいません。カネをめぐる事件は、どこまでいっても人間のしわざの延長であり、ひたすら極端な逸脱でしかないのです。では、いったい、何が現代の、「鬼」なのでしょう。

私は、戦争……有事というデバイスが、現代の「鬼」の正体だと思うのです。
デバイスは、生命を超越しています。

有事という装置、戦争、枯渇や飢餓、パンデミック、大災害、破滅的な不況といった状況をデバイス……装置に見立てたとき、現代の「鬼」は、輪郭をもって見えてきます。そこに、武器と貨幣を注ぐことで、「鬼」なるもののしわざに仕上がるのです。

今が有事であるという「鬼」は、超越者として、欲得の人に取り憑くのです。そのもとは、生命などもたない、抽象の装置なのです。そして、恐ろしいことがつぎつぎと起こるのではないでしょうか。

古代の「鬼」はこのようにして、一見霊性を排除しながら、超越者として、抽象性を保ちつつ現代に生き残っているのです。

現時点、このように仮設しておきます。





.

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする