大野威研究室ブログ

おもにアメリカの自動車産業、雇用問題、労働問題、労使関係、経済状況について、最近気になったことを不定期で書いています。

杉原千畝記念館に行ってきた

2019年08月17日 | 日記


 先日、実家近くにある八百津町(やおつ)の杉原千畝(ちうね)記念館をはじめて訪れた。
 杉原千畝氏は、リトアニア駐在外交官時代、外務省の意向に逆らいユダヤ人にビザを発行したことで、戦後、外務省を事実上のクビになった人物。
 外務省の意向に反して行動した人物ということが大きかったのであろう、昔は地元でもほとんど知る人がいなかった。記念館には、当時の松岡洋右外務大臣名で送られた正規の資格のない者にビザ発行を認めるなとの趣旨の電報が展示されている。
 しかし、映画シンドラーのリストのヒットやいわゆる「日本すごい」ブームによって、いまでは多くの人が知るところとなっている。
 ところで、杉原氏がリトアニアに駐在した1940年、外務次官に就任したのが同じ岐阜出身の大橋忠一。1940年、松岡洋右は外務大臣に就任すると、多くの外交官を退職させ外務省の人事を一新。その松岡が外務次官に任命したのが大橋だった。杉原氏はヨーロッパに向かう前、満州国外交部にいたが、大橋はそのときの上司でもあった。
 実はこの大橋は母方のとおい遠戚にあたる。杉原氏にかんする本を読んでも、次官時代の大橋のことは出てこないのであるが、杉原氏のビザ発行に大橋がどのような立場だったか少し気になる。日独伊三国同盟の締結を控えていたのでビザ発行には同意できなかったと思うが、杉原氏の有能さは外務省でおそらく最もよく知っていたと思う。大橋は、1941年に外務次官を辞めモンゴルに転出。短い期間、蒙古連合自治政府最高顧問を務めている。
記念館から見える八百津町


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