みなさん、こんにちは!
さて、以前、当ブログでもお知らせさせていただきましたが、いよいよ明日7月30日(土曜日)と明後日7月31日(日曜日)に、第23回となる「懐かしの名画祭」が開催されマス♪
入場料は1日500円デス。
1本500円じゃーありません。
ガンバれば500円で3本見れちゃいます。
なお、今回のプログラムは黒澤明監督の作品三昧です。
「世界のクロサワ」と呼ばれるキッカケにもなった、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞及びアカデミー賞名誉賞(現在の外国語映画賞)受賞作の『羅生門』や、クリントイーストウッドの出世作「荒野の用心棒」としてもリメイク(実は盗作)された、時代劇の最高峰との呼び声も高い『用心棒』など、厳選された4本をご覧いただけマス。
場所は博物館から車で5分ほどの場所にある「田川青少年文化ホール」になります。
★地図★
なお、コチラのイベントは文化庁と東京国立近代美術館フィルムセンター主催の「優秀映画鑑賞推進事業」の一環として開催されておりマス。
当日お配りする「鑑賞の手引」にも記載がありますが、今年、平成28年度は25のプログラム構成で、全国185の会場で開催されます。
今回、田川にはおいでいただけないみなさまも、お近くの会場を検索していただいて、ぜひ、フィルムとスクリーンならではの「映画」を観に行ってみてくださいマセ!
実施会場一覧はコチラから
今回の映画4本は、1948年から1963年に公開されたものですが、この時代は石炭産業が華やかなりし時代でありました。
映画が娯楽の王道であった時代、筑豊の各炭坑町の映画館で、多くの炭坑夫やその家族たちが楽しんであろう作品たちでもあります。
そんな懐かしの名画たちを観に、ぜひ田川に遊びにきてくださいマセ♪
皆さん、こんにちは!
当館のある石炭記念公園には、近代化遺産として、先日ご紹介した竪坑櫓とともに、田川のシンボルである巨大な二本の煙突がそびえています。
三井田川鉱業所の伊田竪坑建設にともない、1908年に完成したこの煙突は、高さ45.45m、直径上部3.1m、同下部5.8mと、現存する明治期の煙突としては最大級のもので、使用された耐火煉瓦はなんと213,000枚、そのうち181,000枚はドイツ製のものと言われています。
東側の、根元に張出のない「第一煙突」は、下部の煉瓦はフランドル積みで、途中からイギリス積みに変わっております。
西側の、根元に張出のある「第二煙突」の煉瓦は全てイギリス積みで造られています。
フランドル積みは明治中期に流行った積み方で、一段に長い辺と短い辺が交互になる様に煉瓦を置き、イギリス積みでは、長い辺だけを並べた段と、短い辺だけを並べた段を交互に積みます。
イギリス積みの方が強度は高いと言われ、明治後期以降に主流となります。
二本の煙突を作っている最中に、流行が変わってしましたのですネー。
煙突の下には、現在は残っていませんが、12基の大型ボイラーが据え付けられた汽缶場(ボイラーハウス)という建物がありました。
蒸気機関車に積まれているものによく似たボイラーで、石炭を燃やして水を沸騰させ、大量の蒸気を作り、竪坑櫓のケージを上げ下げする『巻上機』及び付属設備の動力用蒸気エンジンに送っていました。
つまり、煙突は燃やした石炭の排煙のために建造されたという訳ですネ!
この炭坑の選炭場で生まれた「炭坑節」の歌詞に「あんまり煙突が高いので、さぞやお月さん煙たかろ♪」と歌われています。
当時の人々にとっては、今までに見たこともないほど巨大なものに感じたのでしょうネ!
筑豊炭田の最盛期、規模は様々ですが、各炭坑には煙突があり、それがシンボルになっていました。
坑夫の間で歌われていた「ゴットン節」には「赤い煙突目当てに行けば、米のマンマが暴れ食い♪」という歌詞がありますが、これは『赤い(煉瓦)の煙突(炭坑)のある所へ行けば、白いご飯が沢山食べられるほど稼げるゾ!』といったような意味です。
炭坑の動力は徐々に電気に切り替わり、伊田坑の巻上機も1952年に電化されます。しかし、それ以降もボイラーは病院や炭鉱住宅の給湯用として使われ、煙突は一本のみ煙を上げていましたが、1964年の閉山でついにその役目を終えます。
田川の上に出たお月さんも、ようやく煙突の煙りから開放されたのですね~。
このような大型煉瓦煙突は、老朽化により解体されたりして世界的にも少なくなっており、貴重なものになっています。
ぜひ、この貴重な煙突を見に、田川に遊びに来てください!
Hi, there!
A pair of huge chimneys as modernization-related assets soar into the air in the same way as the shaft head frame which we introduced you the other day, in the Tagawa City Coal Mining Memorial Park where our museum stands.
These two chimneys were completed in 1908 as parts of the Mitsui Tagawa Mining Station which was under construction at that time.
The chimneys 45.45 meters tall and 3.1 meters and 5.8 meters in diameter at the top and bottom are among the largest ones as existing chimneys in the Meiji era (1868-1912).
As many as 213,000 firebricks were used to build them and 181,000 of them are reportedly from Germany.
The bricks of the lower part of the “No.1 chimney” with no overhang at its foot were laid in Flemish bond and the upper part in English bond.
The bricks of the "No.2 chimney" with a surrounding overhang at its foot were thoroughly laid in English bond.
Flemish bond was popular around 1890, in which bricks are laid so that their long sides and short sides appear alternately on the surface of each tier.
In English bond, two types of tiers appear alternately. One is laid so that only long sides appear on the surface, and the other is laid so that only short sides appear.
The latter is reportedly more durable than the former and the latter was mainly used after around 1900.
It can be said that the trend in bond changed in the middle of the construction of the two chimneys.
Though there is no related facility under the chimneys today, a building called kikan-ba (boiler house) with large boilers once stood there.
Those boilers were similar to the ones used for steam locomotives, in which coal was burnt to make large steam.
The steam was sent to engines to move machines for pertaining facilities including winding machines to move up and down the cages of the “shaft head frames.”
In short, the chimneys were built to exhaust smoke from the coal burnt in those boilers!
In the lyrics of the “Tanko-bushi Song,” which was born at the coal dressing room of this pit, the following verses are found:
“The two chimneys are so tall and smoking so badly
that the poor goddess of the moon must be suffocating from smoke.”
The chimneys must have looked largest of all that they had seen before to the people at that time.
In the Chikuho Coalfield’s heyday, each pit had chimneys in different sizes and the chimneys were the symbols of the pit.
The lyrics of the “Gotton-bushi Song” sung by miners have verses that goes “Akai entotsu meate ni yukeba, kome no mamma ga abare gui,” which mean, “If we get a job at a pit with red brick chimneys, we can earn money enough to eat good rice heartily.”
Electricity gradually took place of steam in coal mines, and the winding machines in the Ita Pit were electrified in 1952.
However, the boilers of this pit still supplied hot water for the affiliated hospital and baths for miners and their family members after that, too, and one of the chimneys was used alternately.
The chimneys finally stopped smoking in 1964 when this pit was closed.
“The goddess of the moon” above Tagawa was set free from annoying smoke from the chimneys at last!
Huge brick chimneys like these are rare and invaluable in the world today, because most of them were demolished from decrepitude.
Please come to Tagawa and see these great chimneys!
日本語訳はコチラから
大家好
在当博物馆的煤炭纪念公园,耸立着作为近代化遗产,与前一段时间介绍过的竖坑橹(竖井井架)一样,成为田川市象征的二支烟囱。
随着三井田川矿业所伊田竖井的建设,于1908年完成的这二支烟囱,高度为45.45m,上部直径为3.1m,下部为5.8m,在现存的明治时期的烟囱中是最大级别的。使用耐火砖231,000块,据说其中的181,000块砖,是德意志产品。
位于东侧、根基部分没有突出砖垒砌的「第一烟囱」,其下半部的砖采用了佛兰德斯式垒砌方法,在中途变换为英吉利式。
位于西侧的、根基部分有突出砖垒砌的「第二烟囱」,其砖的垒砌方式全部采用英吉利式。
佛兰德斯式,是流行于明治中期的垒砌法。具体表现为,在同一层中,砖的长短边交互朝外垒砌;
英吉利式,砖是一层长边朝外,然后一层短边朝外,交互向上垒砌。
据说,英吉利式垒砌法强度大,该方法在明治后期,成为主流方法。
可见,在二支烟囱的建设期间,砖的垒砌流行趋势发生了变化。
现在已经看不见了。原来,在烟囱所在位置的下方,有设置了12台大型锅炉的锅炉房。
利用仿佛由蒸汽机车装载而成的锅炉,通过燃烧煤炭使水沸腾,从而产生大量的蒸汽,并把这些蒸汽送往驱动竖井升降机上下的卷扬机和附属设备的动力用蒸汽引擎中。
也就是说,烟囱是为了煤炭燃烧时排烟而建造的。
诞生于煤矿选煤场的「炭坑节(矿坑歌谣)」,其中有歌词「烟囱高耸入云,想必月亮神也被呛着了吧」。
对于当时的人们来说,感觉这烟囱真是迄今为止从未见过的庞然大物。
在筑丰煤田的最繁荣时期,尽管规模不同,但是在各矿坑都有烟囱,成为当地的象征。
在矿工中间流行的「gotton节(矿山歌谣的一种)」中,有「如果去看到红色烟囱之处,就能随心所欲地猛吃米饭。」的歌词,其含义是「如果能去耸立着红砖烟囱的矿坑,我就可以挣到能够酒足饭饱的钱了」。
煤矿的动力逐渐被电气所取代,伊田矿井的卷扬机也于1952年实行了电气化。但是,在那之后,锅炉仍然被用于医院以及煤矿住宅的热水供应。当时,只有一支烟囱还在冒烟。1964年,随着矿山的闭锁,烟囱终于完成了自己的使命。
田川上空的月亮神,好不容易从烟雾缭绕中解放了。
如此高大的砖砌烟囱,由于老朽化逐渐被解体,在全世界范围内也不多见了。越来越成为被珍惜贵重之物。
真诚地邀请您来田川观光游览,瞻仰这珍贵的大烟囱。
日本語訳はコチラから
大家好
在當博物館的煤炭紀念公園,聳立著作為近代化遺產,與前一段時間介紹過的豎坑櫓(豎井井架)一樣,成為田川市象徵的二支煙囪。
隨著三井田川礦業所伊田豎井的建設,於1908年完成的這二支煙囪,高度為45.45m,上部直徑為3.1m,下部為5.8m,在現存的明治時期的煙囪中是最大級別的。使用耐火磚231,000塊,據說,其中的181,000塊磚,是德意志產品。
位於東側,根基部份沒有突出磚壘砌的「第一煙囪」,其下半部的磚採用了佛蘭德斯式壘砌方法,在中途變換為英吉利式。
位於西側的、根基部份有突出磚壘砌的「第二煙囪」,其磚的壘砌方式全部採用英吉利式。
佛蘭德斯式,是流行於明治中期的壘砌法。具體表現為,在同一層中,磚的長短邊交互朝外壘砌;
英吉利式,磚是一層長邊朝外,一層短邊朝外,交互向上壘砌。
據說,英吉利式壘砌法強度大,該方法在明治後期,成為主流方法。
可見,在二支煙囪的建設期間,磚的壘砌流行趨勢發生了變化。
現在已經看不見了。原來,在煙囪所在位置的下方,有設置了12臺大型鍋爐的鍋爐房。
利用仿彿由蒸汽機車裝載而成的鍋爐,通過燃燒煤炭使水沸騰,從而產生大量的蒸汽,並把這些蒸汽送往驅動豎井昇降機上下的捲揚機和附屬設備的動力用蒸汽引擎中。
也就是說,煙囪是為了煤炭燃燒時排煙而建造的。
誕生於煤礦選煤場的「炭坑節(礦坑歌謠)」,其中有歌詞「煙囪高聳入雲,想必月亮神也被嗆著了吧」。
對於當時的人們來說,感覺這煙囪真是迄今為止從未見過的龐然大物。
在築豐煤田的最繁榮時期,盡管規模不同,但是在各礦坑都有煙囪,成為當地的象徵。
在礦工中間流行的「gotton節(礦山歌謠的一種)」中,有「如果去看到紅色煙囪之處,就能隨心所欲地猛吃米飯。」的歌詞,其含意是「如果能去聳立著紅色煙囪的礦坑,我就可以掙到能夠酒足飯飽的錢了。」
煤礦的動力逐漸被電氣所取代,伊田礦井的捲揚機也於1952 年實行了電氣化。但是,在那之後,鍋爐仍然被用於醫院以及煤礦住宅的熱水供應。當時,只有一支煙囪還在冒煙。1964年,隨著礦山的閉鎖,煙囪終於完成了自己的使命。
田川上空的月亮神,好不容易從煙霧繚繞中解放了。
如此高大的磚砌煙囪,由於老朽化逐漸被解體,在全世界範圍內也不多見了。越來越成為被珍惜貴終之物。
真誠地邀請您來田川觀光游覽,瞻仰這珍貴的大煙囪。
日本語訳はコチラから
みなさん、こんにちは!
現在、当博物館は本館が改修中のため、竪坑櫓横の復元炭鉱住宅を部分開館して無料公開させていただいており、一室を使って世界記憶遺産に登録された山本作兵衛翁の炭坑記録画(複製画)も観覧いただいております。
その部屋の出入り口横に、自由にさわっていただける『黒ダイヤ』(石炭)、『白ダイヤ』(石灰石・セメント、漆喰などの原料)、『ボタ』(石炭層に含まれる岩石)の小塊とともに、少し大きめの石が置いてあります。
この石炭は、「重さ当てクイズ」のために置いてありまして、その重さを見事当てられた方には、記念品を差し上げています。
ぜひ、手に持って重さを感じてください。
ピタリ賞はなかなか難しいので、ニアピンでもOKです。
ブログを読まれた方だけに、少しだけヒントを。。。
◆ヒント1
石炭の比重は、その石炭化の進度によって異なりますが、1.2~1.5ほどです。岩石(ボタ)の比重は2.5ほどですので、大体同じ大きさの石の半分くらいの重さになります。
◆ヒント2
この石炭の重さは。。。 500mlのペットボトルよりも重いです!
このクイズ、正解者がなかなか出ない日もあれば、まとめて出る日もあります。
先日、アメリカからご家族(両親、男子中高生、女子小学生2名の計6名)でのご来館があり、英語でご説明して挑戦をお勧めしましたところ、ご両親は外されてしまいましたが、なんとお子さん方は全員正解!
みなさまもご来館の折は、ぜひ挑戦してくださいね!
みなさん、こんにちは!
さて、タイトルの三連橋梁と聞いて、何を連想されますか?
鉄道ファンならば、田川郡赤村の国登録有形文化財「内田三連橋梁(別名:みつあんきょ)」を思い浮かべるのではないかと思われマス。
鉄分控えめのワタクシは、最初にその話しを聞きました際、「三連橋??? 何のコッチャ???」てな感じでしたが、その後、実際に現地に行ってみまして、その素朴な美しさと実用の美に感じ入りました。
※その時のブログ記事はコチラ
「内田三連橋梁」は、カンバンも立っておりますし、通常の観光ルートにも入ってますので、鉄道ファンだけでなく、一般の方にもケッコウ人気モノです。
しかーし。
その影に隠れて(?)いますが、ジツはもうひとつ「三連橋梁」があるんデス!
その名も『中津原(なかつばる)三連橋梁』
内田三連橋梁と『同じく』平成筑豊鉄道田川線(行橋⇔伊田間)にあり、『同じく』三連橋であり、『同じく』1895年(明治28年)に建造であり、『同じく』煉瓦造りであり、『同じく』煉瓦の下駄歯が残ってイマス。
なのになのに。
中津原の方は悲しいほど知られていマセン。。。
ということで、今回はそんな哀愁(?)の中津原三連橋梁の写真を撮ってきましたので、ご紹介いたしマス♪
場所は田川市と香春町のちょうど境界線の辺り。
住所としては、田川郡香春町中津原となります。
ちょうど、平成筑豊鉄道の「ちくまる」のイラストが描かれた列車が上伊田(かみいた)駅から勾金(まがりかね)駅へ向かって走っていきます。
今は一両編成ですが、蒸気機関車で石炭や石灰石を輸送していた時代は、前後2台の機関車を使って、二十両以上の編成で走っていました。
その時代はさぞ壮観だってでしょうネ!
草が生えて見にくいですが、三連橋梁の北西方面には夏吉の三連ボタ山がキレイにみえます♪
北東側を見ると、田川のシンボル香春岳もよーくみえますヨー
三つのアーチのうち、一番東側は人道のトンネル、西側は川が流れており、真ん中は川と水路が通っています。
それぞれに別々の役割があるのが面白いですネ!
内田三連橋梁と同じく、南側の煉瓦は下駄の歯のように出っ張っています。
コレは、将来的な複線化を見越して、煉瓦面の接合をよくするため、このような下駄歯状にしたと言われています。
結果的に複線化されることはなく、そのまま残ったのですが、それが東京オリンピックのエンブレムで話題になった市松模様のようにも見えて、存在感が増しているように思えます。
短いトンネルを抜けると、その向こうも水田が広がっています。
建造されて120年以上が経っていますので、あちらこちらが汚れていますが、いまだに列車が通行できる強度が残っているのがスゴイです!
北側はキレイな煉瓦の模様で装飾されておりまして、切石積みの内田三連橋梁とはまた違った、イイ雰囲気を醸しだしてマス!
こんなにステキなのに、悲しいほどに知名度の低いこの煉瓦のめがね橋。
当博物館からでしたら、車で10分ほどですので、当館にお立ち寄りの際にもしお時間がありましたら、ゼヒゼヒ見に行ってみてくださいマセ!
★地図★
※整備された駐車場はございませんので、周りの住民の方の迷惑にならないよう十分にご注意ください。
みなさん、こんにちは!
さて、ブログのタイトルですが国民的に人気のあるアニメーション映画の名前デス。
ワタクシ博物館スタッフも大ファンで、テレビ放送含め10回くらいは観たと思いマス。
それが田川市石炭・歴史博物館のブログとどう関係があるのかと申しますと、映画をご覧になった方はお分かりと思いますが、物語冒頭の舞台が、実は炭鉱町なんですヨ!
物語がクライマックスを迎える天空の城のイメージがあまりにも強くて、みんな忘れがちではありますが(汗)、主人公とヒロインが出逢う場所は、まぎれもなく炭鉱の竪坑の上なのデス!
※これ以上はネタバレになりますので、未見の方はゼヒ映画でご確認くださいマセ♪
(写真は田川市の伊田竪坑櫓デス)
もちろんコレはSF・ファンタジー映画。
基本的に全て創作なので、現実の炭鉱とは異なりますし、色々な要素を組み合わせて創られていますので、同じ風景が現実に存在するワケではありませんが、制作会社のホームページによりますと、物語の舞台として「大いに参考にした場所」として、『イギリスのウェールズ地方』が挙げられていますデス。
ウェールズと言えば、世界で最初に産業革命を起こした大英帝国(イギリス)の中で、そのエネルギー源となる石炭を供給した産炭地として有名です。
最盛期には600以上の炭鉱があり、特に南ウェールズの石炭は品質が高く、「ブラックゴールド(黒い金)」とも呼ばれ、イギリスの近代化に貢献しましたが、日本と同じくエネルギー革命により閉山が続き、現在はほぼ操業が止まってしまいました。
しかし、近代史に大きな足跡を残した石炭産業を後世に語り継ごうと、現地ではさまざまな取り組みが行われています。
そのひとつが、その『産業景観』が『世界遺産』に登録されている、製鉄・炭鉱の町ブレナヴォン(Blaenavon)にある、閉山した炭鉱をそのまま利用して体験型ミュージアムにした「ビッグピット国立石炭博物館」(Big Pit: National Coal Museum)です。
実際にココで働いていた炭鉱夫がガイドを行い、地下90mまで降りて坑道を歩くアンダーグラウンドツアーが人気だそうです。
上記、ストリートビューを見ていただくと分かりますが、田川の伊田竪坑櫓(いた たてこうやぐら)に何だか似ていると思います。
それもそのはず、先日のブログ記事でもご紹介しました通り、伊田竪坑櫓はイギリス様式で、材料もイギリスから輸入されたものだからなのデス。
遠く10,000km離れた同じ炭鉱町で、同じように竪坑櫓をシンボルに、炭鉱の歴史を伝える博物館として活動していることに親近感が湧きますネ♪
ワタクシもいつの日か訪ねてみたいモノです。
そんな竪坑櫓がお出迎えしてくれる当博物館に、ぜひ遊びに来てくださいネ!
みなさん、こんにちは!
さて、田川市郡には現在8つの自治体があります。
そのうちのひとつが、福岡県で2つだけになってしまった「村(ムラ)」である赤村(あかむら)です♪
(ちなみにもうひとつは、焼き物の小石原焼きで著名な朝倉郡の東峰村(とうほうむら)デス)。
この赤村、筑豊地区ではあるのですが、炭坑の開発が行われなかったこともあり、ムカシもイマも変わらない農業のムラであります。
山間に位置しますが、細長ーい盆地になっておりまして、山から湧き出る豊富で清冽な水もあり、農産物が美味しいことでも有名デス!
そんな赤村から毎週水曜日に、博物館前にあります「シルバー館お・も・て・な・し」さんへ、「新鮮」「うまい」「安い」「安心」の特産物が届けられておりマス♪
晴れた日には、こんな感じで竪坑櫓の前に特設コーナーが設置されます。
(雨の日はシルバー館さんの中で開催デス!)
新鮮なお野菜はもちろん、お漬物などの加工品もたくさん並んでいますヨ!
特に、お漬物はこの世のモノとは思えないほど美味ビミびみでございます♪
だいたい毎週水曜日の9時半前には届きますが、人気の商品は早く売り切れてしまいますので、早めのお越しが吉デス。
お弁当類やお惣菜もリーズナブルで、味付けもベリーナイスですヨ!
どうしても水曜日のこの時間に博物館にお立ち寄りできない皆さまは、ぜひ、赤村まで足を延ばしてみてくださいマセ♪
赤村特産物センターホームページ
美味しい空気と美味しい農産物で、ステキな体験が待ってますヨー。
みなさん、こんにちは!
さてさて。
毎回ブログにて「田川に遊びに来てくださいネ!」とお願いしておりますが、地元の方はともかく、県外の方、なかには福岡県内の方でも、田川がどんなトコロなのかイマイチピンと来ていない方々も多いと思われますので、数回に分けて、田川のコトにつきましてご紹介をさせていただこうというこのシリーズ。
第一回目は、江戸時代末期から明治・大正時代の田川についてデス!
さて、当博物館が所在しますのは、現在「福岡県-田川市-伊田(いた)」という地名です。
江戸時代ならば「豊前国(小倉藩)-田川郡-下伊田村(しもいたむら)」ってな感じです。
(石炭記念公園から見た下伊田地区)
その頃の下伊田村はどんな感じか想像してみましょう♪
★彦山川の沿岸に耕作地が広がっており、農村としてお米などを作っていたでしょう。
★地域の氏神である風治八幡宮の神幸祭は、村人で大賑わいだったでしょう。
★豊前国(小倉)と筑前国(秋月)をつなぐ街道の沿線であり、参勤交代が通ったり、飛脚や旅人なども頻繁に見かけたかもしれません。
★街道は英彦山神社(現英彦山神宮)の参拝路にもつながり、参拝者や商人なども多く通行していたでしょう。
ちなみに「田川市史」によりますと、嘉永五年(1852年)の下伊田村の人口は、ヒト325人、ウマ4頭、ウシ29頭とのことデス。
と、こんな感じで、下伊田村は基本的にはごく一般的な「ザ・農村」でした。
明治維新後、下伊田村は彦山川の川上にあたる上伊田村と合併し明治20年に伊田村へ、同22年、さらに川上の伊加利(いかり)村と合併して、大正3年に町制移行で伊田町が誕生しました。
明治維新まで、主に瀬戸内海の製塩などのために藩による採掘が行なわれていた石炭が、明治6年に施行された「日本坑法」により民間の参入が相次ぎ、中小の炭坑が乱立します。
その後明治15年、乱立する炭坑とそれに伴う乱掘を防止するため、明治政府は「選定鉱区制度」を導入します。
選定鉱区によってひとつの鉱区の開発規模が一万坪以上となったことで、財閥系資本の炭坑経営をうながします。
田川では三井財閥が明治33年、「後藤寺坑」・「大藪坑」・「伊田坑(斜坑)」を買収し、経営に乗り出します。
当初は現田川市西部の弓削田(ゆげた)・後藤寺で炭坑開発が進みましたが、選定鉱区が解除され、豊州鉄道の田川線(行橋-伊田間)の開通で伊田駅が設置されると、「農村」であった伊田の開発も大きく発展していきます。
当時の財閥による炭坑開発にともなって、各種インフラが整備され、人口が集中的に増加したため、炭坑によって都市が形成されていきました。
従業員が住む炭坑住宅、保健衛生のための病院、冠婚葬祭のための寺社仏閣や、保育所や教育のための学校などが炭鉱会社によって作られ、その周りには沢山の商店や飲食店などが集まってきました。
そして大正8年には、三井田川鉱業所の人員は、鉱員数16,438人、職員数571人となっておりました。
このように、炭坑とともに姿が変わっていった田川の町。
次回は、炭坑が最盛期を迎えた昭和時代についてご紹介いたしますネ!