天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

石橋湛山

2016-08-23 08:14:10 | 歴史
靖国神社廃止論で石橋湛山を取り上げましたが、今回は石橋氏の人となりに触れ、再度「靖国神社廃止の儀」を読み返してみたいと思います。



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日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男・省三(せいぞう)として生まれる。

明治22年甲府市立稲門尋常小学校に入学。3年生の時に初めて父と同居する事になる。

明治27年、湛誓が静岡市の住職に転じる事になり、山梨県に在る長遠寺の住職である望月日顕に預けられる。以来実質的な親子の関係は絶たれて、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかったという。

日顕に勧められ山梨県立尋常中学校(後の甲府中学、現在の山梨県立甲府第一高等学校)へ進学する。湛山は二年落第し、7年間在籍する。

明治34年3月には甲府中学校長の幣原坦が退任し、大島正健に赴任する。大島は札幌農学校(現・北海道大学の前身)第一期生としてクラーク博士の薫陶を受けた人物で、大正3年まで甲府中学校長を務めた。湛山は後に『山梨県立甲府中学同窓会報』において大島との出会いを述懐し、自身の人生観に大きな影響を与えたと記している。

晩年に至る迄湛山の枕元には常に日蓮遺文集と聖書が置かれていたという。

明治35年3月に、山梨県立第一中学校を卒業するが、中学を卒業する頃に、湛山と改名している。翌月に、第一高等学校(現・東京大学教養学部)受験の為に上京。その際に、正則英語学校に通った。 だが2回の試験に失敗し、早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して入学した。

明治41年12月に、 毎日新聞社(旧横浜毎日新聞や旧東京横浜毎日新聞で、当時は東京毎日新聞を出している。現在の毎日新聞社とは無関係)に入社した。

明治42年12月には東京麻布の第1師団・歩兵第3連隊に「一年志願」兵として入営する。湛山ははじめ社会主義者と誤解され要監視兵の扱いを受けるが、後に誤解が解け上官・将校とも良好な関係を築き、彼らも湛山の「合理性」を評価したという。湛山は伍長に昇進し、軍曹として除隊した。

明治44年1月には東洋経済新報社に入社するが、同年9月には自らの意思で見習士官として再入営し、最終試験を経て大正2年に歩兵少尉となる。その後は予備役となり、大正5年夏に半月間の機動演習に召集されている。

大正元年11月、東京経済新報社主幹・三浦銕太郎の媒酌で東小松川松江尋常高等小学校の教師・岩井うめ(梅子)と結婚する。

湛山は大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱する。また三・一独立運動をはじめとする朝鮮における独立運動に理解を示したり、帝国主義に対抗する平和的な加工貿易立国論を唱えて台湾・朝鮮・満州の放棄を主張する等(小日本主義)、リベラルな言論人として知られる。

大正13年12月に第五代主幹となり、翌年1月には代表取締役専務(社長制となるのは、1941年以降)に就任する。また同年から昭和11年まで鎌倉町議会議員を務めた。

行政では、中央集権・画一主義・官僚主義との訣別を主張した。

日中戦争勃発から敗戦に至るまで『東洋経済新報』誌上にて長期戦化を戒める論陣を張っている。
同誌は署名記事を書く事が困難だった多くのリベラリストにも匿名での論説の場を提供した。同誌は政府・内務省から常に監視対象にされてインクや紙の配給を大きく制限されたが廃刊は免れた。

日本敗戦直後の昭和20年8月25日には、論説「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」で科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする先見的な見解を述べ、10月13日『東洋経済新報社論』で、「靖国神社廃止の議」を論じて靖国神社の廃止を主張している。

東京裁判ではGHQ・検察側が、高橋是清の経済政策が戦争に結びついたと主張したが、それに対し石橋は弁護をした。石橋は、高橋是清の政策はデフレ不況を脱出するための政策であり、軍備拡張にはつながっていない、明治以来の政策と軍備拡張の政策は違うと主張したが、裁判では採用されなかった。

戦後すぐに日本社会党からも総選挙出馬を誘われたが断り、昭和21年に日本自由党から総選挙に出馬して落選するものの、第1次吉田内閣の大蔵大臣として入閣した。

大蔵大臣在任時にはデフレーションを制える為のインフレーションを進め、傾斜生産(石炭増産の特殊促進)や復興金融公庫の活用を特徴とする「石橋財政」を推進した。

そして戦時補償債務打ち切り問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立する。進駐軍経費は賠償費として日本が負担しており、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費も含んでいて日本の国家予算の3分の1を占めている。このあまりの巨額の負担を下げる様に、石橋は要求する。アメリカ合衆国は諸外国の評判を気にしたことと以後の統治をスムーズに進行させることを考慮して、日本の負担額を2割削減することとなった。

戦勝国アメリカに勇気ある要求をした石橋は国民から“心臓大臣”と呼ばれるもアメリカに嫌われ、昭和22年に第23回衆議院議員総選挙で静岡2区から当選したが、公職追放令によりGHQによって公職追放された。この公職追放は吉田茂が関わっていると云われた。
昭和26年の追放解除後は、吉田の政敵であった自由党・鳩山派の幹部として打倒吉田に動いた。この時期立正大学から懇請されて、学長に就任した。

昭和29年の第1次鳩山内閣で通商産業大臣に就任した。昭和30年には商工委員会委員長田中角栄のもと、戦後の財閥解体の根拠法令のひとつであった過度経済力集中排除法を、独占禁止法と置き換える形で廃止した。昭和30年11月には、日中輸出入組合の結成を支援した。

石橋は中華人民共和国、ソビエト連邦との国交回復などを主張したが、アメリカの猛反発を受ける。アメリカのジョン・フォスター・ダレス国務長官は「中共(中華人民共和国)、ソ連との通商関係促進はアメリカ政府の対日援助計画に支障をきたす」と通告してきた。このアメリカの強硬姿勢に動揺した鳩山一郎首相に対し、石橋は「アメリカの意向は無視しましょう」と言った。

同年11月15日の保守合同により、鳩山の日本民主党と吉田から継承した緒方竹虎の自由党が合同し自由民主党が結成され、石橋も合流入党した。

昭和31年10月19日に日本とソビエト連邦が日ソ共同宣言により国交正常化するも、同年12月、鳩山首相が引退。これを受けてアメリカ追従を主張する岸信介が自民党総裁選に立候補、これに対し石橋は社会主義圏とも国交正常化することを主張、鳩山派の一部を石橋派として率いて立候補した。

総裁選は岸に7票差で競り勝って総裁に当選、12月23日に内閣総理大臣に指名された。しかし岸支持派とのしこりが残り、更に石橋支持派内部においても閣僚や党役員ポストの空手形乱発が行われ、組閣が難航したため、石橋自身が一時的に多くの閣僚の臨時代理・事務取扱を兼務して発足した(一人内閣)。

親中派でもある石橋政権の樹立によって日本を反共の砦とするために岸を望んでいたアメリカ大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは狼狽したという。
「党内融和の為に決選投票で対立した岸を石橋内閣の副総理として処遇すべき」との意見が強かったため、副総理は岸が就任した。

内閣発足直後に石橋は全国10ヵ所を9日間でまわるという遊説行脚を敢行、自らの信念を語るとともに有権者の意見を積極的に聞いてまわった。
しかし帰京した直後に自宅の風呂場で倒れた。軽い脳梗塞だったが、副総理格の外相岸信介がただちに総理臨時代理となったが、2ヵ月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。

石橋の首相在任期間は65日で、東久邇宮稔彦王・桂太郎・羽田孜内閣に次ぐ歴代で4番目の短さである。日本国憲法下において、国会で一度も演説や答弁をしないまま退任した唯一の首相となった。後任の首相には岸が任命された。

退陣後 幸い脳梗塞の症状は軽く、若干の後遺症は残ったものの石橋はまもなく政治活動を再開するまでに回復した。

昭和34年9月、岸より「同盟国アメリカの意思に反する行為であり、日本政府とは一切関係ないものとする」と牽制されながらも中華人民共和国を訪問した。前首相・衆議院議員とはいえ政府の一員ではない石橋は訪問してから数日はなかなか首脳と会える目処はつかなかったが、交渉に苦労の末、同月17日周恩来首相との会談が実現した。

冷戦構造を打ち破り、日本がその掛け橋となる日中米ソ平和同盟を主張。この主張はまだ国連の代表権を持たない共産党政権にとって国際社会への足がかりになるものとして魅力的であり、周はこの提案に同意。周は台湾(中華民国)に武力行使をしないと石橋に約束した。

「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。昭和35年、大陸中国との貿易が再開した。この声明が後に日中共同声明に繋がったともいわれる。

その後も少数派閥ながら石橋派の領袖として影響力を持ち、岸が主導した日米安保条約改定には、本会での議決を欠席するなどして、批判的な態度をとり自民党内ハト派の重鎮として活躍したが昭和38年の総選挙で落選し、そのまま政界を引退した。

昭和41年2月には手足に麻痺を感じ聖路加病院に入院、同年11月の自民党幹部・大久保留次郎の葬儀に参列したのを最後に外出記録はない。一切の社会的活動から引退した。昭和45年2月にも再び肺炎で聖路加病院に入院し、その後は鎌倉の娘宅や中落合の自宅で療養することになる。また、晩年にはキリスト教の洗礼も受けた。

昭和46年7月にはアメリカ大統領の特使ヘンリー・キッシンジャーが訪中し周恩来と会談すると、米中対話を支持するメッセージを発表している。また、翌昭和47年7月には田中角栄内閣が成立し日中国交正常化への機運が高まっていたが、田中は訪中以前に中落合の石橋宅を訪れており、田中訪中の結果日中国交正常化が成立すると、石橋はこれを祝賀するメッセージを発表している。

その後は病状が悪化し、昭和48年4月25日午前5時に脳梗塞のため自宅で没した。
享年88




大正十年 『東洋経済』社説

【一切を棄つるの覚悟】
我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。




石橋湛山
【靖国神社廃止の議 難きを忍んで敢て提言す】

甚だ申し難い事である。時勢に対し余りに神経過敏なりとも、或は忘恩とも不義とも受取られるかも知れぬ。併し記者は深く諸般の事情を考え敢て此の提議を行うことを決意した。謹んで靖国神杜を廃止し奉れと云うそれである。
 靖国神社は、言うまでもなく明治維新以来軍国の事に従い戦没せる英霊を主なる祭神とし、其の祭典には従来陛下親しく参拝の礼を尽させ賜う程、我が国に取っては大切な神社であった。併し今や我が国は国民周知の如き状態に陥り、靖国神杜の祭典も、果して将来これまでの如く儀礼を尽して営み得るや否や、疑わざるを得ざるに至った。

殊に大東亜戦争の戦没将兵を永く護国の英雄として崇敬し、其の武功を讃える事は我が国の国際的立場に於て許さるべきや否や。のみならず大東亜戦争の戦没者中には、未だ靖国神杜に祭られざる者が多数にある。之れを今後従来の如くに一々調査して鄭重に祭るには、二年或は三年は日子を要し、年何回かの盛んな祭典を行わねばなるまいが、果してそれは可能であろうか。啻に有形的のみでなく、亦精神的武装解除をなすべしと要求する連合国が、何と之れを見るであろうか。万一にも連合国から干渉を受け、祭礼を中止しなければならぬが如き事態を発生したら、都て戦没者に屈辱を与え、国家の蒙る不面目と不利益とは莫大であろう。
 
又右の如き国際的考慮は別にしても、靖国神杜は存続すべきものなりや否や。前述の如く、靖国神杜の主なる祭神は明治維新以来の戦没者にて、殊に其の大多数は日清、日露両戦役及び今回の大東亜戦争の従軍者である。然るに今、其の大東亜戦争は万代に拭ふ能はざる汚辱の戦争として、国家を殆ど亡国の危機に導き、日清、日露両戦役の戦果も亦全く一物も残さず滅失したのである。遺憾ながら其等の戦争に身命を捧げた人々に対しても、之れを祭って最早「靖国」とは称し難きに至った。とすれば、今後此の神社が存続する場合、後代の我が国民は如何なる感想を抱いて、其の前に立つであろう。ただ屈辱と怨恨との記念として永く陰惨の跡を留むるのではないか。若しそうとすれば、之れは我が国家の将来の為めに計りて、断じて歓迎すべき事でない。
 
言うまでもなく我が国民は、今回の戦争が何うして斯かる悲惨の結果をもたらせるかを飽まで深く掘り下げて検討し、其の経験を生かさなければならない。併しそれには何時までも怨みを此の戦争に抱くが如き心懸けでは駄目だ。そんな狭い考えでは、恐らく此の戦争に敗けた真因をも明かにするを得ず、更生日本を建設することはむずかしい。我々は茲で全く心を新にし、真に無武装の平和日本を実現すると共に、引いては其の功徳を世界に及ぼすの大悲願を立てるを要する。それには此の際国民に永く怨みを残すが如き記念物は仮令如何に大切のものと錐も、之れを一掃し去ることが必要であろう。記者は戦没者の遺族の心情を察し、或は戦没者自身の立場に於て考えても、斯かる怨みを蔵する神として祭られることは決して望む所でないと判断する。
以上に関連して、茲に一言付加して置きたいのは、既に国家が戦没者をさえも之れを祭らず、或は祭り得ない場合に於て、生者が勿論安閑として過し得るわけはないと云うことである。首相宮殿下の説かれた如く、此の戦争は国民全体の責任である。併し亦世に既に論議の存する如く、は国民等しく罪ありとするも、其の中には自ずから軽重の差が無ければならぬ。少なくも満州事変以来事官民の指導的責任の住地に居った者は、其の内心は何うあったにしても重罪人たることを免れない。然るに其等の者が、依然政府の重要の住地を占め或は官民中に指導者顔して平然たる如き事は、仮令連合国の干渉なきも、許し難い。靖国神社の廃止は決して単に神社の廃止に終るべきことではない。

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鎌倉時代、世は末法を呈していた。なぜならば、鎌倉時代に端を発する武家社会の萌芽と台頭、北条氏と天皇・上皇による権力闘争、元寇の来襲などで社会は混乱し、荒れていたからです。
そんな時代に日蓮宗は始まりました。

仏教を一言でいうならば、"ロマンチック"です。人の寿命は見かけの生死を超えた、無限の未来へと続いていく久遠のものと考えます。そんな僧侶の父から絶縁状態にあっても湛山は父親に感謝しています。

明治、大正、昭和、明治期勝ち戦で一等国となった日本は軍縮の大正を迎えその反動とも言える昭和期へと右、左、右と激動します。そんな世の中とは逆向するように湛山は軍人を志願し、ジャーナリストとして反戦を訴えます。

「満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる」とあるように、国策に水を差すような言論を繰り返します。

この様な天邪鬼ともとれる行動は煩悩を消すという仏教の教えが色濃く影響しているとみて間違いないでしょう。

時代に逆向するような湛山の主張は日本の敗戦から受け入れられた訳でないのは"一人内閣"からしてもわかりますが、GHQさえ取り壊しを躊躇った靖国神社を日本人の手で廃止の方向へミスリードする態度は流石他教を排斥する日蓮宗の僧侶の子供であると痛感します。

このように靖国神社に於ける日本人の反靖国の根源は東京裁判史観という米国からの圧力と同時に神道を邪教視する仏教的視点からの捉え方が強く影響していると感じます。