79年前の今日は東京大空襲がありました。
亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
今まで親族や実家家族のことは殆ど語ってきませんでしたが、今日はついでなので書いてみます。
実は私の母方の祖母はこの東京大空襲の、まさにその時その場所にいたのでした。
祖母が昔のことをあまり語ることはしませんでしたが、東京大空襲の話は一度だけ聞いたことがあります。
当時祖母は墨田区に住んでおり、隅田川の近くに住んでいたそうです。
そしてあの日の夜、焼夷弾が降り注ぐ中を命からがら逃げることができたそうです。
隅田川には人がたくさん飛び込んで亡くなった、火のついたまま飛び込む様子を、まさにその場面を目撃していたのです。
身体に火がついて燃えたまま、隅田川に飛び込んで溺れてしまったとのこと。
祖母は大正15年生まれです。
祖母は自分の半生を娘である母にも話すことなく亡くなりましたので、その生涯の一部は謎に包まれています。
まず祖母の変わった点といえば、日本人ですが目がぱっちり二重で、目の色が生まれつき青灰色で、髪は日本人としては赤毛かかった明るめの色だったことです(色も白い、そばかすができやすい)
満州か樺太から引き上げてきたのは6歳の時。
私が中学生の時に上記、東京大空襲の話と共に突然語り出しましたが、当時そのような話に全く興味がなかった私は満州か樺太かどちらか忘れてしまいました。
そしてどうも祖父と結婚する前に(戦前)、一度嫁いでいたようなのです。
因みに祖母は東京の女学校を主席で卒業しています。
なんでも大阪の当時、戦闘機を献上するくらいお金持ちの家に嫁いで、すぐに逃げ帰ってきたのだとか。
塀に囲まれたお手伝いさんが何人もいるようなお屋敷で、すぐに嫌になって逃げ出したのだそうです。
その後、祖父と出会い結婚したようです。
祖父は関東大震災を3歳の時に経験しております。
祖母の話で印象に残っている話として戦時中、女学校の時に東京から長野のお寺に疎開していたところ
ある日の夜、赤い人魂が祖母に向かって飛んできて目の前で消えたのだそうです。
そしてその直後に兄の戦死の知らせが届いたそうです。
それで祖母は人魂は絶対にあるよ、と言っていました。
祖母は華道、書道の師範で晩年は犯罪を犯した青少年のために少年刑務所を回ってボランティアをしていました。
私が高校生の時、ボランティア仲間との慰安旅行中に倒れ帰らぬ人となりました。
まだ60代でした。
因みに父方の私の祖父も長男かつ、当時は師範学校の学生のためか、地元の有力者家系のためか戦争には行っていません。
広島に原爆が投下される直前(1時間前)に広島駅を離れたので難を逃れました。
(多分、広島の師範学校に通学していた)
祖父は後に中学校の校長になりました。
私の苗字は全国的にも珍しいほうで関東では特に珍しい苗字なのですが、父方は代々江戸時代から庄屋をしており大地主だったために、戦後はGHQの農地改革で土地を殆ど没収(強制的に小作農に引き渡す)で没落。
そのため父の家の周囲は小、中学の敷地含め家の土地でした。
祖父は本家の跡継ぎでしたが、俺は家を継がないと言って家を出て行ってしまったので兄弟が跡を継いでいます。
しかもその理由は祖母には許嫁がいたのですが、祖母と駆け落ちをするために祖父も家を出たというのが理由です。
私の苗字をご存知の方は、戦国時代と私の苗字を検索すれば出てきますが、その一族の出自です。
父は元はここ千葉県ではなく、そちらの出身です。
私が高校生の時、アルバイト中にお客さんのお爺さんが突然私に向かって
「あんた、変わった苗字だね。ここら辺の出身じゃないだろう」
「◯◯県だろう」
と言われて、そうですと答えたら
「悪いことはできんな、ハッハッハ」と笑われました。
また20代の頃、仕事中に突然主婦の方に
「あなた珍しい苗字ね。私も旧姓は一緒よ」
その方は都内出身でしたが祖父がやはり◯◯県だとのこと。
他にも同じ苗字の方がいたので出身を尋ねるとやはり◯◯県。
因みに信長の野望というゲームに戦国武将として出てきます。
鎌倉〜室町時代はその地方の豪族、戦国時代を経て江戸時代には庄屋(西日本なので庄屋。関東では名主)でした。
なので父は地域では“しもがわらの坊ちゃん“と呼ばれていました。
かわら(河原)とは近くにある、某有名な橋のかかる川のことでしょうか。
確かにその川の下流域近くに、父の実家があります。
子供の頃、夏休みに祖父の家に行くと明治生まれであろう地域のおじいさん、おばあさん達が祖母に腰を低くして
はるかに年下である祖母に対して、祖母は敬語を使っていないのに敬語で話していました。
その時は非常に違和感がありましたが、事情を知るにつれ、そういうことだったのかと合点がいきました。
祖母は戦前生まれなので、うちはちょっとした家柄なのよと言っていましたが(西日本方面は関東と比較して気にする方も多い気がします。こちらでは例えば西日本では当たり前らしい同和教育もありません)
両親からは一切、家柄を自慢するような言動は聞いたことはありませんでした(そこまで自慢できるような家柄でもないので)
子供の頃、家の先祖を父に聞くと地方の豪族だよ、としか言われませんでした(確かにその通りですが)
そのような環境でしたので私も普段は全く気にすることはありません。
因みに父方の祖母は今も健在でなんと100歳になりましたが、こちらも四国の庄屋の家系で元は武士でした。
やはり戦国時代に山内一豊について四国は高知へ渡り、帰農したそうです。
家系図を見ましたが先祖の出身は岐阜県山縣郡(現在の山県市など)の◯◯荘(荘園、領主)だそうです。
元は1万石の城主であったが、主君を織田信長から豊臣秀吉の家来である山内家の家老某氏に変えたそうです。
曽祖父は明治生まれでしたが、身長が183cmありました(先に書いた父方の祖父は175cm)
実は次男である私の父が、祖母の実家に養子に入り(こちらも珍しい苗字)家を継ぐ予定でしたが、実家の意向で
養子入の話を破談にし、ゴタゴタが起き父は結局跡を継がず断絶。
私の曽祖父(父方の祖母の親)が大変な恨みを文書にしたため、失意のうちにこの世を去りました。
その恨みは大変なもので、曽祖父は広島の諜報機関にいて200人の部下がいたそうなのですが
死後は怨霊となり、200人の部下を引き連れ◯◯城(◯◯は私の苗字)を攻め落とすなどと書いてありました。
その呪いのせいなのか、うちの家系で男系子孫は断絶予定で、残るは女系の私の息子たちのみとなってしまいました。
とはいえ祖父の弟が本家を継いでいて家系自体の断絶はありません。
曽祖父の敷地には私の祖母の姉夫婦が住んでいましたが、その旦那さん(私からみたら大叔父?違いますかね、呼び方がわかりません)は
戦時中に泣く子も黙る関東軍として大陸で従軍していました(士官で職業軍人)
広い曽祖父の敷地に二階建ての離れがあったのですが、そこはちょっとした博物館のようで、大日本帝国陸軍の賞状や勲章が四方の壁一面に飾られていました。
そこに1人の若い、今でいうジャニーズ系?目が大きく二重ぱっちりの顔をした青年が軍服を着て馬に乗って、笑顔のロシア人の子供たちに囲まれて写った写真が飾られており、その人物こそ先に書いた大叔父?でした。
この大叔父と曽祖父の関係はまるで上司と部下のようでした。
泊まりに行くと曽祖父が大叔父にああしろ、こうしろと命令口調で、大叔父はその度に「はっ!」とキビキビとした口調で返事をし、まるで軍隊か何かと錯覚してしまうほどでした。
この大叔父(祖母の姉夫婦)夫婦は子供がおらず、私を大変かわいがってくれ、私が成人後に祖父の葬儀があり、その時に会ったのが最後でした。
祖父の葬儀の際、遠くから視線を感じて振り向くと、そこには大叔父が泣き腫らしたような目に涙を浮かべて無言で私をじっと見ていたのでした。
私や元夫はびっくりして、私は会釈したのですが、今では大変後悔しています。
なぜあの時ちゃんと会話をしなかったのか、たくさん話さなかったのか。
その葬儀から1週間後に大叔父は亡くなったのでした。
(私はバツイチ再婚なので、今の苗字は私の旧姓で夫が婿扱いです)
余談ですが長男の父親つまり、前夫の家は某藩(兵庫県)の勘定奉行の家柄で、殿様に下賜された壺が家宝だそうです。
元夫の祖父は某財閥系メガバンクのバンカー、お祖母さんは明治生まれですが裕福な家の出ということもあり今でいう大卒、英語がペラペラでした。
そのお祖母さんの近くに住んでいたのもあり、当時は親戚付き合いが大変でした。
特にお祖母さんが健在の頃は度々電話があり、夫にゴミ捨てなどの家事をさせるな、妻は3歩下がって云々などの躾が厳しかったことは苦い思い出です。
親戚の集まる正月は病院の敷地にある実家でひたすら料理の準備等で大変でした。
その一方で着物を仕立てていただいたり、何かと気を使っていただきました。
かわいそうなことに元夫の母は、お祖母さんに家政婦のように扱われたり配偶者である元夫の父のモラハラによって
40歳という若さで脳梗塞を発症、半身不随となってしまいました。
この元夫の父親は戦前生まれですが某国立大卒で大企業の部長だったのですが、起業のため退職し
退職金を好き勝手に使いベンツを乗り回し、大企業に勤めていた時は海外駐在(なので元夫も帰国子女、現地の日本人学校に通学)
英語がペラペラなのを生かし家族を置いて海外に単身赴任。
そこで愛人を作ったりと元夫の母は大変苦労したようです。
しかも気に食わないと怒鳴ったり、手を出すこともあったそうです。
完全なモラハラで、そのことも遠因で私は離婚をしました(笑)
随分と話が逸れてしまいましたが、先祖の話を書く機会もなかなかありませんので書いてみました。
亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。
今まで親族や実家家族のことは殆ど語ってきませんでしたが、今日はついでなので書いてみます。
実は私の母方の祖母はこの東京大空襲の、まさにその時その場所にいたのでした。
祖母が昔のことをあまり語ることはしませんでしたが、東京大空襲の話は一度だけ聞いたことがあります。
当時祖母は墨田区に住んでおり、隅田川の近くに住んでいたそうです。
そしてあの日の夜、焼夷弾が降り注ぐ中を命からがら逃げることができたそうです。
隅田川には人がたくさん飛び込んで亡くなった、火のついたまま飛び込む様子を、まさにその場面を目撃していたのです。
身体に火がついて燃えたまま、隅田川に飛び込んで溺れてしまったとのこと。
祖母は大正15年生まれです。
祖母は自分の半生を娘である母にも話すことなく亡くなりましたので、その生涯の一部は謎に包まれています。
まず祖母の変わった点といえば、日本人ですが目がぱっちり二重で、目の色が生まれつき青灰色で、髪は日本人としては赤毛かかった明るめの色だったことです(色も白い、そばかすができやすい)
満州か樺太から引き上げてきたのは6歳の時。
私が中学生の時に上記、東京大空襲の話と共に突然語り出しましたが、当時そのような話に全く興味がなかった私は満州か樺太かどちらか忘れてしまいました。
そしてどうも祖父と結婚する前に(戦前)、一度嫁いでいたようなのです。
因みに祖母は東京の女学校を主席で卒業しています。
なんでも大阪の当時、戦闘機を献上するくらいお金持ちの家に嫁いで、すぐに逃げ帰ってきたのだとか。
塀に囲まれたお手伝いさんが何人もいるようなお屋敷で、すぐに嫌になって逃げ出したのだそうです。
その後、祖父と出会い結婚したようです。
祖父は関東大震災を3歳の時に経験しております。
祖母の話で印象に残っている話として戦時中、女学校の時に東京から長野のお寺に疎開していたところ
ある日の夜、赤い人魂が祖母に向かって飛んできて目の前で消えたのだそうです。
そしてその直後に兄の戦死の知らせが届いたそうです。
それで祖母は人魂は絶対にあるよ、と言っていました。
祖母は華道、書道の師範で晩年は犯罪を犯した青少年のために少年刑務所を回ってボランティアをしていました。
私が高校生の時、ボランティア仲間との慰安旅行中に倒れ帰らぬ人となりました。
まだ60代でした。
因みに父方の私の祖父も長男かつ、当時は師範学校の学生のためか、地元の有力者家系のためか戦争には行っていません。
広島に原爆が投下される直前(1時間前)に広島駅を離れたので難を逃れました。
(多分、広島の師範学校に通学していた)
祖父は後に中学校の校長になりました。
私の苗字は全国的にも珍しいほうで関東では特に珍しい苗字なのですが、父方は代々江戸時代から庄屋をしており大地主だったために、戦後はGHQの農地改革で土地を殆ど没収(強制的に小作農に引き渡す)で没落。
そのため父の家の周囲は小、中学の敷地含め家の土地でした。
祖父は本家の跡継ぎでしたが、俺は家を継がないと言って家を出て行ってしまったので兄弟が跡を継いでいます。
しかもその理由は祖母には許嫁がいたのですが、祖母と駆け落ちをするために祖父も家を出たというのが理由です。
私の苗字をご存知の方は、戦国時代と私の苗字を検索すれば出てきますが、その一族の出自です。
父は元はここ千葉県ではなく、そちらの出身です。
私が高校生の時、アルバイト中にお客さんのお爺さんが突然私に向かって
「あんた、変わった苗字だね。ここら辺の出身じゃないだろう」
「◯◯県だろう」
と言われて、そうですと答えたら
「悪いことはできんな、ハッハッハ」と笑われました。
また20代の頃、仕事中に突然主婦の方に
「あなた珍しい苗字ね。私も旧姓は一緒よ」
その方は都内出身でしたが祖父がやはり◯◯県だとのこと。
他にも同じ苗字の方がいたので出身を尋ねるとやはり◯◯県。
因みに信長の野望というゲームに戦国武将として出てきます。
鎌倉〜室町時代はその地方の豪族、戦国時代を経て江戸時代には庄屋(西日本なので庄屋。関東では名主)でした。
なので父は地域では“しもがわらの坊ちゃん“と呼ばれていました。
かわら(河原)とは近くにある、某有名な橋のかかる川のことでしょうか。
確かにその川の下流域近くに、父の実家があります。
子供の頃、夏休みに祖父の家に行くと明治生まれであろう地域のおじいさん、おばあさん達が祖母に腰を低くして
はるかに年下である祖母に対して、祖母は敬語を使っていないのに敬語で話していました。
その時は非常に違和感がありましたが、事情を知るにつれ、そういうことだったのかと合点がいきました。
祖母は戦前生まれなので、うちはちょっとした家柄なのよと言っていましたが(西日本方面は関東と比較して気にする方も多い気がします。こちらでは例えば西日本では当たり前らしい同和教育もありません)
両親からは一切、家柄を自慢するような言動は聞いたことはありませんでした(そこまで自慢できるような家柄でもないので)
子供の頃、家の先祖を父に聞くと地方の豪族だよ、としか言われませんでした(確かにその通りですが)
そのような環境でしたので私も普段は全く気にすることはありません。
因みに父方の祖母は今も健在でなんと100歳になりましたが、こちらも四国の庄屋の家系で元は武士でした。
やはり戦国時代に山内一豊について四国は高知へ渡り、帰農したそうです。
家系図を見ましたが先祖の出身は岐阜県山縣郡(現在の山県市など)の◯◯荘(荘園、領主)だそうです。
元は1万石の城主であったが、主君を織田信長から豊臣秀吉の家来である山内家の家老某氏に変えたそうです。
曽祖父は明治生まれでしたが、身長が183cmありました(先に書いた父方の祖父は175cm)
実は次男である私の父が、祖母の実家に養子に入り(こちらも珍しい苗字)家を継ぐ予定でしたが、実家の意向で
養子入の話を破談にし、ゴタゴタが起き父は結局跡を継がず断絶。
私の曽祖父(父方の祖母の親)が大変な恨みを文書にしたため、失意のうちにこの世を去りました。
その恨みは大変なもので、曽祖父は広島の諜報機関にいて200人の部下がいたそうなのですが
死後は怨霊となり、200人の部下を引き連れ◯◯城(◯◯は私の苗字)を攻め落とすなどと書いてありました。
その呪いのせいなのか、うちの家系で男系子孫は断絶予定で、残るは女系の私の息子たちのみとなってしまいました。
とはいえ祖父の弟が本家を継いでいて家系自体の断絶はありません。
曽祖父の敷地には私の祖母の姉夫婦が住んでいましたが、その旦那さん(私からみたら大叔父?違いますかね、呼び方がわかりません)は
戦時中に泣く子も黙る関東軍として大陸で従軍していました(士官で職業軍人)
広い曽祖父の敷地に二階建ての離れがあったのですが、そこはちょっとした博物館のようで、大日本帝国陸軍の賞状や勲章が四方の壁一面に飾られていました。
そこに1人の若い、今でいうジャニーズ系?目が大きく二重ぱっちりの顔をした青年が軍服を着て馬に乗って、笑顔のロシア人の子供たちに囲まれて写った写真が飾られており、その人物こそ先に書いた大叔父?でした。
この大叔父と曽祖父の関係はまるで上司と部下のようでした。
泊まりに行くと曽祖父が大叔父にああしろ、こうしろと命令口調で、大叔父はその度に「はっ!」とキビキビとした口調で返事をし、まるで軍隊か何かと錯覚してしまうほどでした。
この大叔父(祖母の姉夫婦)夫婦は子供がおらず、私を大変かわいがってくれ、私が成人後に祖父の葬儀があり、その時に会ったのが最後でした。
祖父の葬儀の際、遠くから視線を感じて振り向くと、そこには大叔父が泣き腫らしたような目に涙を浮かべて無言で私をじっと見ていたのでした。
私や元夫はびっくりして、私は会釈したのですが、今では大変後悔しています。
なぜあの時ちゃんと会話をしなかったのか、たくさん話さなかったのか。
その葬儀から1週間後に大叔父は亡くなったのでした。
(私はバツイチ再婚なので、今の苗字は私の旧姓で夫が婿扱いです)
余談ですが長男の父親つまり、前夫の家は某藩(兵庫県)の勘定奉行の家柄で、殿様に下賜された壺が家宝だそうです。
元夫の祖父は某財閥系メガバンクのバンカー、お祖母さんは明治生まれですが裕福な家の出ということもあり今でいう大卒、英語がペラペラでした。
そのお祖母さんの近くに住んでいたのもあり、当時は親戚付き合いが大変でした。
特にお祖母さんが健在の頃は度々電話があり、夫にゴミ捨てなどの家事をさせるな、妻は3歩下がって云々などの躾が厳しかったことは苦い思い出です。
親戚の集まる正月は病院の敷地にある実家でひたすら料理の準備等で大変でした。
その一方で着物を仕立てていただいたり、何かと気を使っていただきました。
かわいそうなことに元夫の母は、お祖母さんに家政婦のように扱われたり配偶者である元夫の父のモラハラによって
40歳という若さで脳梗塞を発症、半身不随となってしまいました。
この元夫の父親は戦前生まれですが某国立大卒で大企業の部長だったのですが、起業のため退職し
退職金を好き勝手に使いベンツを乗り回し、大企業に勤めていた時は海外駐在(なので元夫も帰国子女、現地の日本人学校に通学)
英語がペラペラなのを生かし家族を置いて海外に単身赴任。
そこで愛人を作ったりと元夫の母は大変苦労したようです。
しかも気に食わないと怒鳴ったり、手を出すこともあったそうです。
完全なモラハラで、そのことも遠因で私は離婚をしました(笑)
随分と話が逸れてしまいましたが、先祖の話を書く機会もなかなかありませんので書いてみました。