田川市石炭・歴史博物館のブログ

〒825-0002 福岡県田川市大字伊田2734番地1
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石炭の運搬 その1 川舟時代

2016年11月29日 | 日記

皆さん、こんにちは。

今回から数回に分けて、地中深くに眠る石炭が消費地まで届けられるまでの、筑豊における『石炭の運搬』についてご説明したいと思います。

明治中期から大正にかけての石炭が手掘りの時代、地下の採掘現場である切羽【きりは】で、鶴嘴【つるはし】を使って掘り出された石炭は、下記の手順で地上に上げていました。

◆先端交換式の「改良鶴嘴」 当博物館の「ふれあい館」復元された昭和の炭鉱住宅内資料室に展示中

1…竹製の「エブ」に、「ガンズメ」という鍬【くわ】などで掻き入れます。

◆「エブ(エビジョウケ)」 当博物館所蔵

2…「エブ」から「スラ」や「バッテラ」という木製や竹製の容器に移し、レールの敷かれた運搬坑道まで引いて行きます。

◆スラを引く女性アトヤマ(助手の意味) 鞍手町歴史民俗博物館展示品



◆スラ(右の容器:ソリつきで150kg~250kg積み位まで、木製や竹製で数種ありました)  鞍手町歴史民俗博物館展示品

◆バッテラ(竹製約40kg積み) 鞍手町歴史民俗博物館展示品

3…スラやバッテラから「炭車【たんしゃ】または函【はこ】」と呼ばれる、レールに乗ったトロッコに積み替えます。

◆明治時代から日本で使われたタイプの木製炭車(0.5~0.7トン積み 車輪は現在ついていません) 当博物館所蔵 

4…炭車は数両を連結して「坑内馬」に引かせて上げたり、機械化された炭鉱では「ワイヤロープ」と「巻上機」を使って引き上げていました。

地上に上げられた炭車の石炭は、選炭機のない時代、桟橋【さんばし】という一段高い所から万斛【まんごく】という大型の篩【ふるい】に流し込んで塊と粉の石炭に分け、その後は人の手で、塊炭に混じった岩石(硬【ボタ】)を取り除きました。

5...選り分けられた石炭は、人手で引く大八車や、レールを使って馬で引く数両の炭車などで、遠賀川流域の各船着き場へ運ばれます。

6...船での輸送には川艜【かわひらた】または五平太舟【ごへいたぶね】と呼ばれる平底の川船が使われ、遠賀川河口の芦屋や若松の積出港まで川で運ばれます。

◆川艜の1/4模型(本物は全長約6メートル・6トン積みで、帆は登りに使用) 当博物館所蔵

7...芦屋や若松に運ばれた石炭は、大型船に積み替えられ西日本各地の消費地へ出荷されました。
石炭は海外にも輸出されており、特別輸出港であった門司港と若松港から輸出されました。

遠賀川と若松がある洞海湾は直接は繋がっていません。
川艜が遠賀川から若松に抜ける際は、現在の八幡西区楠橋にある「寿命の唐戸【じめのからと】」から、堀川という運河を使い洞海湾まで出ていました。

最盛期には6000から8000艘【そう】もの川艜が行き来しており、各炭坑近くの船着場から若松までを約一週間ほどかかって往復しました。
当時の川艜船頭は高給取りだったそうです。
しかし、石炭輸送のために鉄道が敷かれるようになると、石炭の運搬も大きく変わっていきます。

次回、その2は、鉄道時代の石炭の運搬についてのお話です。


たーーーんとあります。

2016年11月24日 | 日記

みなさん、こんにちは!

さてさて、田川市は別名『炭都【たんと】』とも呼ばれていマシタ。

これはもちろん、明治・大正期においては全国の出炭量の約半分を担った筑豊の中でも最大の炭坑であった『三井田川鉱業所』が当地にあったからに由来しています。

この炭都、『たんと』とひらがなで書きますと別の意味にも読めますよネ♪
そう、「沢山食べなさい」とかを「たんとおあがり」と使ったりします。

この『炭都』と『たんと』を掛けまして、田川市の新たなキャッチコピーとポスターが完成いたしました!

キャッチコピーは「たーーーんとあります。田川の魅力を召し上がれ。」デス。



当館にあります田川のシンボル『竪坑櫓』と『二本煙突』や当館所蔵の『山本作兵衛コレクション』の炭坑記録画はもちろん、グルメやお祭りなど、田川の魅力が満載のポスターですネ♪

ちなみに『たんと』って方言なのかなーっと調べてみましたところ、ちゃんとした標準語みたいデス。

古くは江戸時代、井原西鶴【いはら さいかく】の浮世草子【うきよぞうし】の一節にも出てくるので、ムカシから使われてきた言葉なんでしょうネ!




このポスターをご覧いただいてピンとキタみなさま!
ゼヒ、田川にお越しくださいマセ♪

また、博物館もご来館のミナサマに『たーーーんと』ご満足いただけますよう全力でお迎えさせていただきますので、ゼヒゼヒ、当館にも遊びに来てくださいネ!


旧伊藤伝右衛門邸

2016年11月17日 | 日記

みなさん、こんにちは!

いよいよ秋の行楽シーズンとなりまして、当館にもたくさんのお客さま、特にバスツアーの団体さまにお越しいただいておりマス。

本館部分が改修工事のため休館中にもかかわらずのご来館、感謝カンシャでございます。

さて、筑豊を周るバスツアーといえば、季節や旅行会社さんで多少の違いこそあれ、ほとんどのツアーコースに入っておりますのが、当博物館と、飯塚市にあります『旧伊藤伝右衛門邸』デス!

さて、伊藤伝右衛門【いとう でんえもん】といえば、筑豊の炭坑王の一人であり、衆議院議員まで務めた立志伝中の人です。
朝の連続ドラマ『花子とアン』で知られました、俳人で二人目の妻である『柳原白蓮(燁子)』とのエピソードの方が有名ですネ。

しかし、明治・大正・昭和を生き抜いた、筑豊の最後の炭坑王でありまして、福岡銀行の設立や学校・寺社への寄付・寄進など数々の功績のある、筑豊を代表する人物の一人であることは間違いありません。

先日、お休みをいただきまして、旧伊藤伝右衛門邸の写真を撮ってまいりましたので、スコーシだけ紹介イタシマス♪

まず、100mほど離れた場所に大きな駐車場がありますので、お車はこちらへ。


細い路地をテクテク歩きますと、巨大な門がお出迎えしてくれマス。
ちなみにこの前の道路は、小倉から長崎を結んだ『長崎街道』デス。


門に掛かる看板は、元内閣総理大臣で、筑豊の炭坑王『麻生太吉』のひ孫である麻生太郎氏によるものデス。


手入れされた美しい庭は、国指定名勝にもなっております。
ちなみに主屋の左手二階の部屋が白蓮さんの部屋だそうです。


伊藤商店の事務所は、現在白蓮館として、柳原白蓮に関連した展示が行なわれていマス。


明治44年に建てられたとは思えないほどオシャレで開放感のある間取りですネ!
和風と洋風の建築が、絶妙にブレンドされており、現在でも十分通用しそうなデザインがあふれていましたヨ!


これ以上は、ゼヒ、みなさん自身の目でご覧になってくださいマセ♪

また、旧伊藤伝右衛門邸までお越しの際は、ゼヒゼヒ、当館にも遊びにきてくださいネ!


サザエさんと炭鉱

2016年11月14日 | 日記

みなさん、こんにちは!

さてさて、福岡市早良区に『サザエさん通り』というスポットがありマス。



これは、国民的な漫画でありアニメーションでもあるサザエさんの作者『長谷川町子』さんが、福岡市早良区西新に住んでいるときに、すぐ近くにある海岸であった百道浜を散策中にサザエさんのアイディアを思いついたというエピソードから付けられたそうデス。

サザエさんの登場人物が海に関係した名前なのは、百道浜が発案の地だからなんですネー。



さて、サザエさんと炭鉱にどのような関連があるノカ?

長谷川町子さんの著作『サザエさんうちあけばなし』という本にこんな一節があります。

『父は三菱炭鉱の技師からどくりつしてワイヤーロープの仕事をやっていました、ハンサムでかんしゃくもちで貧乏ゆすりのクセがあり、非常な子ぼんのうでした。』

長谷川町子さんは佐賀県の多久市生まれでして、多久市には三菱古賀山炭鉱がありました。
そのことから、長谷川町子さんが13歳のときに早世されたお父上「長谷川勇吉」氏は、おそらく古賀山炭鉱にお勤めだったと思われマス。
その後独立した勇吉氏は佐賀から福岡に居を移し、町子氏が幼少のころから、長谷川家は福岡市に住むようになります。

なお、九州の三菱系炭鉱には古賀山炭鉱のほかにも、長崎の端島炭鉱(軍艦島)、筑豊の飯塚炭鉱、同じく筑豊・田川の方城炭鉱などがありマシタ。

また別の項目には、長谷川町子さんの『祖父が相田炭坑の坑長をしていた』というくだりもあります。

相田炭鉱は現在の福岡県飯塚市にあり、筑豊炭坑王の一人「安川敬一郎」の兄「松本潜【ひそむ】」が開発し、のちに伊藤伝右衛門も経営に参画しています。



このように、サザエさんを生んだ長谷川町子さんには、炭鉱や筑豊に縁があったのですネー。

今週のサザエさんを観られた際は、サザエさんが生まれた地である福岡を、そして炭鉱・筑豊のことにもチョビッと思いを馳せてみてくださいませ♪


祝!友好館協定締結!

2016年11月11日 | 日記

大家好【ダージャーハオ】!(みなさん、こんにちは!)

博物館中国語担当のフィフィです。
先月、台湾との石炭交流の旅といたしまして、本年三回目の訪台をしてまいりました。

今回は、当館の館長も同行いたしまして、これまでの交流のまとめとして、山本作兵衛炭坑記録画と台湾の炭坑を比較する展示会が開催されました。
また、展覧会初日の10月10日には、記念のセレモニーが開催され、その中で、当館と新平渓煤礦博物園區(炭鉱博物館)との『友好館に関する協定書』が調印されました。


※当館の安蘇【あそ】館長(左)と新平渓煤礦博物園区の龔【ゴン】館長(右)

セレモニーでは、日本人も台湾人も一緒に炭坑節を踊り、大盛り上がりでした。



その詳細はまたあらためて学芸員より報告があると思いますが、今回は台湾での食事について書いてみたいと思います。

町の屋台で、台湾のメンを食べまくりです。

見た途端『美味しそう!』と思い、まず食べたのは蝦湯麺【シャタンメン】。



さっぱりとした塩味で、皮を剥いた海老の身がたくさん入っています。
麺の下にも海老がモリモリです。

10月になっても暑い台湾で、湯気がモウモウとしている熱々なタンメンを食べて汗だくになりましたが、とっても美味しかったです。
一杯80元(250円くらい)でした。

次は、泊まっていたホテルの近くにある小さなレストランで食べた半肉半筋煮麺【バンヨウバンチンジュウメン】。

太い麵にたくさんのねぎの千切り、スジの付いた牛肉、短く切った油条【ユウティアオ/中華風長揚げ】が入っており、見るだけで食欲が盛り上がってきました。

時間をかけて煮込んだ牛肉は、噛まなくてものどの中に滑り込むほど軟らかかったです。
濃い醤油味のスープもとっても美味で、次回チャンスがあればもう一回食べに行きたいと思っています。

一杯200元(640円くらい)でした。

食の都である台湾に行かれた際は、ぜひ、美味しい麺を味わってみてください!


山本作兵衛コレクションが持つ意義

2016年11月07日 | 日記

皆さん、こんにちは。

先月のブログ『山本作兵衛コレクションの貴重性』では、「実際に炭坑の坑内で働いた経験者による、視覚的で具体的な記録」としての「山本作兵衛コレクション」炭坑記録画の世界的な貴重性についてご説明しましたが、今回はもう少し踏み込んで、その魅力を探ってみます。

ユネスコ【国際連合教育科学文化機関】の世界の記憶(世界記憶遺産)のホームページでは、「山本作兵衛コレクション」を次のように紹介しています。




「山本作兵衛コレクション」は、明治時代後期から、筑豊の炭坑業ではまだ産業革命が進行していた20世紀初頭までの、日本の発展状況を裏付ける私的記録である。

当該コレクションは、素朴な絵画に説明が書き加えられた構成となっており、文字通り、炭坑の最前線で働いていた一人の男性が、実際に体験した出来事を記述、描写した記録である。

当時の日本の炭坑について記述した文書は、政府や企業などの公式文書によるものがほとんどで、一人の労働者が作成した私的記録は非常に貴重である。

作兵衛氏の絵画には、公的記録では読み取ることができない当時の生々しさや臨場感がある。
当該コレクションは、世界的に歴史的な重要性が高い時代を実際に生きた一人の人間の視点に基づく真正な記録である。

「山本作兵衛コレクション」は、昨年、2015年7月に同じくユネスコの世界遺産に登録された『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』に象徴されるように、世界的にも意義深い『日本の産業革命』、そして近代化の急速な歩みの中で、それを支えた最重要の石炭供給地である筑豊炭田で、ほぼその歴史の主要な過程を一炭坑労働者として生きた人物の視点から記録したものであることに大きな意義があるわけです。

また、「世界の記憶一般指針」の中の「人間社会における思想、発見、業績の展開を表象するもの」という基準にも合致していると高く評価されました。

さらに個人の記録であると同時に、炭坑に携わり近代化を支えた無名の人々の世界共通の「集団が共有する記憶」でもあると考えられています。

同じく世界記憶遺産に登録された『アンネの日記』(オランダ)が、少女個人の日記ではなく迫害された人たちの持つ記憶『コレクティブ・メモリー【collective memory/集合的記憶】』であると同様の意義が、『山本作兵衛コレクション』にも見出されます。

次回は、「山本作兵衛コレクション」の記載内容について、もっと深くお伝えします。


Significance of "Sakubei Yamamoto Collection"

2016年11月07日 | ENGLISH

Hi, there!

We wrote about the universal value of the pictorial records of coal mines in the “Sakubei Yamamoto Collection” as “visual and specific records by a former pit worker who experienced mining underground” in our last blog titled ‘Valuableness of Sakubei Yamamoto Collection.’ We would like to investigate their appeal further this time.

The “Sakubei Yamamoto Collection” is introduced in the website of UNESCO Memory of the World as follows:

 


”The collection of annotated paintings and diaries of Sakubei Yamamoto is a personal testimony to the developments during the late Meiji era and into the later twentieth century, when the industrial revolution was still being acted out in the coal mining industry of Chikuho.

The collection combines naive art with text, informed by diaries written during the events being depicted, painted by a man who lived through the events and worked literally at the coal-face.

It is highly unusual in a Japanese context as a private record created by a working man, whereas the dominant records of the period are official government and business papers.

The Sakubei paintings have a rawness and immediacy that is totally missing from the official record, and the collection is a totally authentic personal view of a period of great historical significance to the world”

The great significance of the “Sakubei Yamamoto Collection” lies in the fact that it is recorded by a person who lived through the main part of the history of Japanese coal mining as a pit worker in the Chikuho Coal Field which played the most important role in the progress of ‘Japanese industrial revolution’ and modernization. The worldwide importance of the above progress is represented by “Sites of Japan’s Meiji Industrial Revolution: Iron and Steel, Shipbuilding and Coal Mining,” which were registered onto the UNESCO World Heritage List in July, 2015.

This collection was also highly prized because it accords with the criterion in the General Guidelines that goes: ‘It charts the evolution of thought, discovery and achievement of human society.’
Additionally, the collection is regarded as “memory shared by a group of people” who were nameless and supported modernization by engaging in coal mining as well as personal memory.

We can find, in the “Sakubei Yamamoto Collection,” the same significance as what we find in Diaries of Anne Frank (Netherlands),” which were also inscribed onto the Memory of the World Register as not only personal diaries of a young girl but also “collective memory” shared by those who were persecuted.

We are going to introduce the detailed contents of Sakubei paintings in the collection next time.

日本語訳はコチラ


山本作兵卫收藏品的意义

2016年11月07日 | 中文(简化字)

大家好!

在上个月的网志里,我们把作为「通过实际有过煤矿内劳动经验的矿工的视角,而产生的具体详细之记录」的山本作兵卫收藏品的贵重性,向大家作了说明。今天,我们在此基础上,与各位一起来探索其感人魅力。

在UNESCO【联合国教科文组织】世界的记忆(世界记忆遗产)的因特网上,介绍「山本作兵卫收藏品」如下。

「山本作兵卫收藏品,是印证了从明治时代后期的筑丰煤炭业以及到产业革命持续发展的20世纪初叶的日本发展状况之个人记录。该当收藏品,由朴素的绘画加上书写说明构成,如文字所述,是根据在煤矿的最前线劳作的一位男性矿工之实际体验而记述、描写的记录。记述有关当时的日本之文书,几乎都是出于政府或者企业等的公式文书,由一名劳动者作成的个人记录因而非常贵重。在作兵卫的绘画中,具有在公式性记录中体会不到的当时的生动气息和临场感。该当收藏品,是基于在世界范围的、在具有高度历史重要性时代实际生活的一个普通人之视点的真正意义上的记录。」

「山本作兵卫收藏品」,同去年7月被UNESCO登录为世界遗产的『明治日本的产业革命遗产 制铁、制钢、造船、煤炭产业』所象征的一样,把在世界范围内意义深远的『日本的产业革命』以及近代化的急速发展中,作为其最重要支柱的煤炭供给地—筑丰煤田的大致历史进程,以一个活生生的普通煤矿劳动者的视点,予以记录。这是该收藏品的重大意义所在。

另外,「山本作兵卫收藏品」,与UNESCO「世界的记忆一般指针」的基准相吻合。即「是对于人类社会之思索、发现、业绩的表征物」。因此,受到高度评价。

尤其是,在作为个人记录的同时,也可以看作是与煤矿相关连的、支撑了日本近代化的众多无名英雄的、世界共通的「集团共有之记忆」。

与同样被UNESCO登录的「安妮的日记」,不是一个少女的个人日记,它是被迫害的人们所共有的「(collective memory)/集团的记忆」之相同的意义,也可以从「山本作兵卫收藏品」中看出。

下个月,我们将就「山本作兵卫收藏品」的记载内容,深入探讨。

日本語訳はコチラ


山本作兵衛收藏品的意義

2016年11月07日 | 中文(繁體字)

大家好!

在上個月的網誌裡,我們把作為「通過實際有過煤礦內勞動經驗的礦工的視角,而產生的具體詳實之記錄」的山本作兵衛收藏品的貴重性,向大家作了說明。今天,我們在此基礎上,與各位一起來探索其感人魅力。

在UNESCO【聯合國教科文組織】世界的記憶(世界記憶遺產)的因特網上,介紹「山本作兵衛收藏品」如下。



「山本作兵衛收藏品,是印證了從明治時代後期的築豐煤炭業以及到產業革命持續發展的20世紀初葉的日本發展狀況之個人記錄。該當收藏品,由朴素的繪畫加上書寫說明構成,如文字所述,是根據在煤礦的最前線勞作的一位男性礦工之實際體驗而記述、描寫的記錄。記述有關當時的日本之文書,幾乎都是出於政府或者企業等的公式文書,由一名勞動者作成的個人記錄因而非常貴重。在作兵衛的繪畫中,具有在公式性記錄中體會不到的當時的生動氣息和臨場感。該當收藏品,是基於在世界範圍的、在具有高度歷史重要性時代實際生活的一個普通人之視點的真正意義上的記錄。」

「山本作兵衛收藏品」,同去年7月被UNESCO登錄為『明治日本的產業革命遺產 製鐵、製鋼、造船、煤炭產業』所象徵的一樣,把在世界範圍內意義深遠的『日本的產業革命』以及近代化的急速發展中,作為其最重要支柱的煤炭供給地—築豐煤田的大致歷史進程,以一個活生生的普通煤礦勞動者的視點,予以記錄。這是該收藏品的重大意義所在。

另外, 「山本作兵衛收藏品」,與UNESCO「世界的記憶一般指針」的基準相吻合。即「是對於人類社會之思索、發現、業績的表征物」。因此,受到高度評價。

尤其是,在作為個人記錄的同時,也可以看作是與煤礦相關聯的、支撐了日本近代化的眾多無名英雄的、世界共通的「集團共有之記憶」。

與同樣被世界記憶遺產登錄的「安妮日記」,不是一個少女的個人日記,它是被迫害的人們所共有的「(collective memory)/集團的記憶」之相同的意義,也可以從「山本作兵衛收藏品」中看出。

下個月,我們將就「山本作兵衛收藏品」的記載內容,深入探討。

日本語訳はコチラ


田川市美術館ニテ

2016年11月03日 | 日記

みなさん、こんにちは!

本日のワタクシ博物館スタッフですが、田川市美術館の受付に座っておりマス♪



ナゼかと申しますと、先日のブログでもお知らせしましたトーリ、当博物館の企画展『炭坑絵画コレクション展 -アジアの視点から-』が、美術館をお借りして、絶賛開催中だからなのデス!



さてさて、今回の企画展の展示内容につきまして、順路に沿ってカンターンにご説明いたしますと。

ギャラリーAにて、まず最初にご覧いただくのは、挿絵画家の斎藤五百枝氏が、大正初期に田川の百円坂倶楽部に滞在して描かれた『炭坑漫画』の貼られた屏風です。
コチラは、当館所蔵の炭坑絵画の中でも最も古いものデス。

次は、田川出身二人の洋画家、石井利秋氏と片岡覺氏の炭坑絵画の大作15点。
その豪快かつ繊細な筆致と迫力をゼヒご覧ください!



続いては、飯塚出身地の画家 立花重雄氏のデッサン画と、立花氏とも交流深かった写真家の橋本正勝氏のボタ山写真のコラボレーションです。

部屋を移りまして、中央展示室では、炭坑絵画の代名詞とも言える、山本作兵衛氏の炭坑記録画を、複製画25点、原画5点を展示しております。

特に原画のうち1点は、山本作兵衛氏がいつも使っていた「画用紙」ではなく、「和紙」に描かれた非常に貴重なものでして、所有者であるご遺族のご協力で、初展示をさせていただいております!


最後は、企画展のタイトルにもあります『-アジアの視点から-』の展示デス!

日本、韓国、ベトナム、台湾といった産炭地の状況についてのパネル展示を行なっておりマス。





特に、日本の炭坑との繋がりが深い台湾とは、先月、台湾北部の新北市平渓区にあります『新平渓煤礦(炭鉱)博物園区』との『友好館に関する協定書』の調印を記念しまして、複製画ではありますが、台湾の二人の画家、李長明氏、洪瑞鱗氏の炭坑絵画も展示しておりマス。

博物館からクルマで五分ほど離れておりますが、ゼヒご覧いただきたい作品が目白押しになっておりますので、美術館の方にも、ゼヒゼヒお越しくださいマセ!

観覧料は無料デス!

みなさまのお越しを、お待ちしておりまーす♪