天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

産経の靖国神社を考えるを考える

2016-05-02 15:47:59 | 時事

「産経の靖国神社を考える」を考えようと思います。まずこれを要約して最後に私のコメントを載せたいと思います。

要約-------------------------------------------
「A級戦犯」遺族ら、苦悩と葛藤
と題して戦犯とされた者の遺族の苦悩として、何人かの発言を掲載し、皆本人は国民への倫理的な責務として甘んじて刑を受け入れておられ、遺族も納得されておられます。

それだけに、合祀が原因で陛下の御親拝が中断されているとすれば他の英霊に対して申し訳が立たないとのお気持ちで出来る事であれば分祀も吝かではないと皆さん仰っておられます。

元陸軍中尉という戦友が靖国神社にいる立場の方も同様に陛下の御親拝を望まれています。

元宮司の湯沢氏は世論の後押しで叶うのではとされています。

神社側は「分祀あり得ぬ」「元の神霊 存在し続ける」

この回では靖国神社としての分祀は出来ないことの見解に対して福岡県の遺族会が14人の分祀を要望したこと、自民党の国家護持も通らない、最後に英霊を慰霊することの大切さを米国と比較して
強調されています。
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結局の所靖国神社へ天皇陛下の御親拝をしていただきたいだけとの結論に達するのです。

そしてその御親拝を有り難いと感じる者とそうでは無い者の二元論に帰着し、靖国問題として枝分かれして細分化しているだけなのです。

靖国問題を引き起こしているのは御親拝を望まない者なのです。

ですから靖国問題は元宮司の湯沢氏が明言したように、国民が陛下のご親拝を熱望する、そうした世論の後押ししか突破口はないのです。


靖国神社を考える(1)(2)産経ニュース

2016-05-02 12:31:21 | 靖国




産経ニュース2015年8月16日


靖国神社を考える(1)「A級戦犯」遺族ら、苦悩と葛藤

英霊を祭る靖国神社。先の大戦で、兵士らは「靖国で会おう」と誓い合い、死力を尽くした。しかし、内外の批判の対象とされ、天皇陛下のご参拝は40年途絶えたままだ。戦没者をいかに弔い続けるのか。戦後70年、慰霊の場としての靖国を考える。(池田祥子)



「心苦しい…」合祀取り下げ模索も

 極東国際軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯とされ、処刑などになった14人が、当時の宮司の判断で靖国神社に合祀(ごうし)されたのは、終戦から33年余りたった昭和53年10月だった。A級戦犯の遺族らは、それぞれ葛藤や苦悩を抱えながら靖国問題と向き合っている。

 「A級戦犯の合祀を取り下げる方法はないものか。宮司の判断で合祀したのなら、宮司の裁量で取り下げられないものか」

 元陸軍大将・木村兵太郎の長男、太郎(84)は昨年、靖国神社の前宮司・京極高晴、現宮司・徳川康久に相談した。徳川らは難色を示したという。

 「父が靖国に祭られるとは予想もしなかった。ありがたいことだが、陛下のご参拝の障害になっているのならば心苦しい」

 太郎は切実な思いを打ち明ける。

 A級戦犯遺族による合祀取り下げの模索は、過去にもあった。60年8月、中曽根康弘の公式参拝以降、首相の参拝が11年間途絶えた。首相参拝を復活させようと、元陸軍大将・板垣征四郎の次男、正と、戦犯遺族会の会長だった太郎の母、可縫(かぬい)が合祀取り下げを申し入れようとしたが、実現には至らなかった。

 父が戦犯として収監されたのは太郎が15歳のときだ。「戦犯の息子」というレッテルに苦しまなかったわけではない。終戦後、母とともに大阪府東部の人里離れた山間に居を移した。

 「人目を避けたかったということは、僕にも分かりました」

 父は常識的な考えの持ち主だと思っていた。多感な10代は、父への尊敬の念を抱きつつ、国家に対する覚悟も感じ取っていた。

 「戦犯として処刑されることに死ぬ意義を見定め、受け入れていたのだと思う。母も分かっていた」

 最後の面会で太郎は父から一つの人生訓を委ねられた。

 「人の情けにすがるな」

 太郎は今、父の胸中に心をめぐらしている。

「菩提寺で十分」

 「祖父は、軍人でも戦死したわけでもない。菩提寺(ぼだいじ)で十分だと考えており、合祀してほしくないという気持ちはあります」

 A級戦犯の中で文官として唯一処刑された広田弘毅の孫、弘太郎(77)はこう語る。小学4年生だった23年11月、死刑判決を伝えるラジオ放送に両親は泣いていた。

 「これが最後だ。できるだけ顔や言葉を覚えておきなさい」

 両親に連れられ、刑執行前に祖父と面会した。ガラス越しにかけられた言葉は「体に気をつけて勉強しなさい」だった。

 外交官として生き、激動の時代に首相、外相を務めた祖父。指導者の一人として戦争責任はあると感じているが、それは東京裁判が根拠ではなく、国民への倫理的な責務としてだ。

 今、弘太郎は願う。

 「首相は靖国を公式参拝すべきだし、陛下は、行かれずとも御霊(みたま)を追悼しておられると思いたい」

 靖国は、弘太郎にとっても重要な場所だ。

 「国のために尽くした方々に慰霊の誠をささげる場所は靖国しかない。戦没者は靖国に祭られることを願って死んだ。この事実は消せない」

東條の孫という差別

 「曽祖父は『国際法上日本は無罪だが敗戦の全ての責任は自分にある』と語って刑についた。曽祖父に責任があるのは間違いない」

 元首相、東條英機のひ孫、英利(42)はそう語る。小学4年生のころ、母に連れられ映画館で東京裁判のドキュメンタリー映画をみた。

 「『あれがひいおじいちゃんよ』といわれても当時は『へえ、そうなんだ』という感覚でした」

 叔母は東京裁判史観を見直す活動をしていたが、父から曽祖父について聞くこともなかった。10年ほど前、厳格だった父が号泣するのを見た。幼い頃「東條の孫」というだけの理由で差別と偏見にさらされ、自殺を図ったと打ち明けた。

 「背負ったものが大きすぎて、言えなかったんだ」

 父の告白に衝撃を受けた。毎年節目ごとに靖国の社頭で手を合わせる。今でも曽祖父への批判は最も根強い。周囲から分祀について尋ねられることもある。

 「曽祖父に対してわだかまりがある方がいるのは分かる。ただ、安易な感情論で分祀すれば、神社が持つ意味自体がなくなってしまう。政治的な配慮に基づく分祀であれば反対します」

 靖国のA級戦犯合祀をめぐる問題は、今も遺族らに重くのしかかる。英利はこう語った。

 「いろんな思いが靖国という一点に集中しているので、結論を出すのは正直難しい。最後は靖国に示していただくしかないと思うんです」



元陸軍中尉の思い「誰よりも陛下に参っていただきたい」

 「あのときは、みんな『死んだら靖国神社に祭られる』と信じて死んでいったとです」

 昭和12年の日中戦争勃発直後から、ブーゲンビル島(パプアニューギニア)で終戦を迎えるまで、間近で戦闘を見てきた元陸軍獣医中尉の城光宣(じょう・こうせん)(99)は静かに振り返った。

 今も脳裏に、無数の砲弾が飛び交う中で命を省みず敵に向かって進む戦友の姿が浮かぶ。

 「自分の死後、靖国に祭られ、国が家族の生活を保証してくれると安心して、国や国民のためと死んでいったとです」

 城は地元・熊本で戦没者慰霊祭を続けてきたほか、靖国にも何度も足を運び、亡き戦友の御霊に手を合わせてきた。靖国は本来、純粋な戦没者への慰霊・追悼の場であるはずだ。しかし、政治・外交問題として喧噪(けんそう)の渦中に置かれ天皇陛下のご参拝も長くかなっていない。

 城は嘆くように語った。

 「戦没者は『靖国で会おう』と言って死んでいった。あそこに魂があっとです。『天皇陛下万歳』と言って死んだ兵隊もおっとですよ。本当は首相じゃないんです。誰よりも天皇陛下に参っていただきたい」

 昭和天皇は20年11月以降、計8回参拝したが、50年11月を最後に途絶えた。皇太子時代に4回参拝した天皇陛下も即位後はされていない。

 靖国には毎年春と秋の例大祭に、陛下の祭文を神前にささげる「勅祭」を行う勅使が派遣される。ただ、勅祭を行う勅祭社は全国に16社あり、靖国は「勅使の参向は祭儀に関わる大切な神事であり、陛下のご参拝とは全く別の事柄だ」としている。

元宮司「世論の後押しが突破口に」

 平成18年に明らかになった元宮内庁長官、富田朝彦のメモによると、昭和天皇は合祀について「だから私あれ以来参拝していない。それが私の心だ」と不快感を示したという。ただ、ご参拝が途絶えた時期は合祀時期とずれており、明確な理由は定かではない。

 9~16年に宮司を務めた湯沢貞(ただし)(85)は「14人も国のために尽くしたという点では変わりはない。合祀は正式な手続きを踏んでいる」と指摘する。

 湯沢は宮司時代、皇居の勤労奉仕に参加した靖国の神職らが陛下から「御霊についてよろしく頼む」とお言葉をたまわったことを明かし、「靖国を気にかけてくださっていると一同感激した」と語る。

 湯沢は「陛下が戦没者を悼むお気持ちは国民にも伝わっている。だが、靖国をめぐる問題の解決は難しい」とし、「国民が陛下のご参拝を熱望する、そうした世論の後押ししか突破口はないのではないか」との見方を示す。



靖国神社を考える(2)神社側は「分祀あり得ぬ」「元の神霊 存在し続ける」



 A級戦犯の分祀(ぶんし)について靖国神社は宗教上の観点から「不可能であり得ない。どのような議論がされようとも神社の回答に変わりはない」と否定する。

 「靖国に祭られる246万6千余柱の神霊の中から特定の神霊を分霊したとしても、元の神霊は存在し続ける」という。例えれば、コップの水からA級戦犯分の水滴だけを取り除くのは不可能だという考え方だ。

 A級戦犯とされた14人は昭和41年、厚生省から靖国に送られた公務死認定の戦没者名簿に記載された。扱いは保留されていたが53年に宮司になった松平永芳が合祀に踏み切った。それ以来、靖国の姿勢は変わっていない。

 その立場は「英霊顕彰」を掲げてきた日本遺族会からも支持されてきた。遺族会には東京裁判に対し、勝者が一方的に日本を断罪したとして「A級戦犯は連合国が決めたこと」「戦犯はいない」との認識がある。

 しかし、昨年10月、福岡県遺族連合会は「全ての国民にわだかまりなく参拝していただくため、昭和殉難者14柱を分祀すること」を求める決議を採択した。遺族会の支部組織では初めてとなる動きだった。

 同連合会の会長代行、新宮松比古(77)は「国民とともに天皇、皇后両陛下にお参りいただきたいという基本的な思いが出発点だ」と説明する。ミャンマーで戦死した新宮の父は、赤紙一枚で召集された。

 「14人のために(両陛下に)240万人超の英霊に対してお参りいただけない状況になっている。14人をないがしろにするのではなく、靖国以外で祭るのが一番いい方法ではないか」

 こう語る新宮は「中国、韓国への配慮は関係ない。あくまでも国内問題だ。戦後70年の節目に、何とか両陛下のご参拝に道筋をつけたい」と訴える。

 もっとも、こうした動きは大勢ではない。



始まりは戊辰戦争戦没者のため 祭神246万6000柱 身分の別なく

 靖国神社には祖国を守るために命をささげた人々の御霊が将官から一兵卒まで身分の別なく祭られている。明治2年、戊辰戦争の官軍の戦没者を弔うため明治天皇の意向で建てられた東京招魂社が始まりで、明治維新、日清・日露戦争、第二次大戦の戦没者ら祭神は246万6千余柱に上る。

 戦前、靖国は国家に保護されていたが、連合国軍総司令部(GHQ)は国家神道の廃止を命じ、一宗教法人となった。

 自民党は昭和44年以降、靖国を国管理の特殊法人にして英霊追悼の場にする法案を5回提出したが、実現しなかった。

 宗教法人になって以降の首相の参拝は昭和26年10月に吉田茂が初参拝した後、続いたが、政教分離の問題に加え、A級戦犯の合祀が明らかになり、中国から批判され政治・外交問題化するようになった。

 日本と戦ったわけではない韓国は当初、靖国問題についてあまり反応していなかったが、盧武鉉(ノ・ムヒョン)政権時代から中国と歩調をあわせ批判を強めている。

 首相の中曽根康弘は60年、初の首相公式参拝に踏み切ったが、内外から反発を浴び、平成8年の橋本龍太郎まで11年間にわたり首相の参拝は途絶えた。

 小泉純一郎は13年の就任以降、在任中は毎年参拝し、安倍晋三も25年に参拝した。



113万人の遺骨、なお帰還できず 今問われる慰霊の心

 先の大戦の外地での戦没者は約240万人。うち半数近い約113万人分の遺骨は、戦後70年を経てもなお帰還できずに現地に取り残されている。全ての遺骨の収容は現実的には不可能だが、戦没者の慰霊を続けていくことは、いま平和と繁栄を享受しているわれわれ日本人が果たすべき責務だろう。

 日本から遠く離れたガダルカナル島(ソロモン諸島)。苛烈な戦闘だけでなく、壮絶な飢餓や病で2万人超が命を落とした。このうち、約7千人分の遺骨が密林内に放置されたままだ。朽ちかけ土に戻ろうとしている遺骨を目にしたとき、「これが自分であればどうだろう…」と考え、同時に戦没者を忘れてはいけないと痛感する。

 国や家族を思い、過酷な状況で死んでいかねばならなかった人々の気持ちを思えばこそ、遺族や生還者は戦没者を悼み、慰霊を続けている。だが、これまで日本政府は遺骨収集について消極的だった。国民の多くも遺骨の存在を知らず、背を向けてきた。

 米国は「戦死者との約束」として、いまだに国の専門機関が遺骨を収容し、慰霊の誠をささげる。そこに戦勝国と敗戦国の違いはないはずだ。遺骨が戻らないならば、せめて慰霊を続ける。それが「国のため」と尊い命をひきかえにした戦没者との約束ではないか。

 その時に、忘れてならないのは戦没者の思いだ。兵士の多くは「靖国の社頭で会おう」と誓い合い戦地に向かった。靖国神社は戦没者や遺族らのみならず、日本人にとって、やはり特別な場所なのだ。

 靖国は国家が護持してきた。靖国に祭られることとは国に殉ずることであり、国民として最大の栄誉でもあった。かつてそういう時代があり、戦没者とその遺族のよりどころであった。

 靖国の年間参拝者数は平成14年ごろまでは約600万人で推移していたが、遺族らも高齢となり、現在は約500万人。今後、戦前・戦中を生きた人たちはさらに少なくなる。

 「靖国」はもはや政治的、外交的事情と切り離せない宿命を背負う。しかし、時代の変遷にかかわらず、戦没者慰霊の精神は本来、国民一人一人が考えるべきものだ。今こそ「日本人のこころ」が問われている。



【用語解説】A級戦犯 昭和21年、連合国による東京裁判で、共同謀議して侵略戦争を計画、遂行し「平和に対する罪」を犯したとされた日本の指導者ら。28人が起訴され、25人が有罪となり元首相・東條英機ら7人が絞首刑(元陸軍大将、松井石根は共同謀議が無罪で、通例の戦争犯罪で死刑になった)。16人が終身刑、2人が禁錮刑となった。処刑された7人と服役中などに死亡した7人が「昭和殉難者」として合祀された。A、B、Cの区別は明確な法的根拠はなく、連合国側が戦犯を選定する際に用いた便宜的な犯罪カテゴリー。「A級戦犯」という呼称は「通称」にすぎない。裁判自体が国際法を無視しているとの批判も強い。

蛍の光フルバージョン

2016-05-02 10:17:49 | 歴史

今では店舗営業時間の終了時に流す曲としてすっかり定着してしまった蛍の光ですが、明治14年に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編に載せられた歌です。

戦後占領政策でGHQにより、3番4番が封印されました。

1.
蛍の光、窓の雪、
書読む月日、重ねつゝ、
何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く。


2.
止まるも行くも、限りとて、
互に思ふ、千万の、
心の端を、一言に、
幸くと許り、歌ふなり。






3.
筑紫の極み、陸の奥、
海山遠く、隔つとも、
その真心は、隔て無く、
一つに尽くせ、国の為。


「九州の端々、東北の奥」



4.
千島の奥も、沖繩も、
八洲の内の、護りなり、
至らん国に、勲しく、
努めよ我が背、恙無く。


1.千島の奥も 沖縄も 八洲の外の 守りなり(明治初期の案)
2.千島の奥も 沖縄も 八洲の内の 守りなり(千島樺太交換条約・琉球処分による領土確定を受けて)
3.千島の奥も 台湾も 八洲の内の 守りなり(日清戦争による台湾割譲)
4.台湾の果ても 樺太も 八洲の内の 守りなり(日露戦争後)

4番の歌詞は、領土拡張等により文部省の手によって何度か改変されています。


「国の至るところに赴こうとも、勇気を以てその任務をまっとうせよ」

「我が兄弟や、我が友など、信頼の於ける者」