みなさん、こんにちは
今回も白鳥山成道寺にまつわる伝説について話してみましょう。
前回、成道寺は弘仁5(814)年に最澄(伝教大師)による
十八伽藍の一つとして建立され、境内には"鳴かずヶ池"とか"雨乞いの鳴かずヶ池"と
呼ばれる池があるということを紹介しました(詳しくは8/1投稿分をご覧ください
)
鳴かずヶ池
その"鳴かずヶ池"の北側に、鎌倉時代から南北朝時代のものとみられる
石造七重塔(市指定有形文化財)があります。
かつて九重塔であったとの伝えも…。
この七重塔は、平安時代後期の女官で、美貌と琴の名手として知られる
「小督局(こごうのつぼね)の供養塔」といわれ、悲しい物語が残っています
治承3(1179)年4月上旬のこと、小督局は時の権力者・平清盛の怒りにあい、
剃髪されて京を追放されたため、縁故関係にあった観世音寺(太宰府)の僧を頼り、
侍女2人を伴って九州へと下り、やっとの思いで香春までたどりつきました。
ところが、香春を過ぎたころから雨が激しくなって川がみるみる増水し、
小督はあぶなく溺れそうになったのです。
そのときは、運よく里の人に助けられて成道寺に連れてこられたのですが、
慣れない旅の疲れからか、小督は病に倒れてしまいます
そして、侍女や寺僧の手厚い看護もむなしく、この寺で受けた仏恩に感謝しつつ、
25歳という若さでこの世を去ったということです
小督の薄幸を哀れに思った郡司(ぐんじ・律令制で郡を統治した地方官)が、石工に命じて
九重塔を建てたのが、現在に伝わる小督局の供養塔(成道寺石造七重塔)であるといわれています。
重厚かつ均整のとれた優れた石塔です。
成道寺石造七重塔
ちなみに、下伊田の安養寺跡石塔群のなかに小督局の乳母・お糸(田川の人)の
供養塔との伝えのある石造五重塔があります。
その様式から室町時代のものと考えられています。
お糸は献身的に小督に尽くし、局の他界後に病没したといわれています。
その忠節に心を打たれた尼僧がお糸を偲んで霊を祀ったということです。
下伊田安養寺跡石塔群